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Staff Hero ― 支える勇者 ―  作者: 和泉發仙


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『旅路の章 ― 砂と風の短編集 ―』 第4話『港倉庫と“止められた箱”』



 昼下がりの湖畔には、まだ木槌の音が響いている。


 崩れた外壁を積み直す音。ひび割れた石畳をはつる音。どこかの奥さんが笑いながら洗濯物を絞る音。

 つい数日前まで、同じ路地に悲鳴と炎が走っていたなんて、初めて来た人には信じられないかもしれない。


 ――よく、ここまで戻したなあ。


 孤児院から街道に出る坂道を下りながら、わたしは肩にかけた鞄を軽く持ち上げた。

 中身は、ステラ院長がまとめてくれた領収書と、カイルが言っていた「おかしな帳簿の写し」。

 紙束の重さ以上に、「これをどう動かすか」の重さがずっしり乗っている気がした。


「ジージーさん、うつむいてると、また石につまずきますよ」


 隣でひょこひょこと歩いていたミラが、わたしの袖をちょいちょいと引っ張る。

 黒髪を高い位置で結び、いつもの紺のローブ。肩には小さな真鍮の鈴が二つ縫い付けてあって、歩くたびにかすかに鳴った。


「ん。大丈夫大丈夫。あたし、こう見えて足腰は鍋で鍛えてるから」


「鍋で鍛えるって、どういう生活なんですか……?」


 そんな他愛もないやりとりをしながら坂を降りると、前方から見覚えのある青年が手を振った。


「ジージー殿!」


 栗色の髪に、まだ新しい官服の襟。

 若手会計官、カイルだ。きちんとした所作の中にも、どこか“いっぱいいっぱいです”と額に書いてあるような真面目さがにじんでいる。


「お待たせしました。孤児院の帳簿、借りられました?」


「うん、この中全部。ステラさん、すごくきれいにまとめててくれてた。あんたの先輩たちに見せたいくらい」


「そうなんですよ……ああいう方が市役所にいてくだされば……」


 思わず本音が漏れたのか、カイルはすぐに咳払いをして表情を引き締めた。


「と、とにかく。今日は港の倉庫番から話を聞けるよう、許可を取ってあります。

 “修復用の資材”が、図面上は動いているのに、現場には届いていない。その途中が――」


「港倉庫、ってわけね」


 わたしが言葉を継ぐと、カイルは力強くうなずいた。


「ええ。

 港から運び出されず“止められた箱”がある、って港の古い知り合いが。それと……」


 そこで、彼はちらりと周囲を見回し、声を落とした。


「治安隊のフォルク隊長が、倉庫の一角を“特別管理区域だ”と言って誰も近づけないそうです。

 書類上は、そこに修復資材が積まれているはずなんですが……」


 フォルク。

 ステラさんやオーレンさんの愚痴に、何度か出てきた名前だ。

 やたらと横柄で、規則を盾に平民を追い立てる。魔法使いと聞けば、とりあえず睨みつけてくる。


(あー……面倒なタイプの匂いがする)


