『旅路の章 ― 砂と風の短編集 ―』 第3話『孤児院と小さな財布』
夜、孤児院の食堂にはパンの甘い香りが満ちていた。
おつかいで買ってきた粉と油で作った、ふかふかのパン。ステラが丁寧に焼き上げたものだ。焼き立てを並べると、子どもたちの歓声が天井まで届きそうだった。
「おかわり! おかわり!」
「ミナねーちゃん、半分こして!」
「ミナ、ひとりで一個食べられる……けど、半分こしよ!」
みんなの声が混ざり合う。
さっきまでは少し緊張していたルーシーも、今は笑顔でパンを頬張っていた。
「ミナ! 見て! これ、中に干しぶどうが入ってる!」
「うわぁ、あまい!」
ステラが苦笑しながら言う。
「ほんの少しだけ混ぜたの。みんな、がんばったごほうびよ」
パンの表面は少し焦げていたが、その焦げすらおいしさに見える。
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夕食の後片付けをしながら、俺とステラは小さなキッチンで並んでいた。
「今日のパン、好評だったね」
「ええ。子どもたちが喜んでくれると、それだけで疲れが吹き飛びます」
ステラは洗った皿を布巾で拭きながら、ふと視線を落とす。
「……でも、本当はもっと栄養のあるものを作ってあげたいんです。お肉も、果物も」
「無い袖は振れない、か」
「はい。“節約”にも限界があります」
柔らかな声が、少しだけ震えた。
「実は、今日……監査の方が来て」
「細目の帳簿男?」
「え?」
「あー……いや、なんでもない」
ステラは困ったように微笑み、続けた。
「数字の食い違いがあるから、詳しい説明が必要だと言われました。もちろん隠しているものは何もありません。私の記入が下手だっただけで……」
「下手とかじゃなく、現場で一番大事なのは“管理能力”より“守る力”だろ」
「……ジージーさんは、いつも子どもたちを守ってくださいますね」
ステラが少しだけ俺に寄りかかりそうになる。
その肩を支えるように、俺は軽く笑ってみせた。
「無理に抱え込むなよ。ちゃんと頼れ。俺たちにも」
「……はい」
その返事は、とても小さく、でも確かな強さを持っていた。
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子どもたちは、夕食後の自由時間。
廊下では、ジョナスとベルナが相談していた。
「……で、これで告白したら?」
「し、しないよ!?」
「なんで!? ルーシーのこと気にしてんじゃないの?」
「気にしてないし!! き、昨日のは……ただ、助けてもらっただけで!」
ジョナスは真っ赤な顔で手を振る。
ベルナはそれを見て、じとーっとした目になる。
「ふーん? 助けてもらっただけ? そっかぁ?」
「や、やめてよその目ぇ!」
初々しいな。
からかいたくなるじゃないか。
「へぇー、ルーシーのこと好きなんだ?」
「ひっ!? じ、ジージーさん!」
「だれがっ!? 誰のこと好きだって!?」
「大丈夫、バレてないバレてない」
「い、いまバレたよっ!」
ミナがぴょこんと近寄り、俺の袖を引く。
「ミナは、ベルナがジョナスのこと気になってると思った」
「ミナまでっ!? やめてよぉ!」
ベルナの耳まで真っ赤だった。
かわいい。これは大事に育てるべき。
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そんな賑やかさが続く中、ルーシーは一人、窓際で木馬を磨いていた。
あの木馬だ。少し手を入れたのか、昨日より形が整っている。
「どうだ。いい感じじゃないか?」
「うん。でも……もっときれいにしたいの。誰かがこれを見て、“かわいい”って思ってくれるように」
「そんなん、もう十分かわいいだろ」
「ほんと?」
「ほんとほんと」
ルーシーの笑顔。
その表情が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「……でも、ステラが困ってるの、分かるから」
「……」
「昨日の夜、ステラ、誰もいないところで泣いてたの。声、聞こえちゃった」
小さな手が木馬を握る。
「わたし、力になりたい。数字、もっと覚える。もっと上手に物を作れるようになる。……いつか、お金の心配、しなくていいくらいにしたい」
「ルーシー……」
「だって……ステラ、いちばんがんばってるんだもん」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
(あぁ……この子たちの未来は、絶対守んなきゃいけない)
たとえどんな汚い帳簿が相手でも。
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夜。
「こわいはなし! こわいはなしして!」
