旅路の章 ― 砂と風の短編集 ― (前編) 「北へ消えた二つの影 ― 失踪の痕跡を追って ―」
【前書き】
孤児院のルーシーや町の子どもたちの笑顔を守った、その夜のこと。
湖畔の風は静かで、窓の明かりはどこも穏やかに揺れていた。
――少なくとも、そう「見えて」いた。
だが翌朝。
世界はほんの少しだけ、決定的に色を変える。
ミーロとテドラ、行方不明。
残されたのは、冷たい風と、石畳に落ちた“空気の残り香”だけ。
ジージー、セル、リゲロ、そして幽霊のミナ。
四人は、闇に消えた小さな足跡を追うため、
まだ誰も知らない“北の裏ルート”へ足を踏み入れていく。
──今回は、「北方奴隷競売ルート」の影が、ようやく輪郭を見せ始める回だ。
***
朝の空気は、どこか乾いていた。
孤児院の前の石畳。
ジージーは、いつものようにルーシーたちの声を聞きに行くつもりで門をくぐり――そこで、異様な空気に足を止めた。
「……ジージーさん!」
玄関先で、ステラ院長が誰かと話していた。
その相手は、灰色がかった毛並みを持つ亜人の青年――ワタリ。
狼系の耳としっぽが、今は不安に張りつめている。
「昨日の夜までは確かに家にいたんだ。
テドラもミーロも、ちゃんと夕飯を食べて、寝床にも入った。
それが、朝起きたら……いない」
声がかすれている。
ワタリは両手をきつく握りしめ、爪で自分の掌を傷つけていた。
「こんな時間になっても帰ってこないなんて、おかしいだろ……?
あいつら、夜遊びするような子じゃないんだ。悪さをするなら、俺の目の前でやる」
「……ワタリ」
ステラがそっと肩に手を置く。
その傍らでは、ルーシーとミラが固くなった表情でこちらを見ていた。
ミラの指先は、いつもの折り紙を握りしめたまま震えている。
「ジージーさん……テドラとミーロ、来てないよ。
いつもなら、もうとっくに『パンちょうだい!』って来るのに」
「……そう、だね」
胸がざわつく。
嫌な予感は、冒険者になってから幾度も命を救ってきた感覚だ。
ジージーは短く息を吐き、ステラとワタリの前へ歩み出た。
「話、詳しく聞かせて。
それと――家、見に行ってもいい?」
「もちろんだ。なんでもいいから、手がかりが欲しい」
ワタリが食い気味に頷く。
その目の縁は赤く、まるで今にも泣き出しそうだった。
◆
ワタリの家は孤児院から少し北。
湖畔から一本裏手に入った小さな路地の突き当たりにある、二間だけの質素な家だ。
中に入ると、三つの寝具がきれいに並んでいた。
一つは、大人サイズ。ワタリのもの。
残る二つは、小さな体が眠るための布団。
「昨夜は、ほんとに普通だったんだ。
テドラは勉強してて、ミーロはその横で木のコマを回しててさ。
俺が『もう寝ろ』って怒鳴って、二人して『わー』って逃げて……」
ワタリの耳が、情けないほど垂れ下がる。
「それで、布団に潜り込んで……
俺が片付けしてる間に寝息が聞こえてきて。
それで、俺も寝て。
朝起きたら、もうどこにもいない」
ジージーは黙って部屋を見回し、床に膝をついた。
「鍵は?」
「かけてた。内側から。
窓も全部閉めてた。風は入るけど、人が出入りできる大きさじゃない」
リゲロが窓枠を調べる。
「……罠仕掛けてねえのか?」
「子どもがひっかかったら困るだろ……!」
「それもそうか」
セルは、入り口付近の土間にしゃがみ込んでいた。
彼の目は、あくまで静かに、冷静に床を舐めるように見ている。
「……ここ」
短い声。
ジージーが近寄ると、土間の端、板材との隙間に、うっすらと泥がこすれた跡があった。
「外から……?」
「そうだな。
扉を乱暴に開けたならもっと痕がつくはずだが……丁寧に、静かに開けてやがる」
セルの声には、かすかな怒りが混じり始めていた。
「ワタリ。昨夜、物音は?」