 わたしは内心で深くため息をつきつつ、外側ではにこりと笑ってみせた。


「大丈夫、カイル。箱の位置を確認するだけなら、喧嘩になる前に帰ってくればいいし。

 それに……」


 隣で歩くミラが、わたしのローブの裾をちょん、と摘まんだ。


「“黒い気”の匂いが、港のほうから流れてきてます。

 屋根裏で感じたのと、似てる。ちょっと、奥のほうからですけど」


「――やっぱり、そっちも関係してるか」


 静かな確信が、胸の奥に落ちた。


 孤児院の屋根裏。壊れた梁の影に、ぬるりとまとわりついていた“黒い靄”。

 ミラが小さな指先で触れた瞬間、消えるでもなく、暴れるでもなく、ただ冷たく目を細めた“なにか”。


 あの気配と同じものが、港の倉庫から風に乗ってきている――そういうことだ。


「よし。じゃあ、今日は“箱の場所の確認”まで。

 中身をどうこうするのは……また別の日の話ね」


 わたしがそう言うと、ミラは小さく笑った。


「“今日は別の話”、ですね」


「うん。今日は別の話」


 わたしたちは湖畔を離れ、港へ続く石畳の坂道を下り始めた。


     ◇


 港は、街の表情とは少し違う賑わいを見せていた。


 湖を渡ってくる船が、まだ全便再開というわけにはいかない。

 それでも、半分ほどの桟橋には小さな荷船が繋がれ、網を繕う人、樽を転がす人、船底をこすっている人々の姿が見える。


 壊れた倉庫の壁は粗末な板で塞がれ、ところどころにはまだ焦げ跡が残っていた。

 それを横目に、わたしたちは港の一角、少し人通りの少ない倉庫群へと歩を進める。


「ここから少し先です。

 倉庫番のタビートさんが、僕のことを待っていてくれるはずですが……」


 カイルがそう説明しかけたとき。


「おうい、若造の書き魔法使い!」


 がらがらした声が、倉庫と倉庫の間の路地から飛んできた。

 振り向くと、そこには背の高い男が大きく手を振っている。


 日焼けした肌に、ところどころ継ぎの当たった皮の上着。

 片耳には古びた金の輪。腰には、冒険者風の短剣の鞘がぶら下がっている。


 だけど何より目を引くのは、その笑顔だった。

 快活で、少し擦れていて、どこか「俺の話はだいたい三割増しだぞ」と先に告げてくるような笑顔。


「タビートさん」


 カイルが慌てて駆け寄ると、男――タビートはにやりと笑い、ぐいと彼の肩を抱き寄せた。


「おうおう、相変わらず固そうな顔してんなあ。

 お前なあ、役所勤めだからって、そんなに眉間に皺寄せてっと、そのうち本当にそこに線刻まれるぞ?」


「だ、だからその呼び方はやめてくださいって言ったじゃ――」


「“数字いじりの若造”だろ? 分かりやすくていいじゃねぇか」


 タビートはわたしたちの方に向き直ると、今度は少しだけ礼儀正しく頭を下げた。


「で、そっちの綺麗どころが、噂の“杖の嬢ちゃん”か」


 綺麗どころ、と言われて後ろを振り返りそうになるのをこらえつつ、わたしは笑って会釈した。


「ジージーです。杖は護身用だけどね」


「へぇ、いい心掛けだ。

 俺ぁタビート。昔は前線で魔物と踊ってたが、今は荷札とにらめっこしてる落ちぶれさよ」


 そう言って胸をどん、と叩く仕草が、どうにも嘘くさくなくて笑ってしまう。


 ミラはわたしの後ろからぴょこっと顔を出し、小さくお辞儀した。


「ミラです。ジージーさんのお手伝いしてます」


「お、ちっこい魔法使いもセットか。頼もしいな」


 タビートは目を細め、周囲を確認するように一度ぐるりと見回した。


「……で、若造。例の“止められた箱”の件だがな」


 急に声の調子が落ちて、わたしは自然と耳をそばだてる。


「こっちだ。顔覚えられるのはごめんだからな。さっさと見て、さっさと帰るぞ」


 彼はそう言って、倉庫と倉庫の間の細い通路に入り込んだ。

 木箱の隙間から、潮と薬草と古い酒の匂いが混じったような空気が流れてくる。


 歩きながら、タビートがぽつりぽつりと説明を続けた。


「三日前だったかな。治安隊の連中がぞろぞろ来てよ」


『ここから先は“特別管理区域”だ。倉庫番も立ち入り禁止。

 荷の管理は我々が行う。勝手に触れたら拘束する』


「――ってな。

 帳簿に名前だけ連ねて、あとはこっちに丸投げしてくる貴族様とは違って、あの隊長殿は“わざわざ”顔を出してきた。

 フォルクってやつだ」


 カイルが眉をひそめる。


「フォルク隊長が、こんなところまで?」


「ああ。お前も名前は知ってるだろ。

 奴が“特別”って言った場所は、だいたい誰も中を見なくなる。

 その代わり、妙に荷の出入りが増える。……で、数字の方はどうだ?」


