第2話 契約者は、墓地から歩き出す
目を覚ましたとき、わたしは見知らぬ天井を見ていた。
古びた木の梁、そこから下がる干し草の束。鼻をくすぐる土と薬草の匂い。井戸の底でも、村の自分の部屋でもない、どこかの小屋の中だった。
「お、起きたか」
声のした方を見ると、椅子に逆さまに座った死神が、こちらを興味深そうに眺めていた。コートは脱ぎ、ただのシャツ姿になっている。指先には、なぜか蜂蜜がついていた。
「……何してるんですか」
「指を舐めていただけだが」
「死神って、蜂蜜舐めるんですか」
「死神である前に、私だ。個人の趣味に文句を言われる筋合いはない」
「いえ、ただ、もっと厳かなものを想像していたので」
「お前、人を見た目で判断する悪い癖があるな。ついさっき死んだばかりのくせに」
「死んだばかりだからこそ、もう少し緊張感のある状況を期待してたんです」
軽口を叩きながらも、ロウは指についた蜂蜜を布で拭うと、すっと真顔に戻った。その切り替えの早さに、わたしはまだ慣れない。
部屋の隅で、何かが動いた。見ると、痩せた黒猫が一匹、ロウの足元にすり寄っていた。ロウは何も言わずに、自然な仕草でその喉元を撫でている。死神らしからぬ、ひどく優しい手つきだった。
「猫、好きなんですか」
「……気のせいだ」
「今、思いきり撫でてましたよね」
「うるさい」
わたしは思わず笑いそうになった。何百年も生きているらしい死神が、猫の前ではただの世話焼きになるという事実が、なんだか妙に人間くさく感じられた。笑うつもりなんてなかったのに、この状況で笑えてしまう自分が少し不思議だった。
わたしは身体を起こして、自分の手のひらをじっと眺めた。見た目は生前と大して変わらない。ただ、皮膚の下に薄く透ける血管の色が、かすかに青みがかっている気がする。胸元の紋様は、今は光を放っておらず、薄く浮かび上がって見えるだけだ。
「わたしの身体……何か、変わっていますか」
「お前はもう、完全な生者じゃない。半分死神、半分人間。私たちの世界では『境界人』と呼ぶ。日光には弱くなるし、傷の治りは早くなる。体温が下がり、食べ物はほとんど必要なくなる。眠りも浅くなるが、疲れも取れやすい。それに――」
ロウは、わたしの目を覗き込んで、にやりと笑った。
「死の気配に、誰よりも敏感になる。誰かが死にかけている場所、誰かが死を企んでいる場所が、なんとなく分かるようになるはずだ。役目を果たすには、ちょうどいい力だろう?」
「ちなみに、幽霊は見えるようになるんですか」
「当然」
「……それ、先に言ってください」
わたしは思わず自分の腕をさすった。死神の半身になったというのに、幽霊と聞いた途端に背筋が冷えるのだから、我ながら現金なものだと思う。
「死神になっておいて、幽霊が怖いのか」
「死神になったことと、幽霊が苦手なことは、別問題です」
「面白い理屈だ」
ロウは、心底愉快そうに笑った。最初に見た酷薄な微笑みとは、少し違う種類の笑い方だった。
「ロウ。ひとつ訊いていいですか」
「何だ」
「わたしみたいな境界人を、ロウは今まで何人蘇らせたことがあるんですか」
ロウは、蜂蜜の瓶を棚に戻しながら、少しの間を置いた。
「お前が二人目だ」
「最初の人は」
「死んだよ。人間はいつか死ぬ。境界人であっても、そこは変わらない。ただ、少しだけ時間がかかる場合もある」
その答えは、思っていたよりもわたしの胸に刺さった。最初の一人が何者で、どんな目的を持っていたのか、訊こうとして、やめた。ロウの声に、わずかに何かが滲んでいた気がして。その滲みを、これ以上広げるのは今ではないと思った。
「それで、これから何をすればいいんですか」
「まずは、村に戻る。ただし、堂々と正面からではない」
ロウは懐から、古びた紙の地図を取り出した。村の周辺の地形が描かれ、ところどころに見慣れない印がついている。
「この村が『大災厄』を地下に封じている、という話はしたな。だが、贄を捧げるだけで本当に封印が保てるなら、千年もの間、村が同じ家系によって牛耳られている理由が説明できない。お前を贄に選んだ長老たちの背後には、もっと大きな組織が絡んでいる」
「組織……?」
「『灰の聖庁』。表向きは、各地の災厄封印を管理する、由緒正しい教会組織だ。だが裏では、封印に利用する『贄』の人選そのものに、しばしば私利私欲を絡めている」
