七、
じめじめとした重い空気が、起き上がろうとする春樹を押さえつけた。頭が痛い。偏頭痛だ。
―――雨か……。
春樹はううん、と伸びをすると、身体がやけに痛むのに気が付いた。きっと、昨日の全力疾走による筋肉痛が、今更出てきたのだ。身体は傷だらけだし、今日は一日寝ていようかな……。
その時、携帯のバイブ音が鳴った。振動がベッド中に伝わり、春樹は慌てて携帯を手に取る。
―――志波裕也。
「志波さん?」
春樹は通話ボタンを押した。
「もしもし、どうしたんですか?」
「ああ、日野君」
携帯の向こうから聞こえてきた声は、志波のものでは無かった。
「え、あ、あの、誰ですか?」
「羽鳥です」
「羽鳥さん?羽鳥さんがどうして志波さんの携帯から僕にかけてきてるんです?」
「日野君、志波が昨夜、襲われました」
「え?襲われたって……」
「一命は取り留めましたが、今、意識不明の重体です。君に聞きたいことがある。今すぐに岐山会病院に来れますか?」
春樹は混乱しながら、
「は、はい、わかりました!」
と言い、立ち上がりながら上着を取った。挫いた足が痛む。
―――志波さんが、死にそう?一体どういうことだ?
足を引き擦って、春樹は急いで家を出た。岐山会病院なら、徒歩五分で行ける。靴を履くと、傘を取り、春樹は岐山会病院を目指した。
病院に着いて、受付に寄ろうとしたとき、
「日野君!」
病院に響く声に振り向く。一瞬、誰なのかわからなかった。中肉中背の老体。やつれたその顔は、よく見ると羽鳥だった。
「は、羽鳥さん、志波さんは?」
春樹は羽鳥に駆け寄った。羽鳥は、弱弱しい顔をしていた。
「何とか、今、様子は落ち着いています」
「そうですか、よかった……」
「日野君、昨日、志波と会いましたね?」
春樹はびくりとした。この人はまだ、自分を疑っているのか。
「君を疑っているわけじゃありません」
羽鳥は春樹の表情を見て、慌てて言った。
「でも、あの中に犯人が居ると、志波は確信していたみたいです……もし、もし心当たりがあるなら……」
それから春樹の肩を掴んだ。怖い顔だ。
「志波は、昨日、君に会った後に、私に電話をしてきました。犯人が分かったと。でもまだ確定じゃないから、明日話すと。そう言われたんです。日野君、君は犯人を知っているんじゃないですか?」
「ぼ、僕は……」
「君は誰かを庇っているんじゃないか?」
「そ、それは……」
羽鳥は春樹の肩を優しく放すと、病院の廊下のソファに力なくと座り込んだ。
「志波君は、息子みたいなものなんだ」
老体の肩が静かに動いている。泣いているのだ。
「志波君は、子供のころ、父親に酷い虐待を受けていてね。たった五歳で、自分の父親を手に掛けた過去があるんです。虐待に耐え続けた彼の心は壊れてしまって、たった五歳にして、心の病気にかかっていました。私が刑事として初めて担当した事件が、彼の事件でね。彼はずっと、自分が父を殺したという事を、信じていなかった。心臓の鼓動が聞こえるから、お父さんは生きているんだよ、って、ずっと言っていました。結局彼は精神病院に入れられ、毎日、拷問のように、父の死について聞かされ続けた。まだ若かった私は、マジックミラーの向こうで死んだ目をしている彼を、そんな彼を見ていられず、休暇を貰って、彼に直接会って話をすることにしました。彼は、極度の人間不信に陥っていました。どうしても救ってあげたい、そう思った。まだかすかに、彼の目には人間の欠片が残っていた。私は彼の手を握りました。そうしたら彼、今まで誰とも目を合わせなかった彼が初めて、私の顔を、目を見てくれたんです。私はその時、彼の“父”になる、と決めました。彼は、だから、息子同然なんです」
志波さんが犯罪者だったなんて……。そうか、だからあんなに勘が鋭くて頭がいいのに、警察になれなかったんだ。
「なんでそんなことを、僕に言うんですか?」
春樹は言った。羽鳥は下を向いたまま言った。
「人の心は壊れてしまうことがある。時には幼かった志波君のように、病院に入らないと治らない場合だってあるんです。彼の壊れた心を元に戻すのには十年かかった。私たち大人による発見が遅かったがために」
羽鳥は顔をあげて春樹を見た。強いまなざしだった。
「もし、友人の事を、本当に大切に思うのならば、早く救ってあげなければいけない。そうしなければ心は壊れつづけ、罪を犯し続けるでしょう。罪を重ねて、心を壊し続けて、手遅れになる前に、救ってあげるのが友人の義務でしょう」
「犯人が、分かったんですね?羽鳥さん。じゃあ、警察が逮捕すれば」
「それでは志波君の意思が無駄になってしまう。彼は犯人に犯行の重さを気付かせ、自首させることで罪を軽くしようと、それで警察に最後まで本当の事を話さずに、一人で行動していたんですよ」
「そ……そんな……」
「志波は、いつ目を覚ますかわからない。もう……覚まさないかもしれない。だから、手遅れになる前に日野君!志波の思いを、叶えてやってほしい……!」
