六、
喫茶店のドアがカランカランと音を立てて開いた。春樹は顔をあげる。入口で、志波は春樹を見つけると、笑顔で手を振った。オレンジの光の中を、猫背の志波が歩いて来る。
「やあ。さっきぶりだね」
「はい。ついさっき会ったばかりなのに、呼び出してしまってすみません。それに……」
春樹は別れ際、志波に無礼な態度を取った事を思い出した。
「あの時はすみま……」
「日野君はオレンジジュースが好きなんだね」
遮るように、志波は笑った。
「大丈夫。悪いのは僕の方だったから。気にしないで」
志波はお冷を運んできた店員に、コーヒーを注文した。それから春樹の方に向き直って
「気付かない内に、まるで君たちを犯人扱いしてるみたいな口ぶりで喋っていたんだね。ごめん。しかも刑事じゃなくて、正体はただのおっさんだったのにね」
と言った。
「おっさんだなんて。志波さんは寧ろ、お兄さんって感じですよ」
「嬉しいこと言ってくれるけど、こう見えてもう三十四なんだ」
志波は照れたように頭を掻いた。本当に、気さくな人だ。春樹は心のざわめきが少しずつおさまっていくのを感じていた。
「それで、僕にしたい話って何?」
言われて春樹はどきっとした。いや、その為に呼んだのだけれど、いざ言うとなると緊張する。
「それが……その……」
コーヒーが運ばれてきた。志波は店員に愛想よく笑いかけると、また春樹に向き直った。
「いいよ、言える範囲で、少しずつ、話してごらん」
「は、はい……」
春樹は深呼吸した。
「は、犯人についてなんですけど」
のどが異常に乾く。春樹はオレンジジュースをずずっとすすると、
「本当に、土田君は自殺で、本当に分解した犯人は二人組なんでしょうか?」
と切り出した。志波は、真剣な表情になる。
「うん、今出ている事実と僕の推測を組み合わせると、だけどね」
春樹は下を向いて、先程伶から聞いた話を思い出しながら、言った。
「例えば、無理やり劇薬を飲まされたとか、そういう可能性ってないですか」
オレンジジュースの氷がカランと音を立てる。
「例えば、真犯人は警察の誤算を全部計算した上で、犯行に及んでいたってこと、ないですか」
志波は指を組んで、顎を乗せた。
「うん。無くはないよ」
春樹は胸が苦しくなるのを感じた。あんな話を聞かされても、まだ優しかった伶の笑顔が脳裏を過る。
「僕、このままじゃ警察、真犯人を逮捕できないんじゃないかって思います」
本当は今すぐ、言いたい。伶が犯人だと。でも、どうしても脳裏を、あの笑顔がちらつく。
「もう一度、考え直して、調べ直してみてくれませんか」
自分で言えないなら、警察を、大人を頼るしかない。それしか方法は無かった。伶の残酷極まりない話を聞いても、土田翔也をないがしろにした事実を目の当たりにしても、春樹には親友を警察に売るような、伶を裏切るような真似はどうしてもできなかった。例えそれが、間違っていても、最善の策でなくても、卑怯だと言われても、気弱な春樹には、このくらいしかできない。
志波は食い入るように春樹の目を見ていた。目の奥にある神経の、その奥にある脳幹まで見られているような、そんな気持ちになった。
暫く沈黙した後、志波はにっこりと笑った。
「わかった。君の言うとおりにするよ」
「え?ほんとですか?」
「ああ、勿論。僕は刑事じゃないから主導権は無いけど、羽鳥刑事にそう伝えておくよ。あの人、僕のこと信用しきってるから、何でも言う事聞いてくれるんだ」
ふう、と春樹は息をついた。なんだか、簡単に話がついてしまった。これで捜査は伶の方に向く。少しは土田翔也も報われるだろう。
「よかったです。志波さんがこんなにちゃんと僕の話を聞いてくれるなんて、嬉しいです。僕、中々良い大人に巡り会えないので」
はは、と志波は笑う。
「僕だって、良い大人じゃないよ。ただ、君の言う事を信じたいだけさ」
志波はコーヒーを啜った。さっきはアイスコーヒーだったけれど、今度はホットを頼んだらしい。春樹は、もうオレンジジュースを飲みほしていた。
「お代は僕が払っておくから、先帰ってもいいよ」
志波は言った。
「え、いや、僕が呼び出したんだから僕が……」
