五、
未鼓はいつものバス停のベンチに腰かけていた。腕時計を見る。集合時間まであと五分。
「未鼓―!」
横断歩道の向こうから、声がする。顔をあげると、春樹と伶が未鼓に手をふっていた。未鼓は立ち上がり、笑って見せた。勿論、翔也の死のショックは払拭しきれていない。しかし、それを二人に悟らせて、心配を掛けたくなかった。
車が来ないのを確認して、二人は横断歩道を駆け足で渡ってきた。
「やあ、おはよう」
春樹ははつらつとして言った。それから、はっとバツが悪そうになって、右手で頭を掻いた。
「ごめん、土田のこと……辛いのに、今日来てくれたんだね」
「……ええ。やっぱり、彼だった。でも、なんとなくわかってたから」
「無理しなくていいんだよ、辛いときは、僕たちがそばにいるし、帰りたくなったらいつでも言ってくれればいいから」
未鼓は右手で左腕をぎゅっと掴んだ。春樹は優しい。
「うん。ありがとう。でも大丈夫よ」
伶は何も言わなかった。一歩後ろから、二人の会話を聞いていた。土田翔也の死が、二人をさらに近づけようとしている。
「伶、どうしたの、黙って。いつもの伶らしくないわ」
未鼓が伶を見る。伶ははっとして笑った。
「ああ。今日はあんまり寝てないからな」
「僕も伶も、昨日の事件の所為で、実はあんまり寝られなかったんだ」
春樹はぼそっと言った。朝もいろいろとあったし。春樹はまだ伶の顔を見ることが出来なかった。
「あら、私もなの」
未鼓は「奇遇ね」と言った。
当たり前と言われれば当たり前だ。ただでさえ同級生の死に、動揺しない者はいない。ましてや未鼓にとっては近しい存在だった訳で、春樹は殺人犯が壁一枚隔てたところで眠っていた訳で、伶はその殺人犯その人なのだ。全員、まともに寝ていられる状況ではなかった。
「それに、変な夢を見たのよ」
未鼓は首を傾げながら言った。
「怖い夢だったわ」
「え、どんな?」
聞かれて未鼓は、伶の方をちらりと見て、
「うーん、でも詳しくは忘れちゃった」
と笑って誤魔化した。
「さあて、長話はこのくらいにしようか」
伶はやっと口を開いた。
「ゲームセンター、開く頃だから」
そうね、そうだね、同調しながら、三人は歩き出した。その時、三人の前に二つの大きな人影が立ちふさがった。慌てて立ち止まる。他人の通行を妨害をするなんて迷惑極まりない。春樹は不信感を抱きながら、顔をあげた。
「おはよう、みんな」
軽い口調に違和感を感じた。何故ならそれが、昨日伶を怒鳴りつけていた、志波、という男だったからである。今日も猫背に、第二ボタンまで開いた白のワイシャツを着こなして、スラックスのポケットに手を突っ込んでいた。
「ちょっと、話いいかな」
春樹はすう、と血の気が引いていくのが分かった。伶の犯行がばれたのか。
「なんですか、無礼だな」
一歩前に出て、伶が言った。大人に負けない体格の伶が言うと、迫力がある。
「人の通行邪魔しといて、ごめんなさいのひとつもないんですか」
「おっと、それは失礼しました」
二人の間に、年配の灰色頭が割って入った。羽鳥だ。
「すみませんね、気分を害されたのなら謝ります。昨日の、羽鳥です。覚えてますかな?今日は、捜査協力をお願いしたくて来たんですよ」
羽鳥はにっこりと笑って、
「お時間少しだけいただけませんかな」
と言った。
「すみません、忙しいんで」
間髪入れず、伶が言った。
「ほう?同級生が死んだ次の日に、ゲームセンターに行くのが、“忙しい”ですか。子供の仕事は遊ぶことだっていいますからね。それとも、何か不都合なことでも、あるのかな?」
羽鳥は物腰柔らかそうに見えて、有無を言わせぬ口調で言った。流石刑事だ。伶は羽鳥に言われて、眉を寄せた。
「盗み聞きしてたんですか?」
「盗み聞きなんてとんでもない。れっきとした捜査ですよ、“月島伶君”。昨日君たちがこっちの方を通って下校していったので、ちょっと興味があって部下にあとを追わせましてね。そうしたらなんと、自分の学校で殺人事件が起きた次の日にゲームセンターに行くというじゃありませんか」
