第5話『監査官と“きれいな数字”』
前々回の「孤児院訪問」で出会った、
ものづくりが得意な少女ルーシー。
そして、前回の“酒場パレード”で知り合った
若者ジョナスと少女ベルナ。
今回はその両方がじわっと絡む回です。
孤児院のお金が足りない理由、
その裏にある“町の流れ”を探るため、
ジージーたちはついに商業ギルドへ──。
翌朝。湖畔の空は、まだ少しだけ薄く煤けて見えた。
遠くの街並みには足場がかかり、あちこちで修復作業が続いている。
それでも孤児院の庭には、子どもたちの声が戻ってきていた。
「ジョナス、そこ押さえてて。……うん、ありがと」
「お、おう!」
庭の片隅で、わたしはルーシーの横にしゃがみこんでいた。
昨日の続き、小さな木の馬づくりの仕上げだ。
ジョナスが不器用な手つきで板を押さえ、ルーシーが細いノコギリをぎこぎこと動かす。
削り屑がこぼれるたび、ベルナがさっとそれを掃き集め、空いた箱に入れていく。
「ジージーさん、ここの角、もう少し丸くしたほうがいいですか?」
ルーシーが顔を上げる。銀髪に木屑がいくつか乗っていて、それが小さな王冠みたいに見えた。
「うん。ここが尖ってると、ちっちゃい子が頬をぶつけたとき痛いからね。
このへんを、こんな感じで……」
わたしは自分の指で角をなぞって見せる。
「怪我しないように、でも形は崩さないように。
あんまり削りすぎると、今度は足が折れちゃうからさ」
「はい!」
ルーシーは真剣そのものの顔で頷き、またノコギリを動かし始めた。
その向こうでは、リゲロが縄跳びで三回目の引っかかりを記録し、まわりの子どもたちが「いーち、にーい、さーん、あー!」と大合唱していた。
「ジージーさん、見ててくださいね! 次は十回跳びますから!」
「その意気その意気。……でもまずは五回目指そうか」
「いきなりハードルを下げた!?」
庭の空気は、穏やかに笑っている。
ミラは縁側に座り、ちびっこたちに折り紙の鶴を教えていた。
昨日からささやかなブームになっているらしく、今日は誰かが勝手に名づけた「折り紙騎士団」が結成されている。
「ミラ隊長! この鶴、翼がちょっと変です!」
「それは“ドラゴン鶴”ですね。いい感じですよ」
「そんな種類あるの!?」
子どもたちの突っ込みに、ミラは小さく笑った。
――こういう時間を、できる限り、長く守りたい。
そう思っていた、そのとき。
「ステラ院長ー! お客さーん!」
玄関のほうから、年長組の女の子の声が響いた。
ステラさんは台所から顔を出し、エプロンの裾で手を拭きながら玄関へ向かっていく。
わたしもつられて立ち上がった。
ミラも、折り紙を子どもたちに預けて、静かに後を追う。
「どちら様で――」
ステラさんの声が、玄関先でそっとかしこまる。
角を曲がってわたしが見たのは、昨日の港とはまた違う種類の“町の外”だった。
きっちりと仕立てられた濃紺の上着。
銀の糸で縁取られた襟。胸には市の紋章を象った小さなバッジ。
細い金縁の眼鏡の奥で、灰色の瞳が涼やかに笑っている。
そして、その背後に控える数名の従者と書き役たち。
手には羊皮紙と筆記具。そして、一人の男は金属製の印章筒を抱えていた。
「お忙しいところ失礼いたします。
わたくし、市王都から派遣されております監査官、エルンスト・フリューゲルと申します」
その声は、よく通るが決して大きくはない。
丁寧で、柔らかく、こちらの警戒心をふっと下げるような響きがあった。
(ああ、これが――)
カイルが言っていた“監査官”だ。
ステラさんは、一瞬だけエプロンの裾をぎゅっと握ったが、すぐにいつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「ようこそ、おいでくださいました。ステラ・エインズです。
