第13話 聖印官カイン
大聖堂の正面扉は、開いていた。
まるで迎え入れるように。
広い石畳の廊下を進むと、足音が大きく反響した。高い天井、左右に並ぶ柱、奥の祭壇から差し込む光。荘厳で、美しく、その美しさがかえって不気味だった。この建物が何のために使われてきたかを、今のわたしは知っているから。
正面の祭壇から光が射し込んでいた。その光の中に、一人の男が立っていた。
灰色のローブ、細い目、抑揚のない声。エルが言っていた特徴と、ロウが警戒していた存在感と、その両方が一人の男に収まっていた。五十前後の、痩せた男。見た目はどこにでもいる聖職者のようで、しかし、その目の奥だけが、ひどく静かだった。怒りも憎しみも持たない目。ただ、物事の損得を計算するだけの目。
わたしの胸の紋様が、じわりと熱を持った。死の気配ではない。この男の中にある、何か冷たいものへの反応だった。
「ようこそ、ミラ・ノクス嬢。死してなお、こうして歩き回るとは、興味深い」
「カイン……」
「ああ、自己紹介の必要はなさそうだ。随分と証拠を集めてまわったようだね。私の管轄の村を、一つひとつ。内通者も見つけて。術式の専門家まで連れて」
カインは、わたしたちを見ても、驚いた様子もなければ、慌てた様子もなかった。まるで、こうなることをずっと前から知っていたかのような余裕だった。
「聞きたいことがあります。なぜ、わたしの名前を選定リストに入れたんですか」
「単純な話だ。あの村の長老には、長年の弱みがあった。それを利用して、村を従順にしておく必要があった。お前の家の借金は、ちょうど都合のいい取引材料だっただけだ」
「じゃあ、エルは。三年前に同じ井戸で死んだあの子は」
カインは少し間を置いた。その間が、エルのことを思い出す時間ではなく、単に記録を検索する時間であるように見えた。
「ああ。あれは村の有力者が、政敵の子を排除したかったと聞いている。私の手を借りれば、きれいに処理できる。そういう取引だ」
「きれいに処理……。ガラは? 十五歳の男の子は」
「覚えていない」
わたしは、懐の書類を取り出した。
「二百四十七人いました。あなたが承認に関わった選定が、少なくとも百二十一件」
書類の束を、わたしはカインに向かって広げた。名前の書かれたページを、一枚ずつ。
「ガラ・ヴァン、十五歳。タオ・ケイン、十二歳。アイラ・ヴェル、二十二歳。ナン・ソレイ、十一歳――」
名前を読み上げるたびに、大聖堂の広い空間に声が響いた。
「リノ・ハス、十四歳。ユラ・マン、十六歳。ケオ・ライ、十九歳――」
カインは最初、変わらない表情でわたしを見ていた。
「フェル・ノア、九歳――」
その瞬間だった。
カインの目が、かすかに動いた。
九歳。その年齢を声に出した瞬間、カインの冷静な目に、何かが――本当にわずかだが――揺れた。それはすぐに消えた。消えたが、確かにあった。わたしは見逃さなかった。
「エル、十三歳。ミラ・ノクス、十六歳」
読み上げるのを止めた。
「このリストの最後の二人は、わたしが知っている子たちです。一人目は、最後までこの村の墓地にいて、わたしに最初の手がかりをくれた。二人目は、今ここに立っています」
カインは、一度だけ視線を書類に落とした。
その視線が、自分でも知らないうちに動いてしまったのかもしれない。九歳の名前が書かれたあたりを、一瞬だけ見た。
「お前の目的は理解した」とカインは言った。「だが――」
「封印は、もう三百年以上、贄を必要としていない。術式の専門家に確認してもらいました。今日ここに来る前に、その証言を記録した文書も、別ルートで各地の領主と聖庁本部に届けてあります」
「……抜け目ないな」
「あと百年もすれば、大災厄そのものが自然に消える。つまり、この千年間、最後の七百年は、誰一人として死ぬ必要がなかった」
沈黙。
カインが、初めて答えるまでに、間があった。
「それでも、だ」
声が、わずかに低くなった。いつもの抑揚のなさとは、ほんの少し違う。
「封印が安定していようとしていまいと、各地の村を管理する手段として、選定という制度は有効に機能している。それは変わらない」
「有効に……。あなたは今、わずかに表情が変わりました」
「何の話だ」
「九歳の名前を聞いたとき。一瞬だけ、目が動いた」
カインは何も言わなかった。
「あなたも、知っているんですね。九歳は、やりすぎだと。でも、それを認めれば、全部が崩れる。だから、認めない。ずっと、認めてこなかった」
「感情論だ」
「感情論でいいです。九歳の子が、封印のために必要だったと、本当に思えますか」
また、沈黙。
今度は、より長い沈黙だった。
カインの手が、わずかに動いた。ローブの袖をわずかに握った、ほんの小さな動作。それだけで十分だった。
「わたしは、あなたを殺しに来たわけじゃないです」
「ほう」
「あなたが作ってきた仕組みを、証拠ごと暴きに来ました。これを、聖庁の本部と、各地の領主、そして民衆に公開します。すでに、別ルートで届けてあります。あなたが今夜ここで何をしても、証拠は世界に出ます」
「……フィオが」
「あなたの書記が、あなたの仕組みを記録して届けました。あなたが一番近くに置いていた人が、一番深くその問題を知っていたんです」
初めて、カインの顔に、複雑な何かが浮かんだ。怒りでも軽蔑でもない。何か別の、はっきり名前のつけられない感情。
「自首して、すべてを認めますか」
「……する気はない」
「では、逃げますか。長くは隠れていられませんよ。証拠はもう出ています。あなたを支持する人間が、聖庁の中でどれだけ残るか」
カインは、右手をゆっくりと持ち上げた。
「やってみるといい」
足元に灰色の魔法陣が広がった瞬間、カインの目から、あの静かな計算の光が戻っていた。九歳の子の名前に揺れた一瞬は、もう消えていた。
でも、わたしは見た。確かに、見た。