「いいからいいから。子供は子供のうちに、大人に甘えておくのが頭の良い生き方だぞ」
「あ、ありがとうございます!」
春樹は志波に頭を下げた。
「いいって。それより、また今度、お茶でもしよう。この事件が解決したら」
「あ、良いですね。僕、志波さんとは気が合いそう」
「そう言ってもらえて光栄だよ」
志波はにっこりと笑った。
腕時計を見ると、午後四時を指していた。帰ろう……。“あの”伶の居る家へ。まだ少し怖いけれど、伶は、春樹を傷つけたりはしない。“親友”だもの。きっと、大丈夫だろう。
「僕、そろそろ、帰ります。伶と、夕食の相談しなきゃなので」
「ああ。月島君にもよろしく。あ、でも、僕、月島君には相当嫌われてるみたいだから、言わない方が良いかもね」
「そ、そうかも」
二人は冗談っぽく笑った。
春樹が帰宅して少ししてから、喫茶店のドアがカランカラン、と音を立てた。新しい客人が来たのだろう。コーヒーも飲み終わった事だし、そろそろお暇しようか。立ち上がろうとする志波の肩を、誰かが強く押さえつけた。志波は無抵抗にソファに押し戻され、顔を上げる。そこには、能面のような、月島伶の顔があった。
「月島君、どうしたんだい、一日に二回も、同じ喫茶店に来るなんて。奇遇だね」
伶は志波の肩を押さえつけたまま、言った。
「お前、春樹に何をするつもりだ」
強い力だ。志波は、
「まあまあ、落ち着いて。向こうの席に座りなさい」
と促す。しかし、伶は従わない。伶の瞳は、志波を睨み付けたまま、放さない。
「さっき春樹がここから出てくるのを見た。まさか、あんたに会っていたなんて。春樹に何かしたら、僕が許さない」
「わかっているよ、君がどんなに日野君を大切に思っているか。そして、君が“何を隠しているのか”。全てね」
伶は眉を歪めた。
「それに僕は、日野君の方から呼び出されてここに来たんだ。僕が子供を騙して呼びつけたような、変な言いがかりはやめてほしいな。話を聞いていて分かったけれど、日野君も、君を大切に思っている。だからちゃんと、“家に帰った”よ」
志波の肩から手を放す。志波は微笑むと、
「少し話をしていかないか、月島君」
と言った。その微笑みには、有無を言わせぬものがあった。伶は初めて、大人の“力”を感じた。
「ほら、突っ立っていたらお店にとっても邪魔だよ。さあ、座って。ドリンクはおごるよ、コーヒーがいいかな?遠慮はいらない」
伶が黙っていると、
「あ、でも、本当は、君は苦いものは苦手なんだよね。さっきは無理をしてコーヒーを頼んでたけど。いつもそうなのかな?今日は誰も見ていないから、良いんだよ、“ココアでも”頼んでみたら」
志波はテーブルに右腕をついて顎を乗せた。
「さっきだって、ほとんど飲まなかったじゃないか」
「それは!コーヒーが苦手なんじゃじゃなくて、あんたらの話が」
「いやだったんだよね、特に“犯人が二人いる”なんて邪推を僕がするから。まるで君たちを疑っているみたいに聞こえて、不快だったんだろう。ごめんね、そんなに怒らせるつもりはなかったんだよ。それに、そんなに怒ってくれるなんて、思ってなかったんだよ」
「怒ってくれる?」
「君は、優しい子だね、月島君。大人びているフリをして、二人を守っているんだね。でも、君があの場でああやって言ってくれなかったら、日野君と歌山さんは気付かなかっただろう。“僕が君らを疑っている”って。日野君も歌山さんも、余りに無警戒で、素直すぎるから、あの二人だけだったら“僕は何の計画も果たせなかった”だろう」
志波は、空のコーヒーカップを人差し指で弄りながら続ける。
「君がああ言ってくれたおかげで、今日再び、日野君に会うことが出来た。そして僕の本当の目的。君と二人になるという事が達成されたんだ」
「あんた、最初から僕を狙ってたのか!僕が来ることを見込んで、春樹をここに呼び寄せたのか!」