このような片田舎の孤児院まで、わざわざ……」
「いえいえ。
今回の騒乱に際して、市の公共施設の実情を確認するのが、わたくしの務めでして。
子どもたちの生活がどう守られているか、これから先、どんな支援が必要か……」
エルンストは、言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。
「――そして、“どこへ、いかにして”支援を配分すべきかを判断するために、です」
最後の一文だけ、ほんの少しだけ、声の温度が変わった気がした。
ミラが、わたしの袖をそっとつまむ。
「……ジージーさん」
「うん、聞いてる」
声には出さず、視線だけで返事をする。
エルンストの背後から、見慣れた顔がひょこっと覗いた。
「ジージー殿、院長さん!」
「カイル?」
若手会計官のカイルが、気まずそうに頭を下げた。
「すみません、事前にお伝えできなくて……。
本日、監査官殿の視察先の一つとして、こちらの孤児院が指定されまして」
エルンストが、すぐにそれを引き取るように微笑む。
「あなたが、カイルさんですね。
昨夜提出してくれた報告書、拝見しましたよ。
――数字の並べ方に、少々“青さ”はありますが、とても誠実な記述でした」
「あ、ありがとうございます……」
褒められているのか、釘をさされているのか。
カイル自身も判断に迷っているような表情だった。
エルンストは、改めて孤児院の玄関先を見回す。
「それでは、さっそく拝見してもよろしいでしょうか。
帳簿と――実際の生活の様子を」
ステラさんは一瞬だけ逡巡し、それから静かに頷いた。
「もちろんです。
粗末なところですが、どうぞお入りください」
◇
居間のテーブルの上に、孤児院の帳簿と納品書がきれいに並べられた。
ノルテさん――頑固そうな顔をしたベテラン魚屋のおじさん――も呼ばれ、ステラさんの隣に座っている。
彼は孤児院の食材調達を長年手伝ってくれているし、今回の騒動でも何かと動いてくれた人だ。
わたしとミラは、少し離れた壁際の椅子に座っていた。
子どもたちは庭と二階に追いやられているが、足音と笑い声が時おり天井や廊下から聞こえてくる。
エルンストは帳簿のページを、静かな手つきでめくっていた。
「……ふむ。
食費、衣服費、修繕費。予算枠の範囲内に収めるために、ずいぶんやりくりしておられるようですね」
ステラさんが、少しだけ笑う。
「皆さまからのご寄付に助けられております。
戦災孤児が増えたときには、一時的に厳しい時期もありましたが……」
「最近は、どうです?」
エルンストの灰色の瞳が、そっと上がる。
「ええと……」
ステラさんは言葉を探した。
「最近は、少し……。
食材や日用品の値段も上がりましたし、市からの支給も、“復旧事業の予算調整”とやらで、一時的に抑えられていると聞きました」
「ふむ、ふむ」
エルンストはうなずき、“さも残念そうに”眉を寄せた。
「心苦しいことです。
復旧事業には膨大な資金が必要でして。道路、橋、城壁、港湾……。
もちろん、孤児院も大切な施設ではありますが――」
その言葉の後ろに、「優先順位は、下だ」と書かれている気がした。
テーブルの端で、ノルテさんが腕を組んだ。
「ですがね、旦那。
道や橋だけ直しても、その上を歩く足が育ってなきゃ意味がねえ。
ここのガキどもは、いずれ働き手になりゃ税も払う。
今食わせなきゃ、先の稼ぎもねえってもんでしょう」
エルンストは、微笑みを崩さずにその意見を受け止めた。
「まったく、その通りです。
ですからこそ、限られた予算を“効率的に”配分するべきだと、わたしは考えております」
彼は帳簿の端に添えられた納品書を指で叩いた。
「たとえば、この冬用の毛布の購入。
