理事会館の影 ― 数字に触れる手
【前書き】
※本話は、理事会館の“中身”に初めて踏み込む回です。
ジージー・セルグレン・タリサ・ベルツ、それぞれの視点から「数字に触れる」怖さと覚悟が描かれます。
―――――――――――――――――
理事会館の外壁は、夕陽を受けて鈍く光っていた。
昼間は人の行き来でごった返していた正面玄関も、今は兵士の姿が目立つだけだ。
代わりに、裏口には荷車と職人たちが集まり始めている。
「……ここから入るんですか?」
ジージーは低く訊いた。
外套のフードを目深にかぶりながら、荷車の影に身を潜める。
「ああ」
隣でセルグレンが短く答える。
「巡察前は、施薬院からの“備蓄薬の補充”が入る。
荷受けの書類さえあれば、裏から中に入れる」
「書類……」
「ラガンが用意してくれた。
“施薬院補助員:ジージー”って名義でな」
セルグレンは腰の小袋から、一枚の紙を取り出した。
見慣れた書式。
施薬院の理事長の名前と印が雑に写されている。
「偽物……ですよね?」
「“たまたま紛れた本物”ってことにしておけばいい。
紙に書かれてることなんて、案外誰もきっちり覚えちゃいない」
セルグレンは口の端をわずかに上げた。
「それが、“数字に頼る世界”の一番の穴だ」
ジージーは、胸の中でグレンの笑顔を思い出した。
(数字を動かすのも、人間なんだ……)
入り口のところで兵士が二人、こちらを見ている。
「搬入口、あと何台だ?」
「これで最後だ。施薬院からの備蓄薬だとよ」
「帳簿の控えは?」
「ここにある」
セルグレンがさっと紙を掲げる。
「施薬院の補助員も一人ついてる。
中に運び入れて、棚に並べてくる」
兵士はジージーをちらりと見た。
フードの陰から覗く目が、わずかに揺れる。
「……ずいぶん小さい補助員だな」
「いつまでも子ども扱いしてると、人手が足りなくなるぞ」
セルグレンが淡々と言うと、兵士は面倒くさそうに肩をすくめた。
「中で変なところをうろつくなよ。
今日は帝国の急使も来ている。
“余計な目”は歓迎されない」
「肝に銘じておこう」
扉が開く。
冷たい空気が流れ出てきた。
◆
理事会館の内部は、思っていたよりも静かだった。
磨かれた石の床。
高い天井。
壁にはルーデンス聖教国の紋章と、帝国の双頭鷲。
そして中央には、この街の“国家平和理事会”の紋章が掲げられている。
どれも重々しく、どれも冷たい。
(ここで、“誰を送るか”が決まってるんだ……)
ジージーは、喉の奥がひりつくのを感じた。
「目立つな。
荷物と一緒に動け」
セルグレンが小声で囁く。
薬箱を載せた台車を押しながら、
二人は廊下の奥へと進んだ。
途中、書類を抱えた役人や、
重そうな革鞄を持った男たちが行き来している。
言葉の端々に、“巡察”“調整”“枠”といった単語が聞こえてきた。
(全部、数字に関わる言葉だ……)
胸がざわざわする。
◆
ほどなくして、
セルグレンは薬品庫の前で足を止めた。
「ここで一旦、箱を降ろす」
中は、棚が整然と並ぶ静かな部屋だった。
施薬院よりも少し殺風景だが、見覚えのある瓶や包みが並んでいる。
「ジージー、お前は棚に瓶を並べるふりをしていろ。
俺は“砂”の印を探してくる」
「砂の印……?」
「ラガンたちが事前に仕込んでおいた“目印”だ。
帳簿や書類の保管場所を示している」
セルグレンは素早く部屋を見回すと、
棚の角に小さく刻まれた印を指でなぞった。
斜めに引かれた線が二本。
それが交わるところに、小さな点。
「……ここから右の廊下の先、二つ目の扉。
“記録保管室”だな」
セルグレンは薄く笑った。
「どこの街でも、砂のやり方は変わらん」
ジージーは瓶を並べながら、
心臓の音を数えた。
(ここからが、本番なんだ……)
◆
一方そのころ、
記録保管室から少し離れた廊下では、
ベルツ事務官が重い足取りで歩いていた。
腕には、厚い帳簿と封筒の束。
(今日中に“候補調整案”をまとめろ、か……)
理事長の声が耳に残る。
『帝国からの要請数が増えた。
今年度中に、追加で七名。
できれば“問題の少ない枠”から出してしまいたい』
(問題の少ない枠……)
それはつまり、“声を上げない者たち”のことだ。
病人。
身寄りのない者。
外来者。
数字だけ見れば、“都合の良い候補者”。
(……違うだろう)
ベルツは奥歯を噛んだ。
彼らが帳簿の中に並ぶとき、
そこには「名前」がある。
グレン・ハーヴィス。
ミーヤの弟リオン。
そして――
(ジージー)
施薬院で、あの小さな外来者が怒りをあらわにした時の目。
あれを思い出すと、胸の奥がじくじくと痛む。
(俺は……まだ、“ただの事務官”でいられるのか?)