「うん。あの時、君は自分が先導しているようで、逆に誘導されてたんだよ。今までもきっとそうだったんだろう。あの二人を従えるように見せかけて、本当は二人に付いて歩いてただけさ。君は自分なんかより、人の意思や行動を優先する、無意識に。そうしないと“ひとりになってしまう”からだ。君はひとりになるのが何より怖い。その無意識下での強い恐怖が、今回はあだとなったね。味方だけでなく、敵にまでこうやって思い通りに丸め込まれてしまうなんて。考えもしなかっただろう?君は頭がいい。故に、欠点だらけだ」
「何を今さら、負け惜しみですか」
「そう聞こえるならそうでもいい。僕の事は、なんとでも言ってくれ。でもね、月島くん」
志波の鋭い目が伶を捉えた。
「そんなことしても、何にもならないぞ」
全身の神経に激震が走った。伶は動くことが出来ないまま、蛇に捉えられた蛙のように、ただ志波を見つめ返すことしかできなかった。そこに先程までの、威勢のいい伶はもう居ない。伶が志波の前に、完全に屈服した瞬間だった。
突然、志波は伶の腕を強引に掴むと、テーブルの上に押し付けた。
「何をす……」
志波は伶の長袖をぐい、と捲った。志波はそれを見て少し顔を歪めてから、再び伶を見た。
「あんた……」
伶はつばを飲み込んだ。
―――あんた、どこまで知っている―――
夏が近付いているとはいえ、流石に肌寒くなってきたな。春樹はくしゃみをした。目の前の山中に消えて行く太陽は、オレンジ色の強い光と紫、赤、黄色の淡い光を交互に出しながら、ゆっくりと確実に、その姿を隠していった。こうやって夕日を眺めるのも悪くない。春樹はアパートの柵に身体を預け、一日の終わりを告げる儚い色を見つめていた。
かつかつかつ……。
階段を上る足音がする。春樹がそちらに顔を向けると、買い物袋を持った伶が、春樹を見て微笑んだ。
「よかった。あんな話をしたあとだから、帰ってきてくれないと思ってた」
「ああ……」
春樹はもう一度夕日に目をやって、
「怖かったけど、でも落ち着いて、一人で考えてみたんだ。君は、大切な親友だし。僕だけでも、君の味方でいてあげなきゃ」
と嘘を吐いた。志波に、事件の相談をしてきた、君が捕まるのも時間の問題だ、とは言えなかった。言いたくもなかった。
「そうか。ありがとう、春樹。お礼に、今日は僕が特別料理を振る舞うよ」
伶はアパートのドアを開けながら言った。
「それに、今日の君は、傷だらけみたいだから」
春樹は身体の至る所に擦り傷を負っていた。膝小僧はズボンが破け、傷がかさぶたを作り始めていた。足首も挫いていて、まともに歩けない。妄想上の伶から逃げる際、転んでついた傷。その時はアドレナリンが大量に出ていたから気付かなかったけれど、後になってひりひりと痛んだ。
伶に続くように、春樹は家に入った。家を出る前の怖い目をした伶は、もうそこには居なかった。いつもの、やさしい兄だ。
不意に罪の意識に苛まれる。親友を裏切ろうとした自分への罪悪感だ。伶の背中は、いつもより寂しそうに見えた。気の所為だろうか。いや、違うだろう。春樹は、一度でも伶を拒絶したことを今更後悔した。
「伶、ごめんね」
「いや、凶悪犯と同居しているんだ。君の反応は、正当防衛だよ」
「傷ついた?」
「僕はそんなことじゃ傷つかない。なんだったら、春樹が居なくなってしまっても、一人で生きていく覚悟はできていた。でも、君は戻ってきてくれた。それだけで、僕はうれしい」
「戻ってきてくれただなんて……そもそもここは僕んちだし。他に行く当てもないし。戻ってくるのは当たり前だよ。でも……」
春樹は下を向いた。
「今までみたいには、君と接することが出来ないかも」
本音がほろりと口から洩れた。それから慌てて、
「あ、いや、君が親友で大切な人だってことに変わりはないよ」
「そんなに気を遣わないでくれ、春樹」
伶は春樹に背を向けたまま、靴を脱いで家の中へ入る。
「僕だってわかってるんだ。僕は異常だって。サイコパスだって。ただ、君と、未鼓と、三人でいれば、正常な僕に戻れる気がする」
「君は、異常なんかじゃ……」
「……もう何も言わずに、リビングで待ってなよ。無理して僕に話しかける必要なんてない。君が僕に脅えてること、バレバレだから。無理しないでいいから」
「……分かった」
