旅路の章 ― 砂と風の短編集 ―古家の笑い声(前編)
【前書き】
※このエピソードは
・ジージー&セルグレンの“お金の尽きかけた旅”
・裏切られた冒険者リゲロとの出会い
・ポルターガイスト系の“見えない何か”の前触れ
を扱う前編です。
本格的な霊現象バトルは次回・後編で。
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【本編】
森の匂いが変わった。
昼過ぎだというのに、頭上の枝葉はほどよく陽を遮り、
土は柔らかく、しっとりと湿っている。
森の向こうには、まだ見ぬ街――
そこまで三日はかかる、とセルグレンは言っていた。
「……セル、さすがに今日中にはどこか屋根のあるところに泊まりたいですよ」
ジージーは肩にかけた荷袋を持ち上げ、
くたびれた靴のつま先を眺めてため息をついた。
「金のない旅人が、宿場町の数まで贅沢言うな」
先を行くセルグレンが振り向きもせずに答える。
背中は相変わらず岩のように大きい。
「森の中なら、焚き火と毛布で十分だ」
「えー……。
このあたり、夜になると冷えますよ? ほら、空気が湿っぽいし」
「だったら早く歩け」
「ひどい」
口では文句を言いながらも、
ジージーは歩みを止めない。
リルモアを出てから、どれくらい経っただろう。
帳簿の街のことを思い出すと、胸の奥が重くなる。
(あそこには、もう帰れない。
“外来者”の行がどう書き換えられたとしても……
あたしは砂の側を選んだから)
セルグレンと二人。
背中の杖だけが、ジージーの“今の全部”だった。
そのとき――
「……今、聞こえました?」
「何がだ」
「人の……うめき声、みたいな」
足を止めて耳を澄ます。
森を渡る風がざわざわと枝葉を揺らし、
遠くで鳥が鳴く。
――かすかに、何かが地面を引きずるような音。
セルグレンも眉をひそめた。
「……獣じゃないな」
「人、ですよね」
「行くぞ」
二人は音のするほうへ駆け出した。
◆
藪をかき分けた先の窪地に、
一人の男が倒れていた。
四十前後だろうか。
粗末な布の上着は泥だらけで、
腰には使い込まれた短剣。
意識はなく、胸だけがかすかに上下している。
「……生きてます」
ジージーは慌てて膝をついた。
手首に触れると、弱いながらも脈がある。
近くには、砕け散った水筒と転がった革袋。
中身は空だ。
セルグレンがしゃがみ込み、
男の口元に鼻を近づけた。
「酒の匂い……いや、これは」
「毒ですか?」
「ああ。
それも、ゆっくりと内臓を弱らせるタイプだ。
安酒に混ぜて飲ませれば、単なる体調不良にしか見えん」
セルグレンの目が細くなる。
「……誰かに盛られて捨てられたか」
ジージーは周囲を見回した。
足跡は雨で半端に消え、
ここに運ばれてからどれだけ時間が経ったのかもわからない。
「このままだと、あと数刻ですね」
「そうだな」
セルグレンは腰の小さな皮袋を探った。
中から、黒ずんだ小瓶がひとつ、
カラン、と音を立てて出てくる。
「いつの間にそんなもの」
「昔もらった“借り”の残りだ。
砂の隊では毒を使う連中も多かったからな」
セルグレンは迷いなく小瓶の蓋をあけ、
男の口をこじあけて中身を流し込んだ。
強い薬草の匂いが立ちのぼる。
「代金はあとで……な」
セルグレンが小さく呟く。
「聞こえてないと思いますよ」
「聞こえてなくてもいい。
借りは借りだ」
ジージーはその横顔を見て、
ふっと笑った。
「セル、優しいですね」
「優しいんじゃない。
“後で文句を言われないように”しているだけだ」
「はいはい」
◆
「でも、ここでは休ませられませんね」
ジージーは男の肩を確かめながら辺りを見回した。
