第28話 幕間 稀薄の令嬢は選び取る 上
リシェラ・フォン・アヴァールは宵闇の中、自室で一人、ぼんやりとしていた。
離宮の夜会から数日。
それから今に至るまで起きた出来事を、リシェラはどう説明して良いかわからない。
あの夜会の日、父であるアヴァール伯爵がリリィ・モートンと顔を合わせたとたん、父が今まで見たことがないほど怒りと焦りに満ちた表情に変わり、彼女に襲い掛かったのだ。
その動きは、鈍重なおぼえしかなかった父に似合わず素早いもので、更には周囲にいた出席者も豹変して、リシェラたちに殺到してきた。
リリィ・モートンも驚いた風だったが、それも一瞬で、彼女はリシェラを庇いつつも、華麗にスカートを翻してアヴァール伯爵を迎え撃ったのだ。
荒々しいのに、優雅ささえ漂う姿はダンスを踊っているようで、リシェラは自分の危機も忘れて見惚れてしまった。
だが、こちらを振り返った彼女が、厳しい表情でその繊手を一閃させたのを最後に記憶がない。
気がつくと、警備兵や宮廷魔術師たちに囲まれていて、大胆にも夜会に強盗が入り、参加者の人工魔石を根こそぎ盗んでいたことになっていると知ったのだ。
リシェラも参加者の一人として事情聴取をされたが、すべてを話すことはなかった。
なぜなら目覚めた時、共にいたはずのリリィ・モートンがおらず、ほかの参加者たちはその場に彼女がいたことすらを覚えていなかったからだ。
食い違う記憶をそのまま話せば、彼女に迷惑がかかると思ったリシェラは沈黙を守った。
人工魔石がなくなったということは、彼女たちがリシェラの願い通り、うまくやったということだとも思ったからだった。
王宮では、国の威信に懸けて下手人を捜そうと躍起になっていたが、それもすぐに方向転換を余儀なくされた。
メーリアスで、大規模な魔力災害が起きたという一報が入ったからだ。
原因はそこにあるセンドレ迷宮だとか、そこからたくさんの魔物が現れたとか、白い霧に飲み込まれて山がひとつ消えてしまったとか、あの古代神竜が現れただとか、様々な流言飛語が飛ぶ中、王宮は状況把握と対応に、上を下への大騒ぎらしい。
領地が隣接しているアヴァール家も、他人事どころか甚大な被害を被っていた。
一刻も早く対処しなければいけなかったが、父は昏睡状態に陥っており目覚めない。
母は早くもこれからについて悲観して、部屋に閉じこもって嘆いてばかりだった。
人工魔石について疑惑のまなざしが向けられ始めていることを、王宮にいる間にリシェラは敏感に察していた。
そちらも一刻も早く対応を決めなければならなかったが、たとえ彼らが長年仕えていても、大半の実務をこなしていても、アヴァール家の物事を勝手に決めることは許されない。
そのための採決と采配は、かならずアヴァール伯爵家の者がやらねばならない。
柱となる当主が不在の中、途方に暮れた家令や伯爵の部下は、リシェラに決定を求めてきたのだった。
女の自分にできるのか、ひるむリシェラの背を押したのは、領地での記憶だった。
伯爵家の名が落ちるのはどうでも良い。
”あの方”に出会った大事な領地が誰かの手に渡ることや、それがなくなってしまうことだけは嫌だったのだ。
そうして、リシェラは今までまともに顔を合わせる事もなかった彼らとともに、馬車に飛び乗り領地へゆき、その日から山のように運ばれてくる書類へ目を通し、許可を出し続けた。
父であるアヴァール伯爵が、人工魔石以外のことについてほとんどのことをほかの人間に任せていたことも幸いした。
わからないことだらけでおぼつかなくとも、ないよりはましらしく、許可さえあれば彼らは独自に動き、ことを納めるために奔走してくれた。
その不思議な連帯感にリシェラは不思議な高揚を覚えながら、昼夜問わず書斎にこもって書類の山と向き合い、人に指示を出すことに費やした。
”あの方”に命をもらって以降、この体はずいぶん丈夫だが、それでも連日の慣れない激務は堪えた。
見かねた家令や、部下には休めといわれたが、領地の惨状を目の当たりにしたリシェラはどうしても休む気になれなかった。
だましだましやって、領地については今日ようやく見通しがつき、この屋敷についてはじめて幼い頃過ごした自室で寝ることになったのだが。
一人になった瞬間、今まで考えることを避けていた様々な思考や疑念が押し寄せてきて、リシェラは寝付けずにいた。
不思議なことがたくさんある。
誰も気にもとめていないが、あの夜会を境に、リリィ・モートンともう一人、女性が消えていた。