春樹は小さく言うと、リビングに行ってテレビをつけた。つまらないバラエティ番組。いつものように笑えなくても、雑音が、二人の間の冷たい溝を埋めてくれるような気がした。
暫くして、食事が運ばれてきた。春樹の好物の、カルボナーラだった。伶と春樹はなんの会話もないまま、食事を終えた。春樹は食器を洗おうと立ち上がると、ふらりとめまいがし、そのままソファに崩れ落ちた。
疲れている。
「春樹、洗いものは僕がやっておくから、君は部屋で寝てな。疲れたろ、今日はその、色々あったから」
「……悪いけど、お願いします」
春樹はふらつきながら、自分の部屋へ向かった。
隣の部屋で、春樹がばたり、とベッドに倒れ込む音を聞いて、伶はポケットから、小さなビニール袋に包装された錠剤を取り出した。先程、伶が医者から処方された、睡眠導入剤だった。近くの小さな診療所で、眠れないから強い眠剤を出してほしい、と言って手に入れた。
―――効き目が出るまで、三十分はかかるって聞いたけど、早かったな。
一回一錠の薬を三錠も入れたのだから、それもそうか。
伶は立ち上がると、テレビの下の引き出しから、封筒を取り出した。
―――こんなもの、もう見たくないけれど。
伶は春樹の寝息が聞こえてきたのを確認してから、上着を羽織った。春樹が起きないように、抜き足差し足で廊下を抜けると、玄関のドアを開けた。夜はすっかり更けていて、腕時計を見ると、夜七時を指していた。
今夜、行かなければならないところがある。
雨が降り始めていた。伶は傘を持ってアパートの階段を一足一足下った。カタン、カタン、と音が響く。雨の音と共鳴して、不気味な音色を作り上げる。階段を下りきった伶は、一度立ち止まって傘をさし、再び歩き始めた。夜の帳。伶は暗黒の中にあるかすかな光を唯一の道標に、雨に濡れたアスファルトの道を進んで行った。
*
深夜の交差点に、人影はない。志波はひとり、喫茶店“ループ”の外壁にもたれ掛かって雨宿りをしていた。暗くなった店内に、昼間の面影は感じられない。ただ静かに、雨の音だけが周囲に響いていた。
志波は目を閉じた。昔の自分の犯した罪が脳裏に甦った。
意識が遠のく。
次に志波が立っていた場所は、幼いころ志波が住んでいた、あのボロ屋だった。
少年裕也は、父子家庭だった。父親のドメスティックバイオレンスに耐え切れなくなった母親が、裕也を置いて出て行ったからだ。
母が消息を絶って以来、父は働くこともせず、毎日酒ばかり飲んでいた。酒を飲んでは裕也を殴り、裕也は常に傷だらけだった。一度肩を蹴られたとき、裕也の骨はバキ、と音を立てて割れた。しかしこんな親が裕也を病院に連れて行くはずもなく、それを庇って生活するうちに、裕也は猫背になっていた。今でも古傷が痛む。砕けた骨は歪に再形成され、裕也は背筋を正すことが出来なくなった。猫背の裕也を見るたび、父は「親への態度が悪い」と言って殴った。今思えば、どうして逃げ出さなかったのか、不思議なくらいだ。しかしその時の裕也にとって、例え暴力を振るわれたとしても、父は唯一無二の存在であり、愛すべき唯一の対象だった。
ある日、一匹のネコがボロ屋に迷い込んできた。キレイな、黒猫だった。黒猫は毎日家に来るようになり、暫くして裕也の家に住みついた。裕也は“彼”に「ダン」という名前を付けた。ダンは、傷ついた裕也の心を次第に癒して行った。
眠るときはいつもダンと一緒に布団に潜った。ダンの鼓動が耳元で響くたびに、裕也の心は落ち着いた。裕也は思った。自分はこの“鼓動”に守られているのだ、と。
傷ついた裕也は、ダンの鼓動を聞きながら眠る日々を過ごすうち、ただ鼓動を聞くだけでは満足が出来なくなっていた。ダンは所詮猫だ。いつまでも一緒にいてくれるわけではない。この鼓動も、いつ自分の元から去っていってしまうかわからない。裕也は思った。この鼓動を、ダンを“自分だけのものにしたい”と。
真夏の、寝苦しい夜だった。ダンはいつものように裕也の懐に潜り込んだ。その時、裕也の脳裏に、母親の顔が過った。自分を捨てて去っていった母親。優しかった、母親。しかし、今はもう居ない。行ってしまった、裕也を一人、残して。
―――あんな思いはもう嫌だ!