「僕たち高校生は勉強で忙しくて、こういう時しか息抜きできないんですよ。昨日は被害者が土田だなんて知らなかった」
伶が食い下がる。
「それに、僕の名前……調べたな」
「安心してください。君だけじゃありません。“日野春樹君”に“歌山未鼓さん”。三人は同じクラスで大の仲良し。毎日登下校を共にしているそうですね」
「そんなこと、事件に関係ないでしょう。ふたりとも、行こうよ。この人たち、気にくわない」
思っていても口に出していいことと悪いことがある。春樹は冷や汗をかきながら、羽鳥と伶のやり取りを見ていた。昨日もそうだった。昨日の志波も怖かったが、羽鳥の眼力は、それに増して迫力があった。
二人に構わず進もうとする伶の肩を、志波が押さえた。志波と伶は同じくらいの身長に見えるが、姿勢を正したら、伶より一回り大きいくらいだろう。羽鳥は春樹より少し背が高い程度で、中肉中背だった。
「気を悪くしたのならすまない、謝る。でも被害者が君たちと同じクラスだってわかった以上、捜査に協力してほしいんだ。どうかな、好きなジュースおごるから」
志波は昨日と違って、友和を求めるように言った。それから未鼓を見て、
「歌山さんも、事件が早く解決する方が、いいだろ?」
と言った。
「こいつらじゃ解決できないし協力なんてしなくていいよ」
伶は言う。しかし未鼓は俯きながら、
「いいえ、伶。刑事さんたちに協力しましょう」
と言った。
「早く犯人が捕まって、解決しなきゃ、翔也も浮かばれないわ。私、知ってること全て話します」
「ぼ、僕も協力します」
春樹も言った。
「まあ、僕の場合、彼とは喋ったこともないから、なんの力にもなれないと思いますけど」
春樹は、はは、と笑った。伶は二人を見て、怒りの矛先をどこに向けていいのかわからないまま、強引に志波の手を肩から退けた。
「……僕は何も言いませんよ。土田の死を悼んでいないわけじゃない。あんたら大人が偉そうにしてるのが気にくわないから」
伶は腕を組んで顔を背けた。
「月島君はそれでいいよ。みんなありがとう、じゃあ、近くの喫茶店、あそこでもいいかな」
志波が指さした先には、洒落た雰囲気の喫茶店“ミラー”があった。休日や放課後に、たまにそこで勉強会をする。
「あそこ、僕たちの行きつけなんです」
春樹は言った。
「な、伶」
同意を求めたが、伶は顔を背けたまま。何も言わない。春樹は肩をすくめた。
「じゃあ、早速、入ろうか」
カラン、カラン。
喫茶店のドアを志波が右手で押した。音に反応した店員の「いらっしゃいませ」が静かな喫茶店の中で響く。喫茶店の中はオレンジ色の照明で美しく彩られていた。テーブルは丸太をそのまま真っ二つに割ったようなテイストで、窓はステンドグラス。外から入る光がガラスを透過して緑や紫に色を変える。それがオレンジの照明とマッチングして、夕焼けの海を泳いでいるような穏やかな感覚に陥らせる。
羽鳥と志波は、喫茶店の一番奥に向かい、テーブルを挟んだ奥側のソファに高校生三人を誘導した。窓際に伶、真ん中に春樹、そして未鼓が座る。
「ここ、高校生が来るにはちょっと大人っぽすぎないかい」
志波が店内を見渡しながら言う。
「たまたま、近くですから。それに、伶の趣味で」
春樹は一番窓際に座った伶の方を見る。伶は肘をついて窓の方を不機嫌そうに見ている。春樹の問いかけにも、きっと未鼓の声にも反応しないだろう。こう見えて伶は、意外と頑固なのだ。
「好きな飲み物を頼んでください。お代は、出しますから」
「すみません、ありがとうございます」
羽鳥はにっこりと笑った。ぞっとする笑顔だ。昨日は志波より羽鳥の方が温和だと思ったが、実際は違うようだった。ベテラン刑事の貫録という奴だろう。
「僕、オレンジジュース」
春樹が言う。