「……聞いてない。俺は……」
ワタリは歯を食いしばる。
「隣の工房で夜遅くまで手伝いしてたから、寝ついたのが遅くて……
疲れ切って、ぐっすり寝ちまってたんだ。
もし少しでも起きていられたら……!」
「自分を責めるのはあとだよ」
ジージーが静かに遮る。
「今は、二人を見つけるのが先」
そのとき。
ふわり、と空気が揺れた。
「呼んだ?」
声と同時に、天井付近の影から女の子の姿がすべり出てくる。
幽霊のミナだ。
彼女はひらひらと宙に浮かびながら、部屋全体をぐるりと見回した。
「……うん。ここ、“空気”がおかしい」
「空気?」
ミラがきゅっとジージーの袖をつかむ。
「ミナ、わかるの?」
「わかる。
人は、怒られたとき、嬉しいとき、怖いとき……ぜんぶ、空気にちょっとずつ置き土産をしていくの」
ミナは床近くまで降りると、鼻先をひくひくさせるようにして目を細めた。
「昨夜、ここで……“とても怖がっていた誰か”がいる。
多分、テドラかミーロ。
それともう一人。“ぞわっ”とする悪意」
部屋の隅を指さす。
「そこから入ってきた。
足音はほとんど立ててないけど、“息”が重い。
寝ている子を抱えて、外へ……」
ワタリが息をのみ、膝から崩れそうになるのをジージーが支えた。
「……ミナ。追える?」
「もちろん。
空気の流れは簡単には消えないもの」
ミナはふっと笑い、外へと滑るように出ていく。
「外、石畳のほう。
行こ、ジージー」
◆
【孤児院前の石畳】
ワタリの家から数十歩。
細い路地を抜けたところで、セルがしゃがみ込む。
「……ここだな」
石畳の上に、ほんの微かな靴跡。
子どものものが二つ。
その横に、大人の足跡が二つ。
「小さいのがテドラとミーロ。
大きいほうは……片方が普通の人間、もう片方は、足を引きずってる」
セルが指でなぞり、眉をひそめた。
「荷物でも持っていたのかもしれない。
もしくは――怪我をしているか、片足に魔具をつけているか」
リゲロが横から覗き込み、低く舌打ちする。
「……人攫い、ってことか。
最近、“北のほうで奴隷競売のルートがまた動き始めてる”って噂は聞いてたが……」
その言葉に、ワタリの肩が震えた。
「そんな……あいつらが……売られる……?」
ジージーは、きゅっと杖を握りしめる。
(テドラとミーロが、あんな冷たい場所に……?)
喉の奥がひりつくように熱くなった。
「……大丈夫。まだ“今”だよ」
ミナがそっと口を挟む。
「空気の残り香が、まだ新しい。
きっと夜明け前くらいにここを通った。
いま追いかければ、絶対に追いつける」
その言葉に、ルーシーが縋るような目でジージーを見る。
「ねぇ……テドラとミーロ、無事なの……?」
ミラも、今にも泣きそうな顔で立っている。
ジージーは二人の頭に手を置いた。
「大丈夫。
絶対助ける。二人とも、ちゃんと連れて帰る」
「……約束?」
「うん。ぜったいに」
ルーシーが小さく頷き、ミラも涙をこらえるように唇を噛んだ。
セルが立ち上がる。
「行くか」
リゲロも剣の柄に手をかける。
「足跡が途切れる前にな」
ワタリが、はっと顔を上げた。
「俺も行く!」
「ワタリは孤児院と家を守って」
ジージーはすぐに首を振る。
「ここを空にしたら、また誰か狙われるかもしれない。
ステラさんと、みんなを頼む。
テドラたちが戻ってきたとき、『おかえり』って言える場所が必要でしょ?」
ワタリは言葉に詰まり、唇を噛んでから、ゆっくり頷いた。
「……わかった。
絶対帰ってこいよ。三人とも。それにテドラとミーロもだ」
「もちろん」
ジージーは笑ってみせる。
それは、自分自身を奮い立たせるための笑顔でもあった。
◆
【町の北端】
足跡は、町の北端の門付近で急に薄くなっていった。
「ここから、誰かが意図的に“消して”いるな」