裕也は飛び起きて、台所に向かった。包丁を手に取る。
―――ダンを、ダンの鼓動を、僕だけのものにするのだ!
ダンは突然起き上がって走っていった裕也を追って、台所まで来ていた。
にゃおう。
「ダン、好きだよ」
裕也はダンの首根っこを掴むと、包丁を振り上げ、ダンの頭に勢いよく突き刺した。ダンは動かなくなった。
―――ああ、ダン。これで君はもう僕の元から去ることはないね。
その時、裕也の頭には聞こえた。それは紛れもなく、ダンの鼓動だった。
―――ダンの心臓が、出てきたがってるんだ。
裕也は無我夢中で、ダンの腹を切った。暗い部屋の中で、ぐちゃぐちゃ、と心臓を抉る音が響いた。ダンの心臓は小さかった。解剖なんて初めてだった裕也だが、それは確実に心臓だと思った。裕也には、音が聞こえていた。鳴りやまない鼓動が、聞こえていた。
裕也は心臓を愛おしく思った。ああ、ダン、君は永遠の命を得て、僕の横でとくとくと心臓の音を聞かせてくれる。
それから裕也は、ダンの心臓を持ったまま、立ち上がった。心臓は取り出しても、まだこうやって動いている。もしかしたら「お父さん」も、心臓だけになったら、優しい元のお父さんに戻るかもしれない。
裕也は思い出していた。母が出て行く前、父がまだ仕事をしていた頃、休日になると必ず、裕也の横で寝てくれた。裕也を抱きしめて。あの心臓の音が、裕也の子守唄だった。
―――お父さんはおかしくなってしまった。助けてあげなきゃいけない。
裕也は、空き缶や瓶が散乱したボロ屋の、電気がついたままの居間に向かった。そこでは、酔いつぶれた父がいつものように横になっていた。その表情は穏やかで、幸せそうだった。
とくとく、とくとく。
子守唄が聞こえる。自分だけの子守唄だ。
裕也は父親の上に跨ると、包丁を思い切り振りかざした。
第一発見者は、以前から何度も父に忠告に来ていた児童保護局の職員だった。発見されたとき、裕也は抉り出された父親の心臓と、小さな豆粒の様などす黒い何かを両手に持って、血の海で幸せそうに眠っていたという。一生消えない、愛する二つの心臓を得た裕也は、ただただ幸せそうに、穏やかな顔で眠っていたという。
裕也がまだ五歳の時だった。
はっとして、目を開く。足音が、近づいてくる。傘に当たって跳ね返る雨のしずく。その姿を見て、志波は優しく微笑んだ。
「来てくれたんだね―――」
雨の中、二つの影がループの屋根の下で一つに重なった。
*
未鼓はベッドから飛び起きた。また夢だ。今度は昨日とはまた違う、しかしやっぱり、そこには伶がいた。伶は泣いていた。
―――伶に、何かあったんだわ……。
未鼓は窓の外を見て、雨が降っていることに気付く。時計を見ると、深夜二時。伶に電話をして確認しようか迷った。しかし、思いとどまる。
―――こんな時間に電話なんて、もし思い違いだったら迷惑だろうし……。
未鼓は再び布団をかぶった。
雨音が五月蝿い。
―――何もなければいいけれど……。
未鼓は再び目を瞑った。その時、未鼓の携帯がピリリ、と鳴った。