「未鼓は?」
「私、ウーロン茶でお願いします」
「……ブレンド」
伶が呟くように言った。捜査協力はしないのに注文はするなんて、薄情なやつだ。しかし、伶が気乗りしない理由は分かる。何故なら、自分が犯人なのだから。
「月島君はやっぱり大人っぽいんだね」
微笑みながら志波は言って、それから店員を呼んだ。注文をすべて終えると、運ばれてきた水でのどを潤わせてから、羽鳥が口を開いた。
「まず、お聞きしたいんですが、皆さんから見て、土田翔也はどんな生徒でしたか?」
春樹は未鼓を見た。
「さっきも言ったんですけど、僕と伶は半年前に転校してきたばかりで、土田とも仲は良くなくて、というかあんまり喋るような間柄じゃなくて、だから、未鼓に聞くといいと思います」
「そうね。翔也の事は、家庭の事とか詳しいことは知らないけれど、私が一番詳しいので、話します」
未鼓は机の下で両手をきゅっと握りしめると、
「翔也は、病気でした」
と言った。
「もう、長くないって、丁度半年前にそう聞きました。友達と一緒にいるのがつらいって言ってました。だから伶や春樹に声を掛けたりしなかったんだと思います」
「そうですか。そんなことが」
「それまでの翔也は、明るくて活発で、友達もたくさんいる、いい子でした」
「かなりの不良少年だったと聞いていますが」
「それは誤解です。翔也は、恥ずかしがり屋だから、態と不良っぽい見た目にして、誤魔化してたんだと思います」
「そうでしたか」
店員がトレーに全員分の飲み物を乗せて、運んできた。飲み物が各々前に配られる。春樹だけ色のついたオレンジジュース。少し気恥ずかしさを感じて、中々ストローを通すことが出来なかった。
「土田君のご両親の事は知っていますか?」
「いえ、知りませんけど」
「ご両親、交通事故で亡くなられてるんですよ。それで、祖父母に引き取られ、育てられていたそうです。保護者も高齢ですから、土田君が面倒を見ながら、年金と給付金とアルバイトで生活をしていたそうですが、その所為で病気の発見も遅れてしまったんでしょうね」
「そうだったんですか……」
未鼓は俯いた。
「彼、半年前に、私に、友達を辞めてほしいって言ってきたんです。さよならを言うための時間をくれって。それまで友達を辞めてほしいって言われて。でも……」
両手を握りしめる力が強くなる。
「彼、私にさよならも言わずに、逝っちゃったんだわ……誰が、誰がこんなひどいことを」
未鼓は両手で顔を覆った。
「許せない。刑事さん。犯人を早く捕まえて……」
羽鳥と志波は顔を見合わせた。それから口を開いたのは志波だった。
「歌山さん、実は、その、死因が、判明してね。薬物の多量接種による中毒死だったんだ。それで、自殺の可能性が高いという見分が出た」
「え?」
春樹と未鼓は同時に言った。
「でも、死体はバラバラだったんですよね?なのに自殺って、どういう事ですか?」
「検死の結果、まあ、ちょっと状態が良くなかったから難しかったんだけど、微量に薬物が検出されて、同時に、現場に彼の指紋がついた、劇物の名前が記されている薬品用の瓶が残されていたんだよ。学校の科学室を調べた結果、倉庫の南京錠が壊されていて、その南京錠からも、科学室からも土田君の指紋が大量に発見されたんだ。そこから現場にあったのと同じ薬品が無くなっていてね。彼の身体から出てきたのも、同じものだった」
「じゃあ、土田が、自分でその薬品を盗んだっていうんですか」
「今のところ、そう考えている」
「薬品の瓶には、彼の指紋しかなかったんですか?本当に彼が自分で飲んだんですか?」
「……そこまでは何とも言えない。だが、事実を並べてみれば真実は」
「嘘よ!翔也が自殺なんて、ありえないわ!だって、もしそうだったならその前に、私にさよならを言いに必ず来るはずだもの。約束したんだから!」
志波の言葉を遮って、未鼓は机をたたいて立ち上がった。