「せめて、雨風がしのげるところがあれば」
「この先、森の縁に出るはずだが……」
セルグレンが少し考え、
木々の隙間から遠くを眺めた。
薄暗い森の奥、
傾きかけた陽を背に、
ぽつんと屋根の影が見える。
「……あれだな」
「家……?」
「古い家だ。
煙は出ていない。
人が住んでいるかはわからんが、
屋根と壁があるだけマシだ」
「幽霊屋敷じゃなければいいんですけど」
「幽霊より、雨に濡れて風邪をひくほうが危ない」
「たしかに」
二人は手早く男を抱え上げた。
ジージーが足元を支え、
セルグレンが上半身を担ぐ。
重さが腕に食い込むが、
倒したままよりはましだ。
森の奥へと進むにつれ、
空気の温度がひとつ下がった気がした。
◆
家は、たしかに“ぽつんと”立っていた。
苔むした石垣に囲まれた小さな建物。
屋根の一部は崩れかけているが、
壁はまだしっかりしている。
窓は板で打ち付けられ、
扉も歪んでいる。
何より――
周囲だけ、空気が湿り気を帯びているように感じられた。
ジージーは思わずセルグレンの袖をつまんだ。
「……やっぱり、幽霊屋敷っぽくないですか」
「幽霊は雨漏りを直してくれるのか?」
「直してくれないと思います」
「だったら入る価値はある」
セルグレンは淡々と言いながら、
扉の取っ手を握った。
ぎ……ぎぎぎ、と重い音がして、
扉が少しだけ開く。
中から冷たい空気が流れ出てきた。
「誰か……いませんか?」
ジージーが声をかける。
返事はない。
しばらく耳を澄ませたが、
人の気配は感じられなかった。
「……お邪魔します」
二人は男を担いだまま中に入った。
◆
家の中は薄暗く、
古い木の匂いと埃の匂いが混じっていた。
床には所々、板の欠けた部分があり、
踏むとぎしぎしと音を立てる。
しかし、
雨風はしのげそうだ。
中央には、かつて暖炉だったと思われる石組み。
その前に、古びたソファがひとつ。
「ここに寝かせましょう」
ジージーとセルグレンは男をソファに横たえた。
枕代わりに硬くなったクッションを差し込み、
上から自分たちの外套の片方をかける。
男の顔色はまだ悪いが、
呼吸はさっきより安定しているようだ。
「薬はきいている。
数刻もすれば目を覚ますだろう」
セルグレンが脈を確かめながら言う。
「よかった……」
ジージーは胸を撫で下ろした。
ふと、壁にかかった古い絵に目が留まる。
家族の肖像画だろうか。
煤けているが、
そこには若い夫婦と、その腕に抱かれた幼子が描かれていた。
誰も笑ってはいない。
しかし、互いに少し身を寄せ合うように描かれた姿からは、
それでも確かに“家族”の気配が感じられた。
「ここ、誰か住んでたんですね」
「家は勝手に建たないからな」
「……今もいるんですかね」
ジージーが呟くと、
セルグレンはちらりと絵を見ただけで視線を外した。
「いないと思え。
いると思えば余計なものが見える」
「怖がらせないでくださいよ」
◆
ひとまず、
ジージーは暖炉の前に小さな火を起こした。
湿った薪でも、
セルグレンが上手く風を送り込むと、
やがてぱちぱちと火がつく。
「はぁぁ……やっとあったかい」
ジージーはその前に座り込んだ。
足先までじんわりと温かさが広がっていく。
背後のソファでは、
男が浅い眠りの中で唸り声をあげている。
「そういえば、セル」
「なんだ」
「そろそろ……ほんとにお金、やばくないですか」
ジージーは火を見つめたまま言った。
「リルモアを出る前に換金した分、残り二枚ですよね。
宿代と食費と、あたしの靴底――」
「靴底は知らん」
「ひどい」
セルグレンは、無表情のまま腰の袋を軽く叩いた。
「……街ひとつ分は、何とかなる」