セルがしゃがみ込み、何度も石畳を指でなぞる。
「土をかぶせ、別の足で踏み荒らして……
追跡を嫌う奴らのやり口だ」
「やっぱり人攫いか……?」
リゲロの声が低くなる。
「ジージー」
ミナがふわりと浮かび、北の空を見上げた。
「足跡は消されてるけど、“流れ”は消せない。
空気は嘘つけないからね」
彼女はゆっくりと回転しながら、風を嗅ぐように目を閉じる。
「……北。
でも、普通の北道じゃない。
“街道の裏をまわる細い獣道”よ」
「裏ルート……!」
リゲロが険しい顔になる。
「噂通りだ。
北方奴隷競売ルート――“影道”。
街道を通る表の荷馬車とは別に、裏で人を運ぶ道だ」
セルも頷いた。
「帝国圏からさらに北、“人を貨物として運ぶ”連中が使う道だ。
まさか、ここまで南に触手を伸ばしているとはな」
ジージーは拳を握りしめる。
(そんなものに、テドラたちを乗せさせるわけにはいかない)
「でもね」
ミナが指先を上げる。
「その前に――“罠”がある」
「罠……?」
ミナの指す先には、道の脇に止められた古びた荷馬車が見えた。
荷台には布。
その下には、人影のような膨らみ。
リゲロが眉をひそめる。
「まさか……もう死んでるとかじゃないだろうな」
ジージーは反射的に駆け出していた。
「ジージー! 待て!」
セルの叫びが飛ぶ。
その直後――
荷馬車の影から、黒い影が飛び出した。
「――っ!」
三方向から同時に伸びてくる縄。
空中で絡み合い、ジージーの手足を狙う。
(しまっ――)
しかし、ジージーの目の前で“霧”のようなものが広がり、
縄は宙でほどけて地面にバサバサと落ちた。
「……甘いわね」
ミナの声。
彼女は、ジージーと縄の間に割り込み、
幽霊の身軽さで力の流れそのものを捻じ曲げていた。
「幽霊相手に縄は効かないわよ」
影の背後では、フードをかぶった男たちが慌てて走り出していた。
「くそっ、しくじった!」
「女とガキだけのはずだろ!? 冒険者なんて聞いてねえ!」
セルがすでに剣を抜き、走り出している。
「追うぞ!」
リゲロも同時に飛び出した。
ジージーは、荷馬車の布を一気にめくる。
「テドラ! ミーロ!」
だが――荷台の上は、空っぽだった。
藁と、古びた麻袋だけ。
「……ここ、“何も運んでない”」
ミナが荷台に半ば身体を沈めたまま、すぐに首を振る。
「子どもを縛った痕跡も、泣いた空気も残ってない。
この馬車は“ダミー”。ただの撹乱用だわ」
「やっぱりか……!」
セルが逃げる男の一人の足を刈り、地面に叩きつける。
「お前ら、本隊はどこだ!」
リゲロが別の男の胸ぐらを掴む。
「しゃべれ!」
「し、知らねえ……!」
「嘘つけ!」
男たちの声は震えていた。
どうやら、彼ら自身も末端の“受け渡し役”に過ぎないようだ。
ミナがふわりと戻ってきて、北の木立を指差す。
「本物の荷馬車は――あっち。
“密林の裏道”を抜けて、もっと北へ向かってる」
ジージーの心臓が大きく脈打つ。
「……追いつける?」
「早く行けばね。
テドラもミーロも、まだ“生きてる”」
その言葉を聞いた瞬間。
ジージーは走り出していた。
「待てジージー! 山林は危険だ!」
セルの声が飛ぶ。
「でも――今行かないと、二人がどうなるか……!」
振り返らずに叫ぶと、背中でセルのため息と、
それから小さく笑う気配がした。
「……ああもう。
わかった、行くぞ!」
「まったく……こういう無茶、嫌いじゃないぜ!」
リゲロも剣を担ぎ直して追いついてくる。
ミナはジージーの肩に寄り添い、囁いた。
「行きましょ。
“北の闇”に触れるのは、今が初めてよ、ジージー」
四人は、北の密林へ向かって駆け出した。
風が、木々の間を鳴らしながら吹き抜けていく。
遠くで、誰かの泣き声が聞こえたような気がした――。
***
(後編へつづく)