記録保管室の扉が近づいてくる。
ベルツは深く息を吐き、扉に手をかけた。
◆
薬品庫の扉が静かに閉まる。
廊下は人通りが少なく、
足音がよく響いた。
「いいか、ジージー」
セルグレンが囁く。
「絶対に走るな。
小さく、静かに。
“誰の目にも入らない砂”でいろ」
「……はい」
フードを深くかぶりなおし、
二人は記録保管室のほうへ歩き出した。
途中、廊下の角で影が動く。
思わず足を止めると――
そこにいたのはタリサだった。
「……!」
少女は清掃用のバケツとモップを抱え、
壁を磨くふりをしている。
ジージーと目が合うと、
ほんの一瞬だけ、目だけで笑った。
その足元。
床に小さな砂粒で描かれた印がある。
斜めの線が二本。
交わるところに点。
さっきと同じ“砂の印”。
(ここが……)
セルグレンがタリサの横を通り過ぎながら、
ほんのわずかに頷いた。
その先。
記録保管室の扉の前に、
兵士の姿はなかった。
(今は中に人がいる……?
それとも、誰もいない……?)
セルグレンが耳を澄ませる。
かすかな紙の擦れる音。
人の息遣い。
「……一人だな」
低く呟くと、
彼は静かにノックした。
「開いている」
中から声がした。
聞き覚えのある声――ベルツ事務官の声だ。
◆
記録保管室の中は、
壁一面に棚が並ぶ狭い部屋だった。
天井近くまで積み上げられた帳簿の背表紙。
古いインクと紙の匂い。
机の上には、封筒の山と
開きっぱなしの帳簿。
その前に、ベルツが座っていた。
「施薬院からの薬品補充か?」
彼は二人の服装を見て、軽く眉を上げた。
「はい。
ついでに、補助員の名簿確認もと言われまして」
セルグレンが、ごく自然に答える。
「理事会館に出入りする者の名前は、
すべて記録されることになっているので」
ベルツは小さく頷いた。
「……ああ、そうだったな」
視線が、ジージーに向く。
「君が“ジージー”か」
ジージーは思わず背筋を伸ばした。
「は、はい」
「外来者一覧のところに名前があった。
施薬院でよく働いていると聞いた」
淡々とした口調。
だが、その目には、
昨日と同じ揺らぎがある。
(この人……
“余白に書いた人”だ)
ジージーは、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
「名簿なら、そこの棚だ」
ベルツは壁際の一角を指差した。
「だが――」
彼は少し声を落とす。
「帳簿には、あまり近づかないほうがいい」
「え……?」
「数字は、君たちを守らない」
その言葉は、
静かだが重かった。
セルグレンと視線が交錯する。
(この人は……
知っているんだ、“数字の怖さ”を)
そう思った瞬間、
廊下のほうから別の足音が近づいてきた。
「ベルツ事務官」
扉がノックされる。
「急使の方が“候補調整案”の確認を、と」
帝国訛りのある男の声だった。
ベルツの表情がかすかに強張る。
「……来たか」
机の上の封筒に、
“未提出控え”と書かれた束が一つ。
その中に――
タリサが拾った紙と同じ書式の“調整案”が見えた。
ジージーの心臓が跳ねる。
(あれが……
外来者“仮補”の紙……)
ベルツは、一瞬だけ迷うように紙束を見つめてから、
セルグレンたちに視線を戻した。
「君たちは、そこの棚で名簿だけ確認していればいい。
それ以上は見ないことだ」
言葉に、
どこか“願い”のような響きがあった。
扉が開く。
帝国の紋章を胸に刻んだ男が入ってくる。
きっちりとした軍服。
冷たい瞳。
「ベルツ事務官だな」
「はい。
本日の調整案はこちらです」
ベルツは封筒を差し出した。
だが、その中に例の紙は含めていない。
代わりに、別の“調整案”が入っている。
帝国の男が封を切る。
視線が走る。
「……外来者枠が少ないな」
低く言った。
「追加七名のうち、外来者枠が二名だけとは。
この街は身寄りのない者が多いはずだが?」
「はい。
ですが、現在の外来者は“街にとって有用な労働力”として
活用されております」
ベルツが淡々と答える。
「特に施薬院補助の者は、
送致すれば逆に街の負担が増える可能性が高い」
ジージーはその言葉に、
息が詰まりそうになった。
(……あたしのことだ)
「ふむ」
帝国の男は鼻を鳴らした。
「書類上の“有用度評価”は?」
「この別紙に」
ベルツが静かに紙を差し出した。
帝国の男が目を通す。
沈黙。
ジージーは棚の陰から、
その横顔をじっと見ていた。