「その街ひとつ分が遠いんですよ」
ジージーは、手のひらの豆をさすりながら笑った。
「そろそろ、ほんとに“仕事”を探さないと。
暗殺とか略奪とかじゃないやつで」
「俺の履歴にそんな仕事はない」
「だからこそ、ですよ」
ジージーは振り向いた。
「セル、昔“冒険者”とかやってませんでした?」
「ない」
「一度ぐらいやりましょうよ。
魔物退治とか、護衛とか。
“杖の勇者とMハゲの護衛”って看板を出したら、
けっこう人気出ると思うんですけど」
「その看板はやめろ」
「えへへ」
暖炉の火が、二人の影を壁に揺らした。
◆
どれくらい時間が経っただろう。
火が少し落ち着いたころ、
ソファのほうからかすかなうめき声が聞こえた。
「……う……ん……」
「目、覚めましたね」
ジージーは立ち上がり、男のそばに寄った。
男はまぶたを震わせ、
やがてゆっくりと目を開く。
充血した瞳が、ぼんやりと天井を映し――
次にジージーの顔を認めて、かすかに驚いたように揺れた。
「……ここは……」
「森の中の古い家です。
あなた、道の横で倒れていたんですよ」
「道の……横……」
男は眉をひそめ、
喉元を押さえた。
「……胸が重い。
胃が、焼けるように……」
「毒ですよ」
セルグレンが淡々と告げる。
「安酒に混ぜられたやつだ。
解毒薬を飲ませた。
命は助かったはずだ」
「毒……?」
男はしばらく言葉を失っていたが、
やがてゆっくりと息を吐いた。
「……ああ、そうか。
あいつらか」
その声は、
諦めとも怒りともつかない色を帯びていた。
「起き上がれるか?」
セルグレンが肩を支えようとすると、
男はまだふらつきながらも上体を起こした。
顔には深い皺。
こめかみには古い傷跡。
眼光だけは、年季の入った戦士のそれだ。
「助けてくれて……礼を言う」
男はゆっくりと頭を下げた。
「俺の名はリゲロ。
小さな街を拠点にしていた、
しがない冒険者だ」
「やっぱり冒険者なんですね!」
ジージーの目が輝いた。
「セル、ほら!」
「騒ぐな」
セルグレンは眉をひそめたが、
内心では少しだけ興味を示しているように見えた。
「俺はセルグレン。
こっちはジージーだ」
「ジョージア・ギルバートです。
ジージーでいいです」
「ジージー……
変わった名だな」
リゲロは苦笑した。
「助けてくれたことには……必ず恩を返す。
今は、財布の中身も誇れるほどじゃないがな」
「代金はあとで、ってことで」
セルグレンが短く言う。
「ちょうど今、労力を金に換える方法を
探し始めたところでな」
「セル、それ言い方が物騒です」
ジージーは苦笑しつつ、
リゲロの様子を観察した。
彼の上着の袖には、
どこかのギルドの紋章らしき刺繍がある。
「仲間に……やられたんですか?」
ジージーが慎重に訊ねると、
リゲロは短く目を閉じた。
「……ああ」
低い声で答える。
「最近組んだばかりのパーティでな。
俺以外は、みな若い連中だった。
腕は立つ。
だが、“金の匂い”がすると目の色が変わる」
リゲロは拳を握りしめた。
「帝国の鉱山で見つかった“古い遺跡”の
調査依頼が来たんだ。
報酬は破格。
だが、危険も多い。
依頼主は“慎重にやれ”と言った。
だが連中は、もっと早く終わらせようとした」
喉が震える。
「俺は止めた。
だが……
“古株のくせに腰抜けだ”と笑われてな。
宿に戻った夜、
いつものように杯を交わして――
気づけば、あの森の中だった」
「ひどい……」
ジージーは眉をひそめた。
「じゃあ、今ごろみんなは……」
「遺跡に潜っているか、
俺の持っていた分の報酬を山分けして
どこかへ消えたかだろうさ」
リゲロは自嘲気味に笑った。