「ありえない!誰かにそう仕向けられたのよ!若しくは巧妙に仕組まれた、犯人の計画だわ!」
「未鼓、落ち着いて」
声を荒らげて取り乱す未鼓を春樹はなだめた。静かな喫茶店の中で、彼女は一瞬にして注目の的となった。春樹はそれが嫌だった。
―――なによ、うるさいわね。
―――高校生が来るようなお店じゃないんだよ、ここは。
―――あいつら、出禁にしようかな。
人々の悪口が聞こえてくるような気がした。
「私が、彼の言葉を真に受けて、彼に話しかけたりしなかったから。もっと強引に、友達の輪に押し戻してあげれば、そうすればよかった……」
未鼓は力なくテーブルに顔を伏せた。
「彼が自殺したとしたなら、私の所為だわ!私が彼を孤独にしたから」
「未鼓、それは違うじゃないか、君は彼の言いつけどおり、彼を待っていたんだ、何も悪くない。とりあえず、落ち着こう」
春樹は周りを見渡しながら、未鼓の背中を摩った。
「辛い話だったね、すまなかった」
志波が言った。
喫茶店に、未鼓のすすり泣く声が静かに響く。春樹は未鼓の背中を摩りながら、ふと、窓際に座る伶を横目で見た。殺人鬼は、動じることなく窓の外を見ていた―――。
いや、待てよ。
春樹ははっとして志波を見た。隣で伶の微熱を感じながら、志波を見た。
「自殺ってことは、死んだあと、誰か別の人がバラバラにしたってことですか?」
―――――――――――。
伶……君は嘘を吐いていたのか。君は、殺人など犯していないではないか。春樹は困惑した。
「土田は自殺して、そのあとバラバラにされたってことですか……」
「……そういう事になる」
羽鳥は先程まではあんなに積極的に喋っていたのに、今は腕を組んで目を瞑っているだけで何も話さない。時たま自分が注文したコーヒーを口に運び、また目を閉じる。テレビで見る刑事ドラマのようにメモを取ることすらしない。喋るのは全て志波だ。
「それともう一つ、これは僕の勘だから、あまり口外しないでほしいんだけど」
志波は真直ぐ春樹の目を見た。口外してはいけないようなことを、普通の高校生に言うだろうか。そういえば先ほどから、何か様子がおかしい。何も話さない羽鳥に、ニュースでも発表されてないような機密事項をためらいなく話す志波。
春樹の額を冷や汗が伝った。伶の撮った写真、土田の自殺。一体何が起こっているのか。
伶が、ブレンドコーヒーを初めて口に運んだ。同時に、志波が言った。
「あまり気持ちのいい話じゃないけど、土田君の死体は、みじん切りみたいに切り刻まれているところと、関節に沿ってぶつ切りにされているところがあった。二種類の切り方で、分解されていたんだ」
志波は両手の指を組み、顎を置いた。
「犯人は二人組だ」
「ふ……二人?」
春樹は思わず伶を見そうになって、慌てて首を捻るのを止めた。伶の言っていた話とまるで違う。伶は「自分が殺して、自分がバラバラにした」と、あんなに誇らしげに笑っていた。しかし警察は……。
「日野君」
呼ばれて春樹は、志波を見つめたまま考えに耽っていたことに気付き、慌てて頭を掻いて誤魔化した。
「すみません、なんか混乱しちゃって……。犯人が二人も居るなんて、怖いですね」
「ああ。まあ、でもこれは僕の」
「ただの推測」
志波が言い終わる前に、伶が強い口調で口を挟んだ。伶が喫茶店に入って口を開いたのは、飲み物を注文した時以来だ。全員が一斉に伶を見た。
「ただのおっさんの、ただの推測、でしょ?」
言われて志波は押し黙った。
「春樹、未鼓、僕たちはとんだ茶番につき合わされていたんだよ。こいつは刑事でもなんでもない、ただのおっさんだぜ」
「……え?」
春樹は驚いて聞き返した。
「僕たちを、子供だからって甘く見るのはやめてもらえません?“志波さん”。無能な一般人の推測に耳を傾けてあげる程、僕たち将来有望な高校生はヒマじゃないんですよ」
「刑事さんじゃないって、どういう事ですか?まさか!」
二人組の犯人って……!