市の共同仕入れのほうが単価が安いのに、わざわざ個別に購入なさっている。
長い目で見れば、こうした“小さな非効率”を見直すことで、より多くの子どもたちを支えることができるのです」
言っていることだけ聞けば、もっともらしい。
実際、数字だけを見れば、それは“正しい効率化”に見えるだろう。
だけど――
「その“市の共同仕入れ”は、この冬の初めから、まだ一枚も届いちゃいないんですよ」
ノルテさんが、低く言い返した。
「だから、うちの店が帳簿の枠ギリギリまで値をまけて、急ぎで届けてる。
市の帳簿がきれいでも、現場が寒さに震えてりゃ、何の意味もねえ」
エルンストは、初めてと言っていいほど、表情を変えた。
ほんの一瞬だけ、眉がぴくりと動く。
「……その件については、現在調査中です」
彼はすぐに微笑みを取り戻した。
「物資の流れに一部滞りがある、との報告は受けております。
しかし、それは“復旧事業全体の一時的な混乱”に過ぎません。
数字の上では、すでに支出は計上されており――」
「数字の上では、ですか」
思わず口から出ていた。
エルンストの視線が、こちらを向く。
その目は険しくはなかった。でも、底が見えない水面のような静けさがあった。
「こちらの方は?」
「ジージーです」
わたしは椅子から腰を浮かせ、軽く頭を下げた。
「旅の途中でお世話になっているだけの身ですけど。
港の倉庫も、カイルさんと一緒に見せていただきました」
「……そうですか」
エルンストは、ほんのわずかに眼鏡を押し上げ、カイルに視線を向ける。
「港倉庫は、治安隊の管理下にあるはずですが?」
「はい。そ、その……」
カイルは言葉に詰まる。
「昨日は、タビートさんの案内で、“物資の動き”を確認させてもらいました。
“止められた箱”があるって、現場からの声があったので」
わたしが代わりに説明すると、エルンストの微笑みは崩れなかった。
ただ、その奥の何かが、かすかに固まったような気がした。
「現場の声に耳を傾けるのは、大事なことです。
ただ、同時に、“混乱をあおらない配慮”も必要ですね」
彼はゆっくりと椅子から立ち上がった。
「ジージー殿。
あなたは、魔法使いでいらっしゃるとか」
「一応。“杖の勇者”とか呼ばれることもあるけど、本人としてはただの杖持ちのジージーで」
「勇者、ですか」
エルンストは、口元だけで笑った。
「勇者の方々が“敵”と戦ってくださったおかげで、この街は守られました。
しかし、戦が終わった後に必要なのは、“数字を整える者”です。
数字は、剣や杖のように派手ではありませんが、街を長く支える土台となる」
彼はすっと手を伸ばし、従者が差し出した金属筒から印章を取り出した。
――その瞬間。
ミラが、ぴくりと肩を震わせた。
彼女の瞳に、薄い黒がよぎる。
わたしだけが、それに気づいた。
(今、何か――)
エルンストは、孤児院の帳簿の余白に、小さく印を押した。
「本日の視察に際し、孤児院の管理と帳簿の誠実さを確認しました。
しかし、資源配分の観点から、“効率化の余地あり”と判断せざるを得ません」
「効率化……?」
ステラさんが、思わず問い返す。
「具体的には、市内に点在する小規模孤児院をいくつか統合し、管理を一元化する案が検討されています。
より大きな施設にまとめることで、物資の管理や人員配置を“きれいな数字”にできる。
あなた方にも、いずれ、そのご相談が行くでしょう」
“相談”と彼は言った。
でも、その言葉は“決定事項の通知”に近い響きを持っていた。
ノルテさんが、ぐっと身を乗り出す。
「つまり、ここのガキどもを、どっかの“でっけえ箱”にまとめてぶち込むって話か?」
「表現が乱暴ですね」
エルンストは軽く苦笑した。
「しかし、大枠としては、そういうことです。