「“仲間”なんてそんなものだ。
酒と金で繋がる程度の絆は、
毒酒一杯で簡単に切れる」
部屋に、暖炉の火の音だけが響いた。
それからしばらく、
三人はそれぞれの杯のように声を交わした。
セルグレンは自分の過去を多くは語らなかったが、
砂の隊で見た“裏切り”の話をいくつか、
ぽつりぽつりと口にした。
ジージーは、
リルモアの帳簿と、グレン老人のことを少しだけ話した。
「……お前たち、
ずいぶんと“濃い旅路”を歩いてきたようだな」
リゲロはそう言って、
くしゃりと顔をほころばせる。
「だが、その歳で生きてここにいるだけで、
たいしたものだ」
「セルがいたからですよ」
「お前のしつこさのほうが危険だ」
「褒め言葉として受け取っておきます」
三人の間に、
ほんの少しだけ柔らかな空気が流れた。
◆
火が小さくなり始めたころ。
ふいに――
どこからともなく、かすかな笑い声が聞こえた。
くすっ……くすくす……
女とも子どもともつかない、
高くて、乾いた笑い声。
「……今の、聞こえました?」
ジージーは背筋に冷たいものが走るのを感じながら、
ゆっくりと周囲を見回した。
セルグレンの表情がわずかに硬くなる。
「ああ」
リゲロもソファの背にもたれたまま、
眉を寄せている。
「……外からか?」
セルグレンが低く問う。
「いえ……」
ジージーは耳を澄ませた。
笑い声は、
壁からでも天井からでもなく――
家そのものの中から、
すぐ耳のそばから、
じわりじわりと染み出すように聞こえてくる。
くすくす……
くすっ……はは……
まるで、
三人の会話をずっと聞いていた誰かが、
やっと口を開いたかのように。
「なぁにが“仲間”だよ」
囁き声が、すぐ隣から聞こえた気がした。
ジージーは反射的に振り向いた。
だが、そこには誰もいない。
あるのは、煤けた壁と、
古い家族の肖像画だけ。
その肖像の幼子の口元が、
今だけ、ほんの少し
笑っているように見えた。
「……セル」
「ああ、聞こえている」
セルグレンは立ち上がり、
杖の代わりに暖炉の火掻き棒を握った。
「ここは、“ただの空き家”じゃないらしい」
「霊……現象、ですね」
ジージーは自分の杖を手繰り寄せ、
足元を固めるように構えた。
リゲロも、
まだ本調子ではない体を起こし、
短剣の柄に手を伸ばす。
くすくすくす――
笑い声は、
今度ははっきりと、
部屋のあちこちから響いた。
暖炉の火が、
突風でもないのにふっと揺らぎ、
壁に映る影が歪む。
ジージーたちは、
三人同時に息を呑んだ。
――その夜、この森の古い家で、
彼らは“目に見えない同居人”がいることを
嫌でも思い知ることになる。
それが、
この先の旅路を変える出会いの、
最初の一笑いだった。
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【後書き】
お読みいただきありがとうございます。
今回は、
•森の中で倒れていた男リゲロとの出会い
•セルグレンの「代金はあとで…な」というささやかな優しさ
•リゲロの“仲間に毒を盛られた冒険者”という身の上
•ジージーたちの金欠事情と、冒険者の存在のチラ見せ
•そして、古い家での“笑い声”という霊現象の前触れ
を描く 前編 でした。
次回・後編では、
•この家に取り憑いた“何か”の正体
•リゲロの過去と、この家との意外な縁
•「冒険者」という生き方の光と影
•ジージーたちに向けられる、“ある提案”
を、一気に描いていきます。
ホラー寄りですが、いつもの
「非致死・ほどほど」「鍵穴じゃなく蝶番へ」 の軸は守りつつ、
“霊との付き合い方”をジージーなりに掴んでいく回にしたいと思います。