「志波君、ここまでみたいだ」
羽鳥がついに口を開いた。それから胸ポケットから黒革の警察手帳を取り出して、三人の前につきだした。
「安心してください。私は警察ですから」
春樹はほっと胸をなでおろした。羽鳥は腕を組むのをやめて、手を膝の上に置いた。
「確かに、志波君は刑事ではありません。騙しているつもりは無かったんですが、刑事でないと言ったら余計に話を聞いてくれないのではないかと思って黙っていました。志波君には昔からの腐れ縁で、捜査に協力してもらっているんです。君は彼を無能と言ったけれど、今までいくつもの事件を解決に導いてくれた、優秀な協力者なんですよ、こう見えて」
羽鳥は志波を見て、それから三人に頭を下げた。
「気を悪くしたなら申し訳ない。自由に話をさせた私の責任です」
「いや、いいですよ。面白い話も聞けたんで」
伶は能面のように無表情のまま言った。
「因みに、羽鳥さんの方は優秀だろう刑事さんだってことはわかってましたよ」
「伶、なんでわかったの?昨日も現場にいたし、僕はてっきり……」
春樹は小声で言った。
「簡単さ。だって本物の刑事が、ただの高校生たちにこんなに情報をくれるはずないもの。ニュースでも発表されていない、死因や、犯人について。そんな重大なものを僕たちの様な何の変哲もない高校生たちに話してしまったら、この中の誰かが誰かに告げ口して、それがだんだん広まって、警察しか知らない筈の情報がいつの間にかオープン。最悪捜査妨害にもなりかねない。報道協定って知ってるかい。この場合は違うけど、それだって犯人逮捕と、被害者の安全、市民の安全を守るためにあるんだぜ。それをこんなにぺらぺらと。一般的に事件を捜査してる刑事ってのは、そこの無能さんみたいにぺらぺら情報をオープンにするんじゃなくて、逆に僕たちを質問攻めにする筈さ。そして極めつけは隣で、優秀な刑事さんが何も口を出さず、目を閉じていたことだ。何故目を閉じていたのか。それは、この無能さんの“捜査方法”が、実際の警察の捜査方法に反していたからだよ。でも優秀な刑事さんはこの人を信用している。だから仕方なく“許容”して、無意識に“目を瞑って”聞かないことにしていたんだよ」
「……頭のいい生徒だと聞いてはいたが、流石だな、月島伶。君の洞察力と推理力には感服だよ」
今まで押し黙っていた志波が、苦笑いを浮かべて、前のめりになっていた身体を勢いよく後ろのソファに押し付けた。
「此処まで無能無能と言われると、最早腹も立たないよ」
「す、すみません、伶はちょっと口が悪くて……それに昨日の事をちょっと引きずっている節もあって、ほんとすみません、お気を悪くなさらないでください」
春樹は慌てて頭を下げた。伶、流石に言い過ぎだ。
「でも、僕、志波さんが刑事さんじゃなくても、ちゃんと話してましたから、だ、大丈夫ですよ。それに、そこまでわかってるんなら犯人ももうすぐ捕まっちゃいますね、安心しました―――」
春樹はおや、と言葉を止めた。先程の伶の言葉が脳裏で再生される。
「志波さん、なんで僕たちに、こんなに情報を教えてくれたんですか?」
「春樹、そんなの簡単だよ」
伶は言った。志波は唇を結んで、伶を見た。
「僕ら三人の中に犯人がいるって思っているのさ」
血の気がさーっと引いていくのがわかった。確かに、春樹たち三人は昨日、殺人事件の現場に足を踏み入れ、問題行動を起こした。
―――だからって疑われているのか!