(数字だけで、人の生き死にを決めてるのに……
この人たちの目には、
あたしたちは“数字以上”に見えてない……)
しばらくして、
男は紙束を閉じた。
「……いいだろう。
外来者枠は二名で認める」
ベルツの肩がわずかに下がる。
「ただし――」
男は冷たく言った。
「“有用度評価”の低い外来者が出た時点で、
こちらの枠に追加してもらう。
いいな?」
「……承知しました」
静かな応答。
目の前で、
“仮補”の行が、書き換えられていく。
救われる者。
切り捨てられる者。
まだ宙ぶらりんな者。
全部、ここで決まる。
◆
急使が去ったあと、
部屋には再び紙の匂いだけが残った。
「……君たち」
ベルツが静かに口を開いた。
「名簿確認は終わったか?」
「はい」
セルグレンが短く答える。
「では、もう行きなさい。
ここは……
子どもが長くいる場所ではない」
その言葉には、
自分自身に向けた苦い皮肉も混じっていた。
ジージーは、
机の端に残された一枚の紙に目を留めた。
端が破れかけた“候補調整案”。
そこには、
見覚えのある字で、こう書かれていた。
――外来者(仮補)・ジージー:送致“非推奨”
昨日、余白に書かれた文字と同じ筆跡。
(ベルツさんが……
あたしを、ここに残そうとしてくれた……)
胸の奥が熱くなる。
ベルツは視線に気づいたのか、
そっと紙を裏返した。
「見なかったことにしなさい」
静かな声。
「それが、今の君にできる“最善”だ」
ジージーは首を横に振りかけた。
だが、その時――
廊下の向こうから、
重い鐘の音が響いた。
ゴォォン……。
低く、腹に響く音。
「巡察教士様ご到着――!」
叫び声が、廊下を駆け抜けていく。
理事会館全体が、
ぴんと張り詰めた。
ベルツの表情から、色が消える。
「……行きなさい」
彼は机に手をつき、
目を閉じた。
「お前たちの居場所は、ここではない」
セルグレンが、ジージーの肩を掴む。
「行くぞ」
「でも――」
「ここから先は、“別の砂”の仕事だ」
低く言い切る。
「俺たちは、“まだ動かせる数字”だけを見ておく」
ジージーは、
破られかけた紙から目を離せなかった。
(動かせる数字……
動かせなかった数字……)
グレンの名前。
ミーヤの弟。
タリサ。
街の人たち。
あたし――ジージー。
胸の中で、
何かが静かに変わっていく。
(“見ないふり”は、もうできない)
たとえ今は何もできなくても。
名前を覚えておくことなら、できる。
数字の行の向こう側で、
誰が笑っていて、
誰が泣いていて、
誰が消えようとしているのか。
それを、忘れない。
「行きましょう、セルグレンさん」
ジージーは小さく、しかしはっきりと言った。
廊下に出ると、
兵士たちが慌ただしく動き回っていた。
奥の階段から、
白い外套をまとった数人の影が降りてくる。
胸に、ルーデンス聖教国の紋章。
手には、分厚い聖典と帳簿。
巡察教士たちだ。
ジージーは、
外套の影からその姿を見た。
(あの人たちが――
この街を、数字で測りに来るんだ)
掌の中の布袋が、かすかに鳴った。
砂が、動き始めている。
まだ、ほんのわずか。
けれど――確かに。
―――――――――――――――――
【後書き】
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、
•理事会館内部の雰囲気
•記録保管室と帳簿の“実物”
•帝国急使による“数字の圧力”
•ベルツ事務官のささやかな抵抗
•タリサの印(砂の印)
•ジージーが“見てしまったもの”
を中心に描きました。
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■ 今回のポイント
•「数字は君たちを守らない」
→ これはベルツの実感であり、
同時に“それでも数字を使って守ろうとする”矛盾した覚悟の言葉でもあります。
•“動かせる数字”と“動かせなかった数字”
→ グレンは後者。
ジージーは、今ベルツによって“前者”へ引き戻された状態です。
•巡察教士の到着
→ 次回以降、“聖教国の論理”が本格的に絡み始めます。
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次は、
巡察教士たちが街をどう“査定”し、
どこに刃を向けようとするのか。
ミーヤの弟、タリサ、外来者枠――
それぞれに影が落ちていきます。
よろしければ、次話もご一緒しましょう。