もちろん、施設統合によって余剰となる土地や建物は、復旧事業の資金として有効活用されます」
「……“余剰”」
ステラさんの指先が、小さく震えた。
この家が、この庭が、この湖畔が。
子どもたちの笑い声と、涙と、喧嘩と仲直りが積み重なってきた場所が。
数字の上では、“余剰”と呼ばれる。
わたしは、胸の奥にゆっくりと熱がたまっていくのを感じた。
そのとき、廊下のほうからバタバタと足音がして――
「す、すみません院長さん! ルーシーが!」
「えっ?」
年少組の子が慌てた顔で顔を出した。
「ルーシーが、その、きんちょうして手が滑って、木のお馬さんが……!」
ステラさんが慌てて立ち上がろうとするのを、わたしが手で制した。
「ステラさんは座ってて。ミラ、一緒に」
「はい」
わたしたちは立ち上がり、居間を出ようとした――が。
「よろしければ、わたしも拝見しても?」
エルンストが、静かに立ち上がった。
「子どもたちの“作品”は、その施設の空気を映します。
数字には出てこない、大事な情報ですから」
彼は、そう言って微笑んだ。
◇
庭の真ん中に、小さな輪ができていた。
真ん中に立つルーシーが、涙目で木の馬を抱えている。
首の部分が、ぽっきり折れてしまっていた。
「だから、あんまり力入れすぎんなって言ったのに」
ジョナスがぼりぼり頭をかいている。
「でも、ちゃんとしたの作りたかったから……」
ルーシーは、折れた首の部分を見つめた。
「監査官のおじさんが来るって聞いたから。
このお馬さんあげたら、ここ、守ってくれるかなって……」
その言葉に、わたしの心臓が、きゅっと鳴った。
ああ、この子は。
自分の手で、何かを差し出そうとしていたんだ。
わたしとミラが輪の中に入ると、子どもたちは少し道を開けた。
「ルーシー、大丈夫?」
「……ごめんなさい。ジージーさんに、せっかく教えてもらったのに」
「謝るのは、木じゃなくて、自分の手にだよ」
わたしはそう言って、そっと笑った。
「“次はもっと上手に作るから、よろしくね”って」
「……うん」
ルーシーがうなずいたとき、背後から足音が近づいてきた。
「これが、あなたの作品ですか?」
エルンストだった。
彼は少し距離を保ちながら、折れた木の馬を見つめた。
「……上出来だと思いますよ」
「え?」
ルーシーが顔を上げる。
「首が折れてしまったのは残念ですが。
形はよくできている。角も丸められているし、バランスも悪くない。
何より、“誰かを乗せよう”という気持ちが、ちゃんと伝わってくる」
エルンストの声は、さっき居間で数字を語っていたときと、少し違って聞こえた。
「わたしも、小さなころに木工を少しかじりましてね。
わたしが初めて作った馬など、棒切れを組んだだけのものでしたよ」
「監査官さんも、作ったことあるの?」
「ええ。
あまり上手くはありませんでしたが」
微笑みの奥に、一瞬だけ遠いものを見るような影が差した。
ミラが、じっと彼を見つめている。
――そして、わたしにだけ聞こえるくらいの小さな声で囁いた。
「ジージーさん。さっきの印章……。
あれ、少し“黒い気”がまとわりついてました」
(やっぱり)
わたしは、心の中で短く返す。
(エルンストそのもの、というより。
あの印に、“どこかから”糸が伸びてきてる感じ)
港倉庫で見た黒い糸と、孤児院の屋根裏で感じたざらつき。
それらを、細い、ほとんど見えない糸で繋いでいる“中継点”のような。
ルーシーが、おずおずと木の馬を差し出した。
「あの……これ、あげます」
「ルーシー?」
ステラさんが驚いた声を上げる。
ルーシーは、小さな手で木の馬を掲げたまま、まっすぐエルンストを見上げた。
「さっき、院長さんたちが話してるの、ちょっとだけ聞いちゃって。
ここ、なくなっちゃうかもしれないって……」