志波は険しい顔で、目線を落とした。
「僕らの中に犯人がいると思い込んで、自首させるために、“ほら、警察はもうここまで情報を掴んでいるんだぞ”って、脅しのつもりでぺらぺら喋ってくれちゃったのさ。しかも“土田翔也は自殺と断定されてます。だから死体損壊の罪にしかなりません”っていう飴までくれてね」
春樹は身体が強張るのを感じた。警察に疑われていた。犯人にされようとしていたのだ。
―――二人組って、僕と伶がやったって思っていたに違いない。
春樹は一気に、志波を信用できなくなった。恐ろしい誤解だ。今まであんなに愛想よく接していたというのに、酷過ぎる仕打ちじゃないか。
「でも安心してくださいよ、“志波さん”。僕たちの中に犯人はいません。だって僕と春樹、特にこいつは、未鼓の事が大好きなんです。泣かせるようなこと、する筈ないじゃないですか」
伶は立ち上がった。
「雑談に付き合うのにはもう飽きました。そんなに僕たちが疑わしいなら、目撃情報なりなんなり、証拠を持って出直してください。ちゃんと“警察のやり方”でね。おい、春樹、未鼓、行くよ」
未鼓はあっけにとられていた。話の展開がよく読めない。春樹はちょっと怒っているみたいだし、伶もだ。
二人に促され、未鼓は席を立った。春樹と伶が続く。
「それと」
二人の横に立ち止まり、伶は言った。
「犯人は一人ですよ」
伶はにやりと笑う。志波と羽鳥は、それを見て息を呑んだ。
未鼓はまだ二人に聞きたいことがあったが、春樹はそれを遮り、未鼓の手を引いて、喫茶店を出た。疑われたことが、非常に腹立たしく、恐ろしかった。続いて伶が出てくる。未鼓は冷や汗を拭いながら、二人の険悪な雰囲気に身を震わせた。
その時、もう一度喫茶店のドアが開いた。出てきたのは志波だった。
「みんな、すまなかったね、不快な思いをさせて」
誰も何も言わなかった。志波はスラックスのポケットから、茶色い革の名刺入れを取り出し、差し出した。
「疑ってたわけじゃないんだ、ただ、君たちの様子がどうしても気になってしまっただけなんだ。もう信じてもらえないかもしれないけど、何か、心当たりがあったら、連絡してほしい」
未鼓は名刺を受取った。春樹も、いつになく少しだけ悪びれた風に、片手で受け取った。
「月島君は、受け取ってくれないよね」
「僕、春樹と同居してるんで、間に合ってます」
言い終わると伶は歩き出した。二人も続く。志波はそれを無言で見送り、喫茶店の中へ戻っていった。
先程のテーブルで、羽鳥がおしぼりで額の汗をぬぐっていた。志波が席に戻ると、
「月島伶、に、やられたね。彼は相当大人が嫌いみたいだ。教師たちから聞いていた通りだね。志波君は、悪くない。寧ろよく耐えたよ」
と、労るように言った。
「いや、大成功ですよ」
羽鳥は驚いて志波を見た。志波は片肘をついて、ストローでアイスコーヒーをかき混ぜていた。カランコロン、と氷が鳴る。その唇は笑っていた。
「やっぱり、僕の読み通りでした、あの三人の中に犯人はいます」
「なんだって」
羽鳥は強く言って、それから周りを見回して小声になった。
「月島伶か。彼が犯人か」
「羽鳥さん」
伶の殆ど口につけていないコーヒーに目を落とした。志波の脳裏に、ある夏の光景が浮かんでいた。投影機で映し出される静止画は、とある少年の悲しい昔話だった。
「このヤマ、僕にくれません?」
「何を言っているんだ」
「似てるんです、あの目」
志波は虚ろな瞳をステンドグラスの窓に向けた。
「昔の僕に、似てるんです」
*
静かな部屋。いつもより、寂しい気がするのは、目覚まし時計の、かち、かちという音がないからだろう。あの小さな音を「鬱陶しい」と思ったことは何度もあった。しかし、無くなってしまった今となっては、なんだかそれすら懐かしい。
春樹はベッドに倒れ込んだ。ポケットに違和感がある。上向きに寝返りをうつと、違和感の元を探る。今朝、志波からもらった名刺だった。名刺を掲げる。
―――志波裕也、か。
春樹は名刺をポケットに戻すと、溜息をついた。役職名は空白で、名前と電話番号だけが載っている簡素な名刺。刑事が探偵と手を組んでいるドラマはよく見るけど、そうでもない人の推理を信用して近くに置いておくなんて、羽鳥刑事の気が知れなかった。
あの後、結局三人はゲームセンターに行く気にはなれず、近くのレストランでランチをして帰宅した。伶は終始不機嫌そうで、未鼓は不安そうな顔をしていた。二人の大人の所為で、折角の休日が台無しだ。そもそも、クラスメイトが死んだ次の日に遊ぼうなんていう考えから間違っていたのかもしれない。軽い天罰が下ったのだ。
―――混乱するなあ。
志波の発言を思い出す。土田翔也は自殺。バラバラにした犯人は二人組。伶の言っている事と食い違っている。伶はただの第一発見者で、春樹をからかいたいだけに、写真まで撮って、『自分が土田翔也を殺した』と言ったのかもしれない。
―――やっぱり確かめてみよう。
春樹は起き上がって、部屋のドアを開けた。続けて隣のリビングのドアを開ける。ソファで、いつものように伶が横になっていた。
「ノックくらいしろよ」
「あ、ごめん」
春樹は肩をすくめた。それから、
「ねえ、土田って、自殺だったの?」
と、思い切って切り出してみた。伶は答えない。
「今日、志波さん、犯人は二人組だって言ってた。もしかして、やったの伶じゃないんじゃないの?」
開け放たれた窓から風が吹き込み、カーテンが揺れる。
「伶が第一発見者、だったんじゃないの?それで写真だけ撮って……僕をからかおうと……」
ははははははははははは!