志波は最初からすべてをわかっていたのだ。伶に自首させるために、すべては伶の為に、志波は動いていたのだ。
「志波君を刺したのは、土田翔也の事件の犯人と同一人物でしょう。日野君、君なら、わかるだろう?」
春樹は最後まで聞かずに、踵を返して走り出した。後ろから「こら!院内は走らないで……」と看護士の声が聞こえる。構っている暇なんてなかった。春樹は、足を引きずりながら、傘をさすのも忘れて、元来た道を走った。
アパートの階段を駆け上がる。家のドアを思い切り開ける。そこで春樹は、思わぬ光景に愕然とした。どうして家を出る時、気付かなかったのだろうか……。
家中至る所、血まみれだった。
廊下で伶が、雑巾で、静かに床を拭いているのが見えた。伶は春樹を見つけると、
「ああ、春樹、おかえり」
と言った。その目は落ち窪んでいて、正常では無かった。
「伶……君は……なんてことを……!」
春樹は怒りと悲しみで震えた。
「志波さんを、やったのか……」
「ああ……」
伶は雑巾で血を拭きながら、ふふ、と笑った。
「志波さん、死んだ?」
春樹は頭に血が上るのを感じながら、
「いいや、一命は取り留めた。意識はまだないけど」
と言った。伶はまた、ふふ、と笑う。
「しくじるなんて。上手くいかなかったのは春樹の所為だ。あの包丁、刃先が欠けていたから」
「志波さんは、志波さんは君を救おうと、必死だったんだぞ!」
「何を言っているんだ。奴は僕たちの仲を引き裂こうとしたんだ。僕を暗い牢獄へ、引きずり込もうとしたんだ。当然の報いを、受けたんだよ」
「バカ野郎!」
春樹は靴を脱ぐのも忘れて、伶に突進して押し倒した。胸倉を掴む。
「僕の目を見ろ。僕の目を見ろ!」
伶は光のない目で、春樹を見た。
「君のしたことは、間違っている!伶、今すぐ、自首するんだ!」
「……自首?」
伶は、首を傾げた。
「自首したら、僕はもう二度と君に会えない。僕たちは親友じゃなかったのか?」
「親友だったよ。だからこそ、僕は君を助けたいんだ。君は正気じゃない。つまり、精神疾患を抱えている。病気なんだ。君は罪を償うと同時に、治療を受ける必要がある。病気だと分かれば、罪も軽くなる。きっとそうだ。それに……」
少しの間を置いて、春樹は続けた。
「……もう、今の君は昔の伶じゃない。親友だった、伶じゃない。今のままの君を、受け入れることは、もう出来ない。でも、君が自首して罪を償うというのなら、僕はいつまでも君の親友でいると誓うよ。君の帰りを、いつまでも待つよ」
「……本当?」
伶の言葉は力なかった。
「君が自首しないなら……絶交だ!」
春樹は追い打ちをかけるように怒鳴った。
「絶交、か……」
伶は下を向いた。
「わかったよ」
伶は血まみれの雑巾を置いた。春樹が退くと、伶は立ち上がった。
「春樹がそこまで言うなら、僕、自首するよ」
伶はそういうと、リビングの方へとぼとぼと歩いて行った。
春樹はその小さな後姿を見ながら、伶、これは君の為なんだ。と心の中で呟いた。もし伶の心が、羽鳥の言っているように壊れているのだとしたら、心の病気なのだとしたら、今ここで、親友である春樹が止めてやらないと取り返しのつかないことになる。春樹は昨日の自分とは違う、強い正義感を持った新しい自分に出会っていた。親友を救うために、きつい言葉も汚い言葉も言うことが出来る、新しい自分に。
伶は紙袋を持って再び廊下に現れた。その中には、血まみれのシャツと、刃先が欠けた包丁、そしてあの封筒が入っていた。
「もう、戻れないのかな」
伶は寂しそうに言った。
「いや、戻れる。僕はいつまでも、君の味方だ」
春樹は力強く言った。
「一緒に、警察に行こう」
春樹は手を差し出した。春樹も、報いを受けるつもりでいた。伶の犯行を知りながら、隠し続けた報いを。
「いや」
伶はその手をすり抜けると、一人玄関へ向かった。
「一人で行く」
「え?」
「一人で、行かせてくれないか」
伶は振り返らずに言った。
「僕の手は汚れてしまった。君の手を取ることは、もうできない。それに、警察に行くまで、一人で考えたい。この罪と、これから受けるべき罰について」
ざあ、と雨が強くなった。
「わかってくれるよね?」
春樹は差し出した手を、静かに下ろした。伶が、人間に戻ろうとしているような気がした。
「うん。わかった」
春樹は静かに頷いた。ドアに手を掛けながら、伶は振り返り、春樹に封筒を差し出した。春樹はあの写真の事を思い出して、一瞬ドキッとする。
「手紙だよ」
伶は言った。
「手紙?そんなもの、いつの間に書いたんだい」
「こうなるかもしれないと思って、土田を殺したあの日に書いた」
ああ、伶もわかっていたのだ。伶はまだ、完全な悪魔では無かったのだ。春樹は丁寧に糊付けされたそれを受け取った。目から涙がこぼれた。安堵と、喪失感から来る、生温い涙だった。