「やだやだ! 眠れなくなる!」
「じゃあミナが怖い話する」
「ひっ!?」
子どもたちは寝る前の怪談タイムに突入していた。
ミナが手のひらをひらりと動かすと、キャンドルの炎が揺らめき、影が壁に踊る。
そこにリゲロが自作の“幽霊歩き”で、ズザザと床を引きずるように登場するもんだから……。
「きゃあああ!!」
「ぎゃああああ!!」
「やめて――っ!!」
「ちがう! これ怖くないやつ!」
「声が怖い!」
ミナが一言。
「違う、怖くない。リゲロはおばけじゃない。……おばけより弱い」
「そんなこと言うな!!」
わちゃわちゃしながらも、間もなく子どもたちは布団に潜り込んだ。
俺とミナは、その様子を見届け、消灯した。
「ジージー、屋根裏」
「うん……俺も、気になってる」
廊下の奥、階段の上。
扉がひとつだけ、ぽつんと闇に溶け込むように佇んでいる。
そこから、かすかに声が聞こえた。
ぎ……
ぎ、ぎ……
古い木が軋む音。
それとも、誰かが動いている音か。
「見にいく?」
「……まだだ」
「まだ?」
「何が起きてるか分からないまま、闇雲に触ると……余計に悪化することもある」
俺は、ステラの部屋の灯りが漏れる方向へ視線を向ける。
「まずは、守るべきものを整えてからだ」
「……わかった」
ミナは小さく息を吸い、静かに頷いた。
⸻
夜が更けた頃。
市役所の灯りは、まだ落ちていなかった。
カイルは机に突っ伏し、書類の山に囲まれていた。
さっきから、上司の言葉が頭の中をぐるぐる回っている。
「数字こそ正義だ。数字だけが国家を動かす」
「支援打ち切りもやむを得ない。国のためなのだから」
「……ほんとうに?」
カイルは、震える指先で一枚の紙を指でなぞった。
《星灯り孤児院:支給金 一部差し止め》
差し止めの理由欄には、冷たい文字が並ぶ。
管理者の記帳不備につき、信頼性欠如
指導監督のため、当面支給保留とする
「記帳不備、だけ……?」
実情は違う。
ステラは必死にやっていることを、カイルは今日知った。
あの孤児院は、必要な支援を十分に受けていない。
――それなのに、さらに削られる。
「……数字は、人を助けるためにあるんじゃないのか……?」
(だったらなんで、あの子たちのパンが減る?)
胸の奥に、怒りと悲しみがじわりと湧く。
そこに、細目の男――課長補佐ミルトが近づいてきた。
「カイル。まだ書類が終わらないのか」
「は、はい。急ぎます」
「急げ。上は待ってはくれん」
「……っ」
「数字に情を混ぜるなよ。国のために働け」
ミルトは冷たく笑い、去っていった。
カイルは拳を握る。
(情を混ぜるな?)
(……俺は、あの孤児院の子たちの笑顔を、知ってしまった)
(知らなきゃよかったと思うか? ──いや)
(知れてよかったと思ってる)
「だから俺は……変える」
ひとりごとのような声が、深夜の役所に溶けていった。
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一方、孤児院。
真夜中。
静まり返った廊下を、何かが歩く。
ぎっ……
ぎ……
ぎ、ぎ……
階段を、一段ずつ。
――屋根裏から。
その“黒い気”は、子どもたちの寝室の前で止まる。
扉が、コツ……と揺れた。
その気配に、ミナはぱちりと目を開ける。
暗がりの中、ゆっくりと布団から抜け出した。
「……だれ?」
囁き声。
返事は無い。
ただ、闇がひっそりとそこに佇んでいる。
「ミナが、見てくる」
ミナはそっと扉へ手を伸ばす。
その瞬間、肩を掴まれた。
「っ!!」
「おーっと、こら。勝手に動くなよ」
俺だ。
ミナの肩を軽く押し戻す。
「……ジージー、起きてた?」
「お前が起きてる気配、分かるに決まってんだろ」
「そっか」
闇越しに目を合わせる。
「ミナ。まずステラを安心させる。明日、ちゃんと話を聞く」
「……うん」
ミナは俺の袖をぎゅっと掴む。
「ジージー。子どもたちは、ぜったい守るよ?」
「ああ。当たり前だ」
“黒い気”は、また屋根裏へと引いていった。
今夜は、試すだけだったのだろう。
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翌朝。
湖畔に、朝日が差し始める。
今日も、パンを焼く匂いが孤児院に広がり始めた。
けれど――
ステラの帳簿には、昨日よりも大きな“数字の穴”が空いていた。
そして、屋根裏には
昨夜よりも濃い闇が潜んでいた。
まだ誰も、この小さな魔の手の正体を知らない。
でも、確実に近づいている。
(――数字の裏に潜む闇を、必ず暴き出す)
ジージーはそう心に誓い、杖を握りしめた。
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つづく