「ルーシー、それは――」
ステラさんが慌てて言葉を止めようとしたが、ルーシーは止まらなかった。
「だから、これあげるから。
ここ、なくさないでほしいです。みんなで作った家なんです」
庭の空気が、ぴんと張り詰めた。
エルンストはしばらく黙っていた。
風が湖面から吹き上がり、木々の葉を揺らす。
そして、彼はゆっくりと木の馬を受け取った。
「……これは、わたしが預かりましょう」
ルーシーの顔が、ぱっと明るくなる。
「本当?」
「ええ。
ただし、これで“すべてがうまくいく”とは約束できません。
わたしは数字を扱う役目ですから」
彼は木の馬の折れた首を、そっと撫でた。
「ですが、“ここにこういう場所がある”ということ、“こういう子どもたちがいる”ということを、数字の横に書き添えるくらいのことは、できるかもしれない」
その言葉は、奇跡でも約束でもない。
ただ、正直な限界を告げるものだった。
それでもルーシーは、大きく頷いた。
「じゃあ、それでお願いします!」
「交渉成立ですね」
エルンストは、ほんの少しだけ、心からの笑みに見えるものを浮かべた。
ミラが、小さく息を呑む。
――黒い糸が、一瞬だけ、揺らいだ気がしたからだ。
◇
視察は、日が傾き始めるころに終わった。
エルンストは、孤児院の建物と庭と子どもたちを一通り見て回り、ステラさんやノルテさんから話を聞き、最後にもう一度帳簿に目を通した。
「本日の記録は、わたしの責任でまとめます」
帰り際、彼はカイルに向かって言った。
「あなたは、あなたの目で見たことを、あなたの言葉で報告書に書きなさい。
数字はあとから整えればよい。
――ただし、“現場の声”というのは、数字と同じくらい重いものです。分かりますね?」
「は、はい」
カイルは姿勢を正した。
「では、また市庁舎で」
エルンストは、もう一度礼をして馬車へ向かった。
従者が扉を開け、木の馬を抱えた彼が乗り込む。
その横で、荷馬車に木箱が積み込まれていく。
三つの波線と、細い三日月。
港で見たのと同じ印が、そこにあった。
ミラが、小さく息を飲む。
「……ジージーさん。あの箱の影」
「うん、見えてる」
箱の隙間から、黒い靄がうっすらと滲み出ている。
でも、港倉庫ほど濃くはない。
ひどく薄められた、遠い遠い“末端”のようなノイズだ。
エルンストが扉の向こうに姿を消し、馬車が動き出す。
車輪が石畳を叩くリズムに合わせて、黒い靄もふわりふわりと揺れた。
(あの人自身が“黒いもの”じゃない。
でも、“黒いもの”が流れてくる管の途中にいる)
わたしはそう感じた。
馬車が遠ざかっていくのを見送りながら、ノルテさんがぼそりと呟く。
「きれいな服着て、きれいな言葉で、きれいな数字並べて。
それで、汚ぇもんを隠せると思ってやがる」
ステラさんは、胸の前で両手を組んだ。
「でも……。
ルーシーのお願い、少しは届いたと思いたいです」
「届いたかどうかは、これから、ですけどね」
わたしは杖の石突で、軽く地面をつついた。
「“鐘を鳴らす”のは簡単だけど。
まずは、“蝶番に油を差す”ほうから始めよっか」
「ちょうつがい?」
ジョナスが首をかしげる。
「ドアのね。
鍵穴に無理やり何か突っ込んでこじ開けるより、蝶番をちょっといじるほうが、静かに大きく動かせるの」
ミラが、ふふ、と笑った。
「ジージーさんの口癖です。
“鍵穴じゃなく、蝶番へ”」
「かっけー!」
リゲロが変なところで感心している。
「じゃあ俺、蝶番担当やる!」
「何それ?」
「分かんねえけど、なんか強そう!」
子どもたちの笑い声が、湖畔に広がった。
◇
その晩。
子どもたちが眠りについたあと、わたしたちは居間に集まっていた。
ステラさん、ノルテさん、カイル、ジージー、ミラ。