十七年間、ずっと一緒だった、伶。親友であり、兄でもあった、伶。何よりも、大切な存在。それを、今、失おうとしている。
「なんで泣くんだい、春樹」
伶は笑う。
「その手紙、明日になったら、開けてほしい」
「今じゃ、ダメなのかい」
「ああ。僕の最後のお願い。明日、じっくり読んでほしい。僕の思いを」
伶はドアを開けた。
「じゃあ、行ってくる」
「……ああ」
涙が止まらなかった。伶は最後まで、笑っていた。
ばたり。
ドアが閉まった。春樹は血まみれの壁に囲まれた空間で、嗚咽を漏らして泣き続けた。
*
白く清潔な病室で、未鼓はパイプ椅子に座り、窓の外に目をやった。ベッドの上の志波は、目を閉じて、安らかに息をしている。
―――助かってよかった……。
医者曰く、幸い傷はそんなに深くなく、意識ももうすぐ取り戻すだろう、との事だった。あの時、恐ろしい夢で目を覚ましたおかげで、電話に出ることが出来た。そして、今、ここに居る。
激しく降る雨を見ながら、未鼓は昨日の緊迫した電話を思い出していた。
『未鼓!今すぐ岐山会病院に来てくれ!志波さんが刺された!』
あんなに取り乱す彼の声を聞いたのは初めてだった。やっぱり、あの夢は何か恐ろしいことを意味していたのだ。現に、志波さんはこうして、ベッドから動かない。
―――羽鳥さんには帰れって言われたけど……。
未鼓は深夜二時、電話で呼び出されてから朝になった今まで、眠ることなく、志波が目を覚ますのを待っていた。この人はきっと、真実を知っている。それを聞くまで帰ることは出来ない。
羽鳥は、項垂れた様子で、横たわる志波を見るなりすぐ出て行ってしまった。たまに顔を出して、私に帰宅を促すだけで、志波の顔を見ようともしない。ただただ、辛そうだった。
―――仲良さそうだったものね。刑事なのに彼をを守れなかったって、自分を責めているんだわ。
そう思うと、居た堪れなかった。
不意に、かさり、と布がこすれる音がした。未鼓は思わずベッドへ顔を向ける。志波はうーん、と声を漏らすと、ゆっくりとその目を開けた。
「志波さん!」
言われて志波は、未鼓の方をゆっくりと向いた。
「う、歌山さんか?」
視界がぼやけている。脳味噌がぐるぐると回転しているようで、気持ちが悪い。志波はもう一度、うう、と唸った。
「今、羽鳥さん呼んできます!」
未鼓が立ち上がると、志波は布団から手を出して、未鼓の腕を掴んだ。
「いい、大丈夫」
「でも、羽鳥さん、凄く心配して……」
「いいから、座って。それより、どうして君がここに……」
それから辺りを見回すと、
「ここは病院か」
「はい。志波さん、昨日の夜、誰かに刺されて、救急車で運ばれたんですよ」
「そうか……」
身体が思い出したように、腹部に激痛が走った。そうだ、腹を刺された。そして彼は……。
志波ははっとして、痛みも忘れて起き上がった。
「月島君は……どうした」
「それが……私もよくわからないんです。私、伶から電話を貰って、それでここに来たんですけど。それから何度電話してもつながらなくて。家まで行ってみようかとも思ったんですけど家知らないし……春樹も、電話に出ないし」
なんということだ。この事件が、最悪の結末を迎えてしまうかもしれない。
志波は立ち上がろうとした。しかし、腹部の激痛に、思わず身をよじる。うめき声を聞きつけて、外で待機していた羽鳥が、病室のドアを荒々しくあけて入ってきた。
「志波君!目を覚ましたのか!まだ動いちゃダメじゃないか!」
羽鳥は志波に駆け寄ると、志波の肩に手を置いた。未鼓は思わず窓際に避ける。
「羽鳥さん、邪魔しないでください!このままじゃ」
「大丈夫だ、月島伶は、日野君に任せた、君は安心して寝ていればいい」
――――――――。
志波は目を見開いた。
「な、なんですって……」
「君は昨日、犯人が分かった、そう言ったろう」
「羽鳥さん、あなたは勘違いしてます」
「なに?どういうことだ」
志波は痛みも忘れて、羽鳥の腕を掴んだ。
「日野君に何を言ったんですか!」
「いや……親友を思うなら、自首をさせろと……」
ああ……。志波は頭を抱えた。急がないといけない。
志波はまた立ち上がろうと、手すりに手を掛けた。だが、腹部の傷の所為で下半身に力が入らない。どうやら、自ら動くことは、出来そうにない。
「志波君、どうしたんだ」
羽鳥が言う。志波は羽鳥を見上げ、強い口調で言った。
「羽鳥さん、月島伶は犯人じゃありません」
「何だって?じゃあ誰が……」
志波は未鼓の方を見た。
「歌山さん、君に頼みたいことがある。真実を、彼に伝えてほしい……!」
月島伶がずっと一人で抱えてきた、真実を……。
*
「月島君、よく来てくれたね」
傘をたたんでループの屋根に入った伶に、志波は微笑んだ。
「時間、ちょっと過ぎちゃって、すみません」