 問われて、カイルも低い声で答えた。


「倉庫から出たことになっている荷が、いくつもある。

 送り先は“修復事業”を担当する委託業者。だけど、現場には届いていない。

 ――帳簿の上だけで動いている物資が、いくつも」


「そういうこった」


 タビートが肩をすくめる。


「お前らの数字と、俺の“目で見た荷の動き”は合わねぇ。

 そして、フォルク隊長様は、“ここから先は見るな”とわざわざ線を引いていきやがった」


 通路を抜けた先、小さな中庭のようなスペースがひらけた。


 そこには、他の場所とは違う空気があった。


 雑然と積まれた木箱の山。

 しかし、その一角――中庭の奥のほうだけは、まるで“きちんと並べました”と言わんばかりに整然と箱が積まれている。


 同じ大きさの箱が、ぴたりと隙間なく積み上がり、その正面には粗末な木の柵が一本、申し訳程度に立てられていた。

 柵には、赤い塗料で大きく『立入禁止』の文字。


「……ここ?」


 わたしが呟くと、タビートは頷いた。


「ここだ。俺も、それ以上近づくなって言われてる。

 お前ら、見るだけ見たら、さっさと――」


 その言葉が終わる前に、ミラがす、と前に出た。


 瞳が、ほんの少しだけ細くなる。


 さっきまで、ただの荷物置き場の一角にしか見えなかったそこから――

 冷たく湿った空気が、ゆらりと吹き出してきたからだ。


「ミラ?」


 わたしが呼びかけるより早く、彼女は柵の手前で立ち止まり、両手を胸の前で組んだ。


「……やっぱり。同じ匂い。

 屋根裏の“黒い気”と、同じ系統。でも、もっと固く、厚く……」


 ミラの言葉は途中で途切れた。


 箱の列の奥――人の背丈の二倍ほどの高さまで積まれた一番上の箱の、隅。

 そこから、薄墨色の靄が、糸のようにゆっくりと立ち上っているのが見えた。


 普通の人には、ただの影にしか見えない。

 けれど、魔力の感覚を持つ者には、それが“なにか別のもの”であると、はっきり分かる。


(やっぱり、ここにもいた)


 喉の奥が、一瞬だけきゅっと乾いた。


 杖を握りしめる手に力が入る。

 けれど、まだだ――と、頭のどこかが冷静に告げていた。


「嬢ちゃん、どうした?」


 タビートが低く問いかける。

 ミラは視線を“黒い靄”から外さないまま、ぽつりと言った。


「箱……一つ一つには、普通の荷物が入ってます。木材とか、金具とか。

 でも、上から二段目あたりに、一つだけ、違うものが混じってる。

 そこを中心に、黒い気が“絡みついてる”。――何か、封じてるみたいな、そんな感じ」


 タビートがぎょっと目を見開いた。


「封じてる、って……爆薬とか、そういうヤバいもんか?」


「爆発する感じじゃありません。もっと……ねばっとしてて、ゆっくり染み込んでいく。

 屋根裏で、子どもたちの夢にじわじわ入り込もうとしてた時の……“あの感じ”に近いです」


 言葉を重ねるうちに、ミラの額にじわりと汗が滲む。

 それを見て、わたしはそっと彼女の肩に手を置いた。


「ミラ、そこまで。ここから先は、“今日は別の話”。」


「……はい」


 彼女は小さくうなずいて、一歩下がった。


 タビートはまだ顔をしかめている。


「嬢ちゃんらが何を見てるか、俺にはさっぱりだがよ……

 とにかく、こいつらの荷札は全部“修復資材”だ。

 数字の上じゃとっくに街に出てるはずの荷が、ここで眠りこけてる。

 で、その真ん中に、“何か得体の知れねぇモン”が混ざってるってわけだな」


「そういうこと」


 わたしは頷き、箱の列をよく観察するふりをしながら、さりげなくいくつかの印を目に刻んでいった。


 箱の端に押された焼き印。

 丸に三本の波線。その下に、細い三日月。


(この印、見たことあるな)


 孤児院の厨房。ステラさんが使っていた保存塩の袋に、同じ印が押されていたはずだ。

 ――たしか、市の“修復事業”を請け負っている商会の紋章だと、オーレンさんが言っていた。


「ねぇカイル。あの印、分かる?」


「ええ。“湖岸修復合同組合”の印です。

 復旧事業の入札で大口を取った業者の連合体ですが……」


 そこで、彼は言葉を濁した。


「その組合の代表理事が、今回の“視察”に来ている監査官と、昔からの知り合いで」


 なるほど、とわたしは心の中で頷く。


(表向きは“監査官が来て、復旧の様子をチェックしてくれている”。

 裏側では、“監査官の古い友人の懐に、余分な金や物が流れている”。

 そして、その流れの途中に、なぜか“黒い気”が混ざってる)