テーブルの上には、帳簿と、ミラが描いた簡単な図が広げられている。
「……これが、ミラさんの感じた“黒い気”の流れ、ですね」
カイルが、図の線をなぞる。
孤児院の屋根裏。港の倉庫。
そして、今日のエルンストの印章と、馬車の木箱。
それぞれから伸びる黒い糸が、どこか遠くでひとつに結び合っている――そんなイメージ図だ。
「全部が完全に繋がってるかどうかはまだ分かりませんけど。
少なくとも、同じ“におい”がします」
ミラが言うと、ステラさんは不安そうに眉をひそめた。
「黒い魔法……でしょうか」
「魔法というより、“性質”に近い感じです」
ミラは少し考えてから続けた。
「人の不安とか、諦めとか、“まあ仕方ないか”で見過ごす気持ちとか。
そういうのに入り込んで、ゆっくり染みていく。
魔物みたいに暴れたりはしないけど、いつのまにか、何かが決定的に変わってしまうような……」
ノルテさんが、苦い顔をした。
「つまり、“こんなもんだろう”で諦めてるうちに、街が食い物にされてくってことか」
「そういうの、ミラは嫌いです」
ミラの声が、少しだけ強くなった。
「“どうせ”って言葉、あたしも嫌いだわ」
わたしは肩をすくめた。
「でも、だからって、今すぐ“黒い糸”全部を断ち切ることもできない。
こっちが何をやれるか、慎重に選ばないと」
カイルが、顔を上げる。
「僕は……。
僕にできることは、やります。
エルンスト監査官は、たぶん完全に“悪人”ではない。
でも、“悪い仕組み”の一部にはなっている。
……だからこそ、僕みたいな下っ端が、ちゃんと“変だ”と思ったことを書かないと」
「それは危なくないのかい」
ノルテさんが眉をひそめる。
カイルは少しだけ笑った。
「危ないかもしれません。
でも、数字を書くのが僕の仕事です。
だったらせめて、“見たままの数字”を書いていたい」
その覚悟は、まだ揺れている。
それでも、その揺れる足で前に出ようとしているのが分かった。
ステラさんが、そっと両手を合わせる。
「……ありがとうございます。
子どもたちのために、こんなに考えてくださって」
「いえ、僕は、僕の仕事をするだけで……」
「それが一番、ありがたいんです」
ステラさんの笑顔は、静かで、強かった。
わたしは椅子にもたれて、天井を見上げる。
屋根裏の向こうに、まだうっすらと残る“黒い気”の残り香が、そこにある気がした。
(屋根裏のことも、港の箱も、監査官の印章も。
全部、“今日は別の話”として、こうして机に並べておけた)
鐘はまだ鳴らさない。
でも、蝶番には、少しずつ油を差していく。
帳簿の端に、ミラが小さな折り紙を置いた。
真っ白な紙で折られた、小さな箱。
蓋は閉じられたまま。
「これは?」
「“まだ開けない箱”です」
ミラが少し照れくさそうに言う。
「ジージーさんが言ってた、“中身はまた別の日の話”の折り方。
ちゃんとできてるか見てほしくて」
わたしは思わず笑ってしまった。
「上出来。
じゃあ、その箱は、ここに置いとこうか」
わたしはその折り紙の箱を、帳簿の上ではなく、テーブルの隅にそっと置いた。
港倉庫の“止められた箱”。
屋根裏の“黒い気”。
エルンストの印章と、ルーシーの木の馬。
全部、今はまだ開けない箱の中に、いったんしまっておく。
――いつか、鐘を鳴らすそのときまで。
外では、湖面を渡る風が、静かに窓を叩いていた。
今回は「孤児院の資金問題」を軸に、
・商業ギルドの腐敗
・密輸の影
・ミナ(幽霊)の情報戦
・ジョナス×ベルナの小さな伏線
を組み込みつつ、
次回への“大きな仕掛け”を整えました。
次回は:
■ 商業ギルド編・後編
•ギルド長の闇の暴露
•証拠の提出
•孤児院支援枠の復活
•そしてジョナス×ベルナの小さな進展
を描きます!