伶は謝った。伶は一度家を出てから、不安になり、もう一度春樹がちゃんと眠りについているかどうか、確認しに戻ったのだった。
「それにしても、梅雨って嫌ですね。雨ばっかり」
「いや、僕はその後に来る夏の方が、嫌いだけどね。暑いばかりで」
「確かに、暑いのも嫌だ」
伶は笑った。伶は夕方、ループで志波と話してから、志波に少しだけ心を開くようになっていた。志波はそれを見て、少し安堵する。両親の離婚、母親の育児放棄、新しい母親の仕事内容。大人を信頼できなくなるのも、仕方のないことだ。しかし、彼は着実にそれを乗り越えようとしている。自分を足掛かりにして。志波はそれを嬉しく思った。
「志波さんも、羽鳥さんに出会うまでは、僕みたいだったんですか?」
「うーん、まあ、そうかな。君ほど頭は良くなかったけど。大人はみんな嘘つきで悪い奴だって思ってたよ」
ははは、と笑う。
「それで、本題だけど」
志波が切り出すと、伶はあからさまに暗い顔をした。
「どうして、志波さん、分かったんですか?」
伶が言った。
「春樹がやったって」
志波は猫背のままループの壁にもたれ掛かって、
「昔の僕と同じ目をしていたんだよ。瞳の奥に、暗い何かがあった。瞳孔がずっと開いていて、常に人の視線や感情を気にしていた。歌山さんが取り乱した時なんか、彼女を支えるというよりも、他人の目から彼女を守るように周りをきょろきょろ見回していた。客なんかほとんどいなかったし、音楽も流れていた店内で、歌山さんの小さな声に誰かが反応するなんて思えない。僕も合わせて見回してみたけど、誰も歌山さんを見てなかった。でも彼は慌てていた。きっと彼には、君たちには聞こえない声が聞こえていたんだよ。彼の反応を見て、僕は確信した。僕と同じ病気なんじゃないかってね」
「統合失調症ですか」
「昔は“精神分裂病”なんて呼ばれていた。犯罪者の多くがこの病気にかかっているという研究者もいる。恐ろしい心の病さ。それに、君が日野君を庇っているのも見え見えだったしね。君ほどわかりやすい人間は居ないと思うよ」
「そんなに、嘘が下手ですか、僕」
伶は下を向いた。
「でも今日、春樹が志波さんに会いに行ったのは、僕の名演技のおかげなんですよ。“僕が殴って土田君に無理やり青酸カリを飲ませ、それでも満足できない僕は、彼をバラバラにした。”そう言ったら、春樹、僕に恐怖して、家を飛び出したんだ」
「ははは、その時点で間違っているよ。遺体から検出された劇物は青酸カリじゃないし、青酸カリは劇物じゃなくて毒物。ま、これは高校じゃ習わないからなあ」
「春樹は今頃、僕を殺人鬼だと信じています。僕が自首すればすべて解決する。証拠もすべて持ってる。あのナイフも、写真も」
「でも、青酸カリって言った時点で君の無実は証明される。それに、君が居なくなった後、日野君はどうなるんだい」
伶は口を噤んだ。
「君の腕の痣。いや、腕だけじゃないだろ。体中にある痣。あれは毎晩、暴れまわる日野君を止めようとしてできた痣だ。そして目の下にあるクマ。君は土田翔也が死んだ日から、一睡もしていない。そうだね?」
伶は小さく頷いた。
「日野君の場合、君と逆で、大人や他人に好かれようと、自分の感情を押し殺していい子を作って生きてきた。それを繰り返すうちにいつの間にか、彼は心も身体も、自分では制御できなくなってしまったんだね。統合失調症は、恐ろしい病気なんだ。治るのに何年もかかるし、治らない可能性もある。放っておくと、また何かやるかもしれない。君は日野君の事を弟のようだと言っていたね。そんな大事な彼が、また犯罪を犯しても構わないというのかい?」
伶は何も言い返せない。
「君が守ってあげなくて、誰が日野君を守ってあげるんだい」
「……志波さんが守ってくださいよ」
「え?」
「志波さんが、春樹を守ってください。羽鳥さんが志波さんにしたみたいに。僕は、証拠をすべて持って、自首するつもりです。そうじゃなくてもきっとそのうち、春樹に自首しろって言われます。春樹は、正義感の強い、いい子だから。僕が居なくなったら、良い病院に入れてあげてください」
「月島君、それは間違ってる」
「いいんです、春樹と、春樹のお母さんは、僕の事をずっと家族みたいに、いや、家族以上の存在として扱ってくれた。嬉しかった。恩返しが出来るなら、今なんです」
「月島君……」
その時だった。話に夢中で、そして雨の音で、二人は忍び寄る影に気付くことが出来なかった。
「ああああああああああああああ!」
―――――――――。
一瞬の出来事だった。最初に志波を襲ったのは、痛みでは無く熱だった。腹部が、熱を帯びている。驚いて、自分を覆うものに目をやる。黒い影は、志波の腹にギラリと光る包丁を突き立て、白い歯をむき出しにして笑っていた。
―――日野春樹……。
「春樹!」
志波は崩れ落ちた。白いワイシャツは、見る見るうちに血で真っ赤に染まった。
あはははははははははははははははは!