ロウは地図の一点を指でなぞった。そこには、燃えるような赤で「聖印官・カイン」と書き込まれていた。
「お前の村の管轄を任されているのは、聖印官カイン。聖庁の中でも、特に贄の選定に強い発言権を持つ男だ」
その名を口にした瞬間、ロウの声色がほんのわずかに低くなった。
「私は、長く生きている分、嫌いな人間より好きな人間の方がずっと少ない。だが、その少ない嫌いな人間の中でも、できれば二度と顔を合わせたくない一人だ」
死神にここまで言わせる相手。それだけで、カインという名前の重さが、わたしの中で一段階増した気がした。
「会ったことも、ないです。なのに、なぜわたしが」
「それを調べるのが、これからの仕事だ」
ロウは地図を丸めながら、立ち上がった。
「お前の目的は復讐だ。それは私が口を出すことじゃない。だが、ただ闇雲に村を焼いても、何も変わらない。本当に裁くべき相手を、見誤らないことだ」
「……分かりました。まずは、調べることから始めます」
「いい心がけだ。ああ、それと」
ロウは、扉を開けながら、思い出したように付け加えた。
「私のことは、ロウと呼ぶといい。死神としての本名は、お前にはまだ早すぎる」
「ロウ、さん」
「さんはいらない。お前と私は、もう対等な契約者同士だ」
「対等、ですか。さっき黒猫を全力で甘やかしていた人と」
「揚げ足を取るな」
外に出ると、夜明け前の薄闇の中、墓地が広がっていた。無数の墓標が、月明かりに照らされて並んでいる。その途中、わたしはふと、ある一角に他の墓よりも一回り小さな、真新しい墓標があるのに気づいて足を止めた。
そこに刻まれた名前は、わたしの知らない少女のものだった。
「……ロウ。この子、誰なんですか」
「三年前、この村で贄に選ばれた子供だ。お前と同じ理由で、同じ井戸で死んだ。年は、当時十三だったかな」
わたしは言葉を失った。自分より先に、同じ運命を辿った誰かがいたという事実が、急速に現実味を持って迫ってくる。十三。わたしより三つも年下の子が、この村の井戸に。
その時、墓標のそばに、小さな光がふわりと揺れた。幼い少女の幽霊だった。膝を抱えてうずくまり、じっと自分の墓を見つめている。
怖い、と思う気持ちは確かにあった。けれど、その子の座り方が、あまりにも小さくて、あまりにも寂しそうで、足が勝手に動いた。
「ねえ、あなた」わたしは、しゃがみこんで声をかけた。「あなたも、贄に選ばれたの」
少女の幽霊は、びくりと震えてから、わたしを見上げた。
「お姉ちゃんも、井戸に……?」
「うん。だから、わたし、その仕組みを作った人たちを、暴くつもりなの」
少女は、少しの間黙り込んでから、消え入りそうな声で言った。
「わたしを選んだ人……知ってる。聖庁から来た、偉い人。灰色のローブを着た、目の細い人。村長さんと、お金の話をしてた。わたしのお父さんが、その人に頭を下げてた……でも、そのあと、わたしが選ばれた」
ロウと顔を見合わせる。カインという名前こそ出なかったものの、それが意味する繋がりは、もう疑いようがなかった。
「あなたの名前、教えてくれる? 絶対に忘れないから」
少女はその言葉に、初めて、安心したように微笑んだ。
「……エル」
「エル。約束する。あなたを贄に選んだ仕組みごと、全部暴いてみせる」
エルは、嬉しそうに、それでいてどこか寂しそうに微笑んで、やがて朝靄の中に溶けるように消えていった。
「復讐者のくせに寄り道か」とロウが言った。
「寄り道じゃないです。証言を集めただけです」
「都合のいい理屈だな」
「復讐したいのと、目の前で困ってる子を放っておけないのは、別問題です」
ロウは一瞬きょとんとしてから、肩をすくめて笑った。
「お前、存外にしぶといな」
「死神に拾われた程度で、性格まで変わってたまるもんですか」
わたしは、自分の墓とエルの墓標、その両方に背を向けて、一歩を踏み出した。
「灰の聖庁の被害者は、お前とエルだけじゃないということだ」とロウが歩きながら言った。「これから先、似たような困っている誰かに、嫌というほど出会うことになる。その度に寄り道していたら、いずれカインの足取りに辿り着く」
復讐したい。でも、目の前で泣いている誰かを放っておけない。
矛盾しているかもしれない。けれど、その矛盾こそが、死神に拾われる前のわたしから、唯一変わらずに持ち越せたものなのかもしれなかった。