リシェラが願って屋敷に滞在してもらっていた、黒髪に赤い房の混じった珍しい髪色の不思議な女性だ。
しかも彼女に至っては、首都の屋敷の人間に聞いても首をかしげられるばかりで、まるで、そんな人がいたのかといわんばかりの反応なのだ。
彼女たちの世話をしていたはずの使用人ですらそうなのだから、きっと彼女たちとお茶をともにした貴婦人や令嬢たちの記憶からも抜けているのだろう。
だが、リシェラは覚えている。
黒に燃えるような赤い房の混じった不思議な髪色に、吸い込まれそうな金の瞳をした女性と、まばゆいばかりの金砂の巻き毛に妖しくきらめく紫の瞳の女性と過ごした数日は、リシェラにとってとてもかけがえのない時間だった。
そうでなければ、こうして領地を守るために、自ら動くこともなかっただろう。
彼女はリシェラの声を聞いてくれた。
彼女はリシェラを怒ってくれた。
薄陰のようにひっそりと生きてきたリシェラに、幸せをつかみ取れと言ってくれた。
何より友人になろうと言ってくれた。
だからリシェラはここにいる。
願ったことを考えれば、リシェラはとんでもないことをしてしまったのかもしれないけれど。
リシェラは彼女たちに会えて、本当に良かったと思うのだ。
だが、この部屋にいるとどうしても思い出してしまう。
彼女たちは、本当にリシェラの願いを叶えてくれたのだろうか。
一度だけ、目を覚まさない父を見舞ったが、そこにはもうあの方の気配はなかった。
そのことに崖から突き落とされたような衝撃を感じて、めまいで倒れそうになったリシェラだったが、胸にある印はまだ消えていない。
彼女たちの思惑は未だによくわからないけれど、それでも約束は守ってくれると信じたかった。
眠ることをあきらめたリシェラは、ベッドから身を起こし、厚いカーテンの閉められた窓の方を見た。
あたりは自分の手先もおぼろげな闇の中だが、耳を澄ませば、風ではたはたとガラス窓が叩かれる音がする。
室内には夜の冷気がしのびより、ひんやりと冷えた空気で満たされていた。
こんな夜は決まって、あの方が訪れた。
あの方は、人あらざるものと明らかにわかる大きな姿で、決まって窓の近くの暗がりにいて、外の話を聞かせてくれた。
あの方と契約を結んだ後でも、リシェラは時折熱を出して寝込む夜があった。
そんなときにふと目を覚ますと、ベッドの傍らに大きくて黒い固まりのようなあの方がいた。
話しかけるでもなく、ただじっとそばにいて、朝になるといなくなっている。
だけれどその日の朝は、決まって体が楽になっていた。
だがリシェラにはその体の軽さよりも、あの方がいてくれたことの方が嬉しかった。
誰もいないで熱にうなされるのはつらい。つらくて心細い。
このまま消えてしまいたくなるような、眠ったまま目覚めなければいいという心地になる。
それをあの方は吹き飛ばしてくれたのだ。
たとえあの方がおとぎ話に出てくるような悪魔でも、リシェラにとっては最高の先生で、家族で、友人で大事なヒトだった。
この思いに言葉はいらない。と思う。
リシェラは貴族の娘だ。
長年領地へ引きこもっていたからといって、貴族の社会しか知らぬ身では、ほかの生き方はできないと悟っている。
友人を作るのは己の益になる人脈のため、誰かとの結婚は家と家のつながりのため。
貴族の情はすべて家の存続のため。幼い頃からそう教え込まれたリシェラにとって、それは当たり前のことだ。
だから、曖昧なままで良い。
それでも、だからこそ、その外にいたあの2人が、何よりあの方が大事だった。
暗闇のなかでリシェラはほうと、息をつく。
そろそろ指先も冷えてきた。
明日も早い。眠れなくても体を休めなければと、そう思った。
さらりと、夜風が入り込んできた。
見れば、いつの間にか窓が開いて、カーテンがなびいている。
清冽な空気の中、室内に滑り込んできたのは、夜の化身だった。
そう、としか言いようがない。
その夜は女性の姿をしていた。
炎をはらんだ夜色の髪に、全体的に小作りな印象の面立ちがくっきりと浮かぶ。
この屋敷には魔術による防犯機構が施されていたが、いっさい鳴らなかった。
一瞬息をのんだリシェラだったが、シルクハットに派手なマントを翻したその姿は覚えがあったし、何よりその吸い込まれそうな不思議な美貌は紛れもない。
リシェラに友達になろうと言ってくれて以降、忽然と姿を消していたラーワ・フィグーラだった。