春樹は笑い声、いや、奇声をあげながら、もう一度大きく包丁を振りかぶった。
「やめろっ!」
伶は春樹にタックルし、包丁を払い落とす。小柄な春樹は、伶の身体に封じ込まれて、脱出できないでもがいている。暴れまわる春樹に何度も身体中を引っ掻き回される。伶は泣きながら春樹にビンタをくらわせた。
「やめろぉぉぉぉぉ!」
ぴたっと春樹は動きを止めた。伶はその隙をついて、道端に転がる先端の欠けた包丁を拾い上げ、身体の後ろに隠した。虚ろな目をした春樹は何事もなかったかのように、ひたひたと元来た道を帰っていく。伶は春樹から目をそらさぬまま、倒れた志波に駆け寄った。
「志波さん!志波さん!」
血が止まらない。伶は着ていた上着を脱ぐと、志波の傷口に押し当てた。携帯を取り出して百十九番を押す。
「今、人が、人が刺されて!喫茶店“ループ”の前です!すぐに来てください!」
通話ボタンを切らないまま、伶は志波に呼びかけ続けた。
「志波さん!死んじゃだめだ!」
「……月、島、君……」
意識が遠のいていく。伶は志波の頬に張り手を浴びせた。
「だめだ!死ぬな!死んだら春樹は、僕はどうなるんですか!」
涙で視界が滲む。
「折角、折角信頼できる大人に出会えたんだ!やっと、やっと……!」
月島伶の声が遠くから聞こえてくる。まるで、夢の中にいるようだ。志波は薄れ行く意識の中、伶の最後の声を聞いた。
「僕たちを見捨てないで……!志波さん!」
暫くして、救急車が到着した。そこには血だらけの志波と、申し訳程度の応急処置がされた痕跡だけが残っていた。救急隊員は急いで志波を搬送する。物陰に隠れていた伶は、先端の欠けた包丁を手に、家へと走った。
家に着くと、玄関を入ったところで春樹が倒れていた。返り血を浴びて、春樹は血まみれのまま、穏やかな顔で眠っていた。伶は泣きながら春樹の服を脱がし、新しい服を着せるとベッドに寝かせた。睡眠薬さえ効かないくらい、春樹は蝕まれていた。
伶は目を腫らして、一晩中、泣きながら志波の無事を祈った。
*
ブー、ブー。
携帯のバイブ音が鳴る。泣きやんだばかりだ。今は電話に出たい気分ではない。そう思いながら春樹は携帯をポケットから取り出した。
―――歌山未鼓。
ああ、未鼓だ。一番、聞きたい声だった。春樹は通話ボタンを押す。
「ああ、未鼓。どうしたの?」
『春樹?伶は?伶はそこに居る?』
「……」
そうだ、きっと未鼓は伶の事が好きだったんだ……。春樹は自分からだけでなく、未鼓からも伶を奪ってしまった。罪悪感と、失恋の切なさを同時に感じた。
「いや、いないよ」
『いないって、どういうことよ、春樹、今すぐ、いつものバス停まで来て』
「今すぐ?」
『そう!今すぐ!走って来て!』
一方的に電話が切られた。切羽詰まった様子だ。春樹は未鼓に言われた通り、急いで家を飛び出した。
暫く走って、いつものバス停に到着する。未鼓は既に来ていた。横断歩道を渡ると春樹は未鼓に、
「どうしたの、そんなに慌てて」
「志波さん、目を覚ましたわよ」
未鼓は春樹の言葉を遮っていった。春樹は未鼓の肩を掴んだ。
「ほんとか!よかった!ほんとによかった……」
それから両手で顔を覆う。伶を失って、志波まで失うところだった。
……そして今から、未鼓を失う。
「未鼓、大事な話があるんだ。実は土田翔也を殺したのは」
「伶じゃないわ」
未鼓は即答した。
「伶じゃない」
春樹は肩をすくめた。
「未鼓、志波さんに聞いたんだね。信じたくない気持ちはわかる。君は、伶の事が好きだったんだろう?僕は、君から伶を奪った。伶に自首しろと言ったのは、僕なんだ」
「何を言っているの春樹。私と伶は双子よ」
―――――――――。
なんだって。
「幼いころ、両親が離婚した。私たち双子は、それぞれ父と母に引き取られた。私は父に、伶は母に。そして再び、高校生になって再会したの」
春樹は驚きのあまり何も言えなかった。確かに、端正な顔つきや切れた目つき、似ているところは幾つかあった。でもまさか、二人が双子だったなんて、考えもしなかった。
未鼓は春樹から目をそらした。
「私、伶がもう言ってあるんだと思って、勘違いしてて、言わなかったの。ごめんなさい」
そうか、なんだ、今までの嫉妬や不安は、ただの取り越し苦労だったのか。春樹は気が抜けた思いで未鼓を見つめていた。未鼓は続けた。