 ぐつぐつと鍋が煮立つ前の、静かな水面のような不穏さ。

 杖の先でつつけば、いくらでも泡が出てきそうだ。


 そのとき――


「貴様ら、そこで何をしている?」


 低く太い声が、中庭に落ちてきた。


 わたしたちは同時に振り向いた。


 そこには、銀の縁取りのついた革鎧に身を包んだ男が立っていた。

 濃い金髪を後ろに撫でつけ、顎には短い髭。

 胸には、市の紋章と、その上に重ねるようにして“治安隊長”の標章。


 フォルク――と、カイルが小さく呟いた。


「た、隊長……。こちらは、復旧物資の確認を――」


「誰の許可でだ」


 フォルクの視線が、氷のように冷たくカイルを刺した。


「ここの物資は、治安隊の責任において管理している。

 役所の書き付け屋風情が、好き勝手に嗅ぎ回ってよい場所ではない」


 カイルの喉が、ひくりと動いた。

 それでも、彼は勇気を振り絞るように口を開く。


「で、ですが……。帳簿上では、ここにある資材はすでに市の各所へ搬出されたことになっています。

 復旧の遅れが出ている以上、実地確認は――」


「“帳簿上では”、か」


 フォルクの口元に、薄い笑みが浮かんだ。


「ならば、帳簿を直せばよかろう」


「……え?」


「現場は忙しい。数字はいくらでも書き換えがきく。

 復旧が遅れているなら、紙の上で進めてやればよい。

 市民は“安心したい”のだ。お前たち書き付け屋の仕事は、“安心させる数字”を書くことだろう?」


 言葉は静かだった。

 だけどそこに含まれる侮蔑と、ぞっとするほどの歪みは、はっきりと伝わってきた。


(……ああ、ダメだ、この人)


 わたしは心の中で、ひとつため息をついた。


 何がどう間違って、そこまでねじれてしまったのか。

 だけど、目の前の男は、“自分が間違っている”なんて一片も思っていない。


 それどころか――彼の背後に、薄く、あの“黒い気”がまとわりついているのが見えた。


 ミラが、わたしの袖をぎゅっと掴む。


「ジージーさん、あの人……」


「分かってる」


 小声で答えながら、わたしは一歩前に出た。


「治安隊長殿。

 カイルさんは、市の復旧のために動いています。

 わたしたちは、そのお手伝いをしているだけです。

 もし許可が必要なら、正式な手続きを踏んで――」


「お前は何者だ」


 フォルクの視線が、わたしに向いた。


 そのとたん、空気が少しだけ重くなる。

 まるで、見えない手が肩に乗せられたような感覚。


「杖……旅人。魔法使いか。

 この街は、今、繊細な時期だ。よそ者の魔法使いが、勝手に嗅ぎ回っていい場所ではない」


 フォルクの視線は、わたしからミラへと流れ、そしてタビートに向かった。


「タビート。

 お前は倉庫番のくせに、口が軽すぎる。

 港の管理権限がどこにあるか、忘れたわけではあるまいな?」


「へいへい。忘れちゃいませんよ、隊長殿」


 タビートは肩をすくめて笑ってみせた。


「ただ、荷が滞ってりゃあ、現場は困る。

 困った現場が愚痴る場所くらい、あってもいいだろ?」


「愚痴を言う暇があるなら、手を動かせ」


 フォルクの目が細くなる。


「――いいか。

 ここは治安隊の管理区域だ。

 これ以上の立ち入りは“妨害行為”として拘束の対象になる」


 その言葉は、わたしたち全員に向けられていた。


 カイルの顔色が、さっと青ざめる。

 タビートはふん、と鼻を鳴らしたが、さすがにこれ以上の挑発はしなかった。


 わたしは、ほんの一瞬だけ迷った。


 今ここで、杖を構えて、フォルクの背後にまとわりつく“黒い気”を叩き落とすこともできるかもしれない。

 彼の足元を払って、箱の列の“違う箱”を叩き割ることも。


 でも――


 その瞬間、この港は戦場になる。


 孤児院の子どもたちの生活は?

 ステラさんが必死に守ってきた日常は?

 ジョナスやベルナが、湖畔で交わし始めた小さな約束は?

 ルーシーが、木片を削りながら見つめていた未来は?


(“鐘”は、まだ鳴らさない)