突然、伶は凄まじい勢いで笑った。
「春樹、何を言っているんだ」
伶は寝転がったまま涼しい顔をしている。
「僕は見事、警察を欺いたのさ」
「どういうこと?」
「真実を言おう」
伶の目尻が鋭く切れる。勢いをつけてソファから立ち上がると、テーブル上の麦茶に手を伸ばした。ゴクリ、と一口飲んで、はあ、と息をつく。春樹は只ならぬ伶の雰囲気に圧倒され、リビングの入口で立ち尽くしていた。
「僕は土田翔也が病気だって知ってた。未鼓から相談されていたんだ。君は知らなかった?」
春樹はのどが一気に乾燥したのを感じた。昨日未鼓に言われるまで、知らなかった。二人は春樹の知らない秘密を、春樹の知らないところで共有していたのだ。春樹の脳天から、音が遠のいてく。嫉妬だった。
険しい表情の春樹を見て、伶は苦笑した。
「やっぱり、春樹には言わなかったんだ、未鼓」
苛々する。いつの間にか拳が握られていて、微かに震えていた。
「まあ、それは置いといて。僕は、昔から人間の死に興味があってね。人間って、死ぬとどうなるんだろうって。ほら、動いていると鬱陶しいだけだろう。無駄なことを考えるし、無駄なことを言うし。ゴキブリだってそうさ。動き回るから恨めしくて気持ちが悪い。でも、いざ死んでしまえば、なんだかその小ささに命のきらめきと愛おしさを感じる。余命幾許もない土田翔也の存在を知った僕は、死を知ることで、人間という余りに醜い存在の“尊さ”を知りたかったのさ。だからある日、土田にこう持ちかけてみた。『僕の前で死んでみてくれないか』ってね」
―――死んで“みて”くれないか、だと?
命は一つ限りだというのに、人生は一度きりしかないというのに、そんな非常な言葉を、病気で苦しむ土田翔也に言い放ったというのか。いつ死ぬかわからない苦しみに悶える彼に、刃のように思いやりのない言葉を突き刺したというのか。
「そうしたら彼、喜んでたよ」
「え?」
理解が出来なかった。
「死んでくれって、言われて、喜ぶ人間が居るものか!」
「居るんだよ。居たんだ。土田翔也はもう薬漬けで、登校するのもやっとのくらい蝕まれていた。このまま孤独に死ぬくらいなら、いっそ、誰かの見ている前で死んだ方が幸せだってね。一人で死ぬのは怖い、彼は泣きながら僕にそう言ったよ。でも怖くて、自分では死ねない。だからどうか、殺してくれ、とも言われたさ」
「土田から頼まれたっていうのか?」
「ああ、懇願されたよ。でも、それは断った。だって、ただ殺したらつまらないじゃないか。だから僕は、彼に“いい死に方”を教えてあげたんだよ。楽に死ねる方法があるよって。ほら、科学室の倉庫に、土田の指紋が沢山ついていたって言っただろう。僕は彼にこういったんだ。科学室の劇薬コーナーから、あるものを取って来いって」
「あるものって?」
「青酸カリさ」
よく聞く毒薬の名前だった。まさか、そんなものが学校にあるだなんて、誰も考えが及ばないだろう。
「な、なんで伶は、そんな危ないものが学校にあるなんて知ってたんだ」
「僕が成績優秀なのは知っているだろう?先生たちはみんな僕を優等生として可愛がってくれる。だから化学教師に近づいて、聞いてみたんだ。青酸カリって、どうやって作るんですか?って。そしたら笑って、『そんなもの、小説の中にあるだけで実際は入手困難だよ。うちの学校は県内でも特別優秀だから、劇物コーナーにちょっとならあるけどね』なーんて風に、簡単に教えてくれちゃったわけさ。口が滑ったって感じにね。