「私ね、春樹と伶が貧しい生活を送っているって知ってた。お母さんが毎日家にいないくらい働いてるんだって知ってた。勿論、父の援助金は送っていたけれど、それでも、うちに来た方が、伶の為にも春樹の為にもいいんじゃないかって、持ちかけたことがあるの。でもね、断られたわ。私の事は、実の妹として大切に思っている。でも、春樹の事も実の弟と同じくらい愛しているって言われた。君はひとりでも大丈夫だけど、春樹は僕がいないとだめだからって。妹としてはちょっと切なかったけど、伶はそのくらい、春樹の事を思っていたのよ」
「……そんなこと、わかってるよ」
春樹は拳を握った。
「分かってるけどこうするしかなかったんだ!伶を救うには、伶がこれ以上犯罪を犯さないように、僕に出来る最善の策は、これしかなかったんだ!どうして未鼓は、僕を責めるんだ。僕の気も知らないで!」
一瞬沈黙した。お互いの傘を雨粒が跳ねるのが、妙に騒々しかった。
未鼓の目から、涙が零れ落ちた。
「本当に、覚えてないのね……?」
「覚えてない?」
未鼓は自分の傘の持ち手を放して、春樹の傘の中に入ると、その頬を両手で覆った。未鼓のピンク色の傘が、カサリと音を立てて道端に転がる。
「何も、覚えてないのね……」
「だから何を」
両頬に温もりを感じながら、脳味噌がぐらりと傾くのを感じた。“あの日”と同じ眩暈だ。
「春樹、思い出して……私、あなたを責めないから」
ぐわん、ぐわん、と世界が揺れる。未鼓の声がだんだん遠ざかっていく。
「春樹、あなたが……」
「なあ、日野。人間って、死ぬと鳥になるって話、知ってるか」
放課後の掃除中、黒板を拭く春樹に、突然、誰かが話しかけた。初めて聞く声。振り向くと、金髪単ランの不良少年が、窓際にもたれ掛かりながら外を見ていた。土田翔也だった。
掃除当番の連中は、皆春樹に仕事を押し付けて帰ってしまった。だから今、教室の中にいるのは、春樹と土田翔也だけだった。
土田翔也は、春樹を手伝おうとするわけでもなく、かといって邪魔をする訳でもなく、派手な見た目の割にひっそりとそこに居た。
「いや、初めて聞いた」
春樹は黒板に向き直ると、言った。
「あっそう。でもさ、風になるとか、星になるとかより、ずっと現実的だと思わないか」
そう言えば、春樹が土田翔也と言葉を交わしたのは初めてだった。ずっと、避けられていると思っていた春樹は、土田翔也が自分の名字を知っていたことに少しだけ驚いた。
「そうかな」
黒板を拭きながら春樹は答える。
「星はどうかと思うけど、風とかは、魂が抜けていくイメージがあるから、なんとなく分かる気がする」
言いながら、土田って変な奴だな、と思った。
春樹の返答を聞いて、翔也は愉快そうに笑った。
「いやあ、面白いな、日野って。風は良いのに星はダメなんだ」
「星は、有り得ないよ。そんなこと言ったら空に見えるあの光が全部人間の魂ってことになるじゃないか。余りに自己中心的な考えだよ」
くすくす笑いながら、翔也はやはり窓の外を見ていた。
「でも、鳥になるほうが、ずっと現実的なんだぜ」
「なんでそう思うの?」
「だって、人間が死ぬだろ、その肉を鳥が食べるだろ、鳥が食べると、それが鳥の一部になって、そしてその鳥は卵を産む。孵った子供は、もちろん親の身体を受け継いでいるから、つまりその死んだ人間から得た栄養も受け継がれている。食物連鎖って感じだけど」
「成る程。その子供の鳥が、人間の生まれ変わりってわけか」
「面白い発想だろ」
土田って不良に見えて、意外と頭がいいんだなあ。春樹は振り返る。そこで初めて二人は目が合った。土田翔也は、思っていたより色白で、細かった。
「でもさ」
春樹は指に着いたチョークの粉を黒板消しに塗りつけながら言った。
「今は、人間死んだら火葬される時代だからね、寧ろ空気とかだよね、二酸化炭素?生まれ変わるとしても」
「そうだよなあ」
翔也は笑って、窓の外を見た。
「でも俺は、鳥になりたいんだよなあ」
「むりだよ。トンビとかが飛んでる田舎とか、鷹が住む森なんかじゃないと、実現できないよ、その夢。だって、土田、デカすぎるもん。この辺に住む小鳥たちじゃあ、大きすぎて食べられないよ」
あ、でも死ぬのは六十年とか先だし、その頃には土田も小さくなっているかもな。
想像して春樹はくすっと笑う。
「何が可笑しいんだよ」
「なんでもないよ」
「まあ、死ぬときは、鳥さん達が食べやすいようにバラバラになってから死んでやるよ」
「自分でどうやってバラバラになるのさ」
「そりゃ、死んでから考えるよ」
土田翔也は笑った。つられて春樹も笑った。なんだか、土田となら仲良くなれるような気がする。
「ところで、突然何でそんなことを言うのさ」
春樹は黒板消しを元の位置に戻して言った。
「いや」
土田翔也は、少し寂しそうな顔になった。
「鳥、いいなあって、思っただけだよ」