 どこか遠くで、師匠の声がした気がした。


 わたしは深く息を吸い、杖からそっと力を抜いた。


「分かりました。

 今日は、ここまでにしておきます」


 穏やかな声でそう告げると、フォルクの口元に、わずかな満足げな笑みが浮かんだ。


「賢明だな。

 よそ者らしく、観光と施しに精を出すがいい。

 数字の話は、“数字の分かる者”に任せておけ」


 そう言い捨てて、彼は踵を返した。


 その背中を、黒い靄が薄く追いかけ、やがて倉庫の影に溶けていく。


 ミラが、悔しそうに唇を噛んだ。


「ジージーさん……」


「うん。悔しいね」


 わたしも同じ気持ちだった。


 だけど、ここは“退く”場面だ。

 退く代わりに、しっかりと見る。覚える。考える。


「でもさ。今日は“見られた”だけでも、収穫よ」


 わたしは意識して明るい声を出した。


「箱の印も、並び方も、フォルクの態度も、“黒い気”の絡みつき方も。

 屋根裏のときと、どこが同じで、どこが違うか。

 帰ったら、ステラさんやオーレンさんにも聞いてみよう。

 タビートさんにも、教えてほしいことがたくさんある」


 タビートが肩をすくめる。


「おうとも。俺の知ってることならいくらでも話してやる。

 ただし、俺の昔話は長いぞ?」


「じゃあ、ルーシーの木工の話と交換で」


「なんだそりゃ?」


 ミラがくすっと笑い、重たい空気がほんの少しだけ軽くなった。


 カイルはまだ固い表情のままだったけれど、わたしたちのやりとりに、ほんの少しだけ口元を緩める。


「……ありがとうございます、ジージー殿。

 僕一人だったら、きっと勢いで突っ込んで、すぐに詰んでました」


「突っ込みたい気持ちは分かるけどね。

 でも、今はまだ、“別の話”。

 “黒い箱”の中身を開ける日は、そのうち、ちゃんと来るからさ」


 わたしはもう一度、箱の列を振り返った。


 整然と積まれた箱の壁。

 その奥に、かすかに揺れる黒い糸。


 ミラは、その気配をじっと睨みつけてから、ゆっくりと目を閉じた。


「……覚えました。この匂い。

 次に会ったら、もう少し、“ほどき方”が分かるかもしれません」


「うん。そのときは、一緒にね」


 わたしたちは中庭を離れ、再び倉庫と倉庫の間の細い通路へと戻っていく。


 背中に、“止められた箱”の存在感をひしひしと感じながら。


     ◇


 港から孤児院への帰り道、湖面には夕陽が映り込み始めていた。


 橙色の光が、水面をきらきらと走る。

 遠くで子どもたちの笑い声がする。きっと、リゲロがまた縄跳びで引っかかって、みんなにからかわれているのだろう。


「ジージーさん」


 ミラが、不意に話しかけてきた。


「屋根裏の“黒い気”と、港の“黒い箱”と……

 どちらも、“誰かがわざと持ち込んだ”感じがします」


「うん。自然に湧いたもんじゃないね、あれは」


「孤児院の子たちの夢も、“数字だけ進む復旧”も。

 ゆっくり、静かに、濁していくような……。

 そういうの、好きな人が、どこかにいる」


 ミラの言葉は淡々としていたけれど、その奥にある怒りは、はっきりと伝わってきた。


 わたしは湖を見ながら、小さく頷いた。


「――だからこそ、あたしたちは、急がないで見ていこう」


「急がない、で?」


「うん。

 大事なものを守るとき、慌てて杖を振り回すと、かえって壊しちゃうからね。

 まずは、ステラさんのご飯を食べて、子どもたちの声を聞いて、ちゃんと眠って、ちゃんと笑って。

 そのうえで、“どこから手を付けるか”を決めたい」


 ミラは少しだけ考えるように視線を落とし、やがてふっと笑った。


「ジージーさん、らしいですね」


「褒めてる?」


「もちろん、褒めてます」


 そんな会話をしながら坂を上ると、湖畔の孤児院の屋根が見えてきた。


 窓からは、夕飯のいい匂いが漂ってくる。

 玄関先には、木片と削り屑が散らばっていて、その真ん中でルーシーが眉間に皺を寄せながら小さな馬を削っていた。


「おかえりなさい!」


 ジョナスが駆け出してきて、カイルの腰に飛びつく。


「お兄ちゃん、今日もたくさん数字と戦ってきた?」


「戦ってきたよ……いろいろとな」


 カイルは苦笑いしながらも、その目には午前中よりも少しだけ強い光が宿っていた。


 ベルナは、その様子を少し離れた場所から眺めていて、目が合うと恥ずかしそうに顔をそらす。


 ステラ院長は、台所の窓からこちらを見て、安心したように手を振った。


 ――この日常を、守りたい。


 港倉庫の“止められた箱”の光景が、頭の片隅で静かに揺れる。

 でも今は、“今日は別の話”。


 わたしは杖の石突で、そっと玄関前の石をつついた。


 カン、と小さな音がして、子どもたちの笑い声が一斉にこちらを向く。


「さ、今日の晩ごはんの前に、ミラの折り紙マジック、もう一回やってもらおっか」


「えぇ!? またですか? もうネタが――」


「大丈夫だよミラ。今日、港で新しい“折り方”思いついたからさ」


「え……どんな?」


「“箱を折るけど、中身はまだ開けない折り方”」


「それ、なんか不穏なんですけど!?」


 子どもたちが、きゃあきゃあと笑いながら玄関に群がってくる。


 わたしは笑ってその中に飛び込みながら、心のどこかで、港の箱のことをそっと封じた。


 ――それは、また別の日に語られる話。


 今はただ、孤児院の夕餉の匂いと、子どもたちの声を胸いっぱいに吸い込む時間だ。

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