僕は土田翔也に、深夜の学校に忍び込んで、南京錠を壊してそれを取ってこいって指示した。約束の日、彼は決行したよ。見事に盗んで来てくれた。しかも沢山、指紋を残してね」
伶の不気味な引き笑いが部屋に響いた。
「それで、土田は、素直に飲んだのか?君は彼の願いを、叶えてやったってこと?」
「いや」
伶は急に厳しい顔になった。
「奴は突然渋りだした。折角青酸カリを盗んだというのに、やっぱりまだ死ねない、なんて言い出した。最後に未鼓に、さよならを言いたい、なんて言い出した」
「……さよならを、言わせてあげなかったんだな」
「当たり前だ」
伶は春樹をにらんだ。
「土田翔也、あんな小汚い不良に、未鼓を会わせるわけないだろ」
「小汚いだなんて……。未鼓の話聞いただろ?良い奴だったって。それに会わせるのが嫌だったなら、電話でもよかったじゃないか」
「ああ、電話でもいい、と言っていた。だがそうしたら、“痕跡”が残ってしまう。土田翔也が死んだ日に未鼓に会ったり、連絡を取り合ったりしてしまったら、奴の死体が見つかった時真っ先に疑われるのが未鼓になる」
「だったら、別日に決行すればよかったじゃないか!」
「バカだなあ、そんなことしたら、劇物コーナーの南京錠が壊れているのがばれて、青酸カリが盗まれていると、学校中で騒ぎになる。やりづらくなるじゃないか。それに」
伶はやれやれ、というように両手を肩の所で開いて“お手上げ”のポーズをした。
「僕は“計画通りに行かないのが大嫌いなんだ”」
そうだった。伶はいつも、規則正しく生活をして、予定を几帳面に記録し、その通りに行動する、完璧主義者だ。春樹は伶が何をしたのか、予想して固まった。動けない。伶は元の体勢に戻ると、にやりと微笑した。
「ああ、今でも思い出すと震えが止まらない。恐怖の震えじゃない、歓喜の震えだ。僕は土田の腹にけりを入れた。病に蝕まれた奴の身体は、簡単に“落ちた”。学校一の不良が、一発でノックアウトだ。苦しそうに呻いてたな。みぞおちに入ったから、身体中もう力が入らなかったんだろう。僕は『何するんだ』ってこっちを向いた奴の頭を左手で体育館の外壁に押さえつけた。それから奴が手に持っていた瓶を、右手で無理やり口に押し込んでやった」
「なんてひどいことを!」
春樹は想像し、余りのむごさに嘆いた。
「そんなの、彼が望んだことじゃないじゃないか!」
「ああ。そうさ。でもそれでよかった。僕は最初から、奴の望みを叶えてやろうなんて思ってなかった。僕は人が死ぬのが見たかっただけなんだから。それも僕の計画通りに」
伶はそこまで話すと、はあ、と溜息をついて再びソファにもたれかかった。
「しかし、それにしてもあっけなかったよ、“死”というものは。土田翔也は暫くはもだえ苦しんだが、ほんの三十秒くらいで動かなくなった。動かなくなった奴を見ても、僕は何の優越感も、得られなかった。どうでもいい人間がひとり、死んだだけだ。死体を見ていても、何の“美”も感じなかった。ゴキブリでさえ愛おしさを感じるというのに、土田翔也には、死んでも尚、魅力を感じなかった」
パチン、と伶は指をはじく。
「そこで考えたんだ。これをもっと、魅力的なものにしよう、芸術的に、そう“アート”に作り変えようって。ああ、最初にね、