家に帰った春樹は、土田翔也の事で頭がいっぱいだった。これが、新しい友達が出来た喜びか。友情が芽生えるのは突然だ。春樹は伶との会話も頭に入らないまま、食事を終えるとすぐ、部屋に戻ってベッドに潜った。
放課後の事を思い出す。初めて話す会話の内容が、“死”、つまり“終わり”に関するものだなんて、全くもって面白い。
―――でも、なんであんな寂しそうな顔をしていたんだろう……。
急に、春樹は不安に襲われた。
―――土田、死ぬ気じゃ……いや、まさかね。
春樹は目を閉じた。暫く目を閉じて、じっとしていた。いつもはすぐ眠ることが出来るのに、今日に限って、中々寝付くことが出来なかった。土田との会話が、心に引っ掛かる。
『鳥になりたい』
土田の声が、脳内で響く。それが五月蝿くて、寝られない。
深夜、春樹はたまらず起き上がった。散歩にでも行こう。夜風に当たれば、少しは気が紛れて、うまく眠れるかもしれない。窓がカタカタ揺れている。春樹はベッドから降り、伶を起こさないように、静かに家を出た。
六月の始まりの夜は、まだ少し肌寒かった。春樹は足を一歩踏み出すたびに、脳味噌が冴えていくのを感じた。眠る為の気分転換の筈が、逆効果になってしまったようだ。
―――せっかくだから、行けるとこまで行ってみよう。
春樹は歩き続けた。夜道は、静かでいい。揺れる木々の穏やかな音色に包まれて、心が洗われるようだ。
暫く歩くと、学校が見えた。春樹は学校を起点に、折り返して帰ることにした。
校門の前に到着し、足を止める。夜の学校は、ミステリアスで、ホラーだ。昼間と違う異空間を演出していて、春樹の胸を興味でときめかせた。
―――幽霊とか居ないかな。
居るわけないか。春樹は、少し期待した自分を照れ臭く思い、ふっと微笑した。
その時、不気味な音が聞こえた気がした。詰まった排水溝からするゴボゴボという音に似ている。ジャリジャリ、と石を壁にこすり付けるような音もする。
―――幽霊?
春樹は寒気を感じた。しかし、ちょっと見てみたい気もした。
音がするのは体育館の方だった。春樹は校門と植木の間を抜けて、足音を立てないように体育館へ向かった。音は、体育館とプールの間にある細道の方から聞こえた。春樹はごくりと息を呑んでから、体育館の外壁に身体を付けて、そうっと覗き込んだ。
暗闇の中で、何かが揺れている、いや、“暴れている”のが見えた。恐怖に耐えながら目を細めてみる。雲が開いて、月の光が差し込んだ。春樹はあっと声を漏らした。金髪に単ラン……。
―――土田!
春樹は思わず駆け寄った。土田翔也は喉を押さえて、口から泡を吹きながら暴れていた。
「土田!」
異常な状態であることは確かだった。しかし、余りにも激しく暴れる土田翔也を前に、春樹は立ちすくむしかなかった。すぐ近くに、罅割れた瓶が落ちていた。
―――硝酸……硝酸を飲んだのか!
春樹は地面に膝をついて、暴れる土田翔也の肩を掴んだ。
「土田!なんてことを!今、救急車を呼んでやるから!」
しかし、携帯がない。少し散歩に行くだけだと思っていたから、家に置いてきてしまったのだ。春樹は混乱した。このままでは彼は死んでしまう。
「ああ、どうしよう……土田、土田、しっかり……」
突然、土田翔也は春樹の腕を強く掴んだ。はっとして土田を見る。土田翔也は血走った目を、飛び出るほどに見開いていた。それから絞り出すように、
「と……り……に……」
―――――――――。
急に、静かになった。土田翔也の首が、かくり、と右に倒れた。
「……土田?」
春樹は土田翔也の肩を掴んだまま、言った。彼はとても軽かった。
目は見開かれたままだった。身体の痙攣は、もうおさまっていた。風がひゅう、と吹いて、春樹は思わず、土田翔也の肩から手を放した。彼は静かに地面に崩れ落ちた。
土田翔也が死んだ。
春樹は腰が抜けて、動けなくなった。それは土田翔也の死を悲観したからでも、彼を救う事が出来なかった事を後悔したからでもなかった。死ぬ間際の彼の目が、恐ろしくてたまらなかった。呪いをかけられたのだ。そう思った。
視界の隅に、銀色に光る刃を見つけたのは丁度その時だった。土田翔也は、本当に“鳥になろうとしていた”のだ。自分をバラバラにして、食物連鎖の中で、鳥になろうとしていたのだ……。
『と……り……に……』
断末魔が春樹に呼びかけた。声は次第に大きくなる。耳を塞いでも、聞こえてくる。脳味噌に、直接、響いてくる。
『と……り……に……』
ぐらり、と首が傾げて、顔がこちらを向いた。死んだ土田翔也の青い唇が、動いたように見えた。目が合った。春樹を見ていた。
やめてくれ、やめてくれ!
『と……り……に……』
耳を塞いで、目を閉じても、状況は何も変わらなかった。恐ろしい青い顔の土田翔也の死体が、春樹に命令を下した。
『俺を鳥にしろ』
その時、春樹は壊れた。
突然いなくなった春樹を探して、伶は学校まで来ていた。春樹は三日に一度程度の頻度で、深夜徘徊をする癖がある。徘徊しているときの春樹は、どうやら意識が無いようで、伶は何度も“精神科”への受診を勧めようか迷った。しかし、“精神科”という言葉のハードルが何となく高いような気がして、どうしても言い出せないでいた。
いつもはアパートの周りを一周して帰ってくるのだが、今日はなかなか帰ってこない。心配になった伶は、街中の至る所を駆け回っていた。もうただ事ではない。
―――明日、おばさんに相談してみよう。いや、その前に警察に電話すべきだろうか。
伶はそんなことを思いながら、学校までやってきた。学校……人間は無意識に知っている場所へ行くというから、あり得るかもしれない。伶は学校に忍び込んだ。
クチャ、クチャ……。
ぬかるんだ道を歩く時の様な、粘ついた音が聞こえた。体育館の方からだ。春樹が異常行動を起こしていたらどうしよう。不安を抱きながら、進む。体育館とプールのある方に近づくにつれて、音はクチャ、クチャ、から、ガリ、ガリ、に変わった。伶は細道を覗き込む。同時に月の光が差し込んだ。
伶は絶句した。
春樹は銀色に輝く包丁で、“人”を刻んでいた。それが“人”だと分かったのは、まだ半身と、頭が残っていたからだった。
「鳥、食べてくれるといいね、土田」
春樹は微笑んでいた。
「鳥、食べてくれるといいね」
あまりにグロテスクな光景と、その酷い臭いに、伶は思わず嗚咽を漏らした。
「鳥、食べてくれるといいね」
春樹は包丁でぎりぎり、と“人”を切り刻みつづけている。
吐き気に堪えながら、伶は春樹の方へ歩み寄った。
「鳥、食べてくれるといいね」
春樹は尚も同じ言葉を繰り返している。伶は死体の損壊状況を見て、これが只ならぬ状況であると、思い知らされた。
―――春樹が人を殺して、バラバラにしている……。
伶は急に頭が冴えて、冷静になった。死体を踏まないように避けながら、春樹から包丁を取り上げ、両肩を力強く掴んだ。
「おい!春樹!しっかりしろ!お前、何をしたんだ!」
春樹に伶は見えていない。ただ空虚を見るように、
「土田が、鳥になりたいって」
と言った。
「ねぇ?土田」
伶は春樹の肩を強く揺さぶる。
「目を覚ませ、お前、土田を殺したのか!」
「うふふ、鳥、食べてくれるといいね、土田」
―――壊れている……!
伶は無理やり春樹を立たせると、体育館の壁に押し付けた。
「いいか、春樹、お前は何もしてないし、何も見てないぞ」
「鳥……」
「土田翔也は僕が殺した!春樹じゃない!いいな!」
「食べてくれると……」
「聞け!お前は今すぐ家に帰れ!」
伶は声を張り上げた。春樹ははっとしたように言葉を止めた。
「お前は、今すぐ、家に帰れ」
畳み掛けるように、もう一度言う。言われるがまま、春樹は回れ右をした。
春樹が居なくなった後、伶は地面に転がる包丁を手にした。
―――春樹を守るんだ。
伶は土田翔也の残った半身を見た。春樹によって分解された肉片は、最早身体のどの部分だったのかわからないほど細切れだった。
嗚咽が漏れる。涙がこぼれる。しかし、伶はそれに耐えて、包丁を振りかざした。
―――僕が、春樹を守るんだ……!
―――土田は鳥になれただろうか―――
頭を抱え、嗚咽を漏らす春樹の背中を、未鼓は優しくさすった。
「大丈夫、大丈夫よ、春樹」
未鼓は泣いていた。
「あなたは悪くないわ」
「僕は……」
春樹の頬は雨と涙で濡れていた。
「僕は……なんてことを……」
全てが合致した。土田翔也の死体が発見された日に、脳幹を駆け巡ったあの光景、頭痛、眩暈、耳鳴り。全て、“あの日”の記憶を、春樹に思い出させようとするものだったのだ。しかし、その度に伶が、それを封じた。自分を殺人鬼だと春樹に思い込ませることで、恐ろしい記憶が春樹の中に甦るのを阻止していたのだ。
未鼓は言った。
「私の夢の中でね、伶は泣いていたの。きっと今も、何処かで泣いている」
春樹ははっとして、手に持っていた封筒に目を落とした。
「伶が……僕に手紙を……」
強引に破いて、中の手紙を見た春樹は、立ち上がり、走り出していた。手紙の文字は、涙と雨で濡れていた。
「春樹!」
未鼓は叫ぶ。しかし、その声はもう春樹には届かなかった。
―――馬鹿野郎……!
春樹は走った。
―――僕の、馬鹿野郎……!
伶の、やつれた悲しげな顔が脳裏を過る。
家を出る時の、寂しそうな微笑みが、まぶたに浮かぶ。
自分の身を捨てて、親友を守りきった男の目に、後悔の文字はなかった。
伶は、死ぬ気だ。
―――こんなの、間違っている!
春樹は全力で走った。
―――罰を受けるのは、僕の筈なのに……!
ぐしゃぐしゃに握りしめられた手紙は、春樹の拳の中でその文字を再生していた。
短すぎる一文だった。
二人の十七年を語るには、あまりに短すぎる一文だった。
滲む文字に、伶は全ての思いを託していた。
『僕が、君を守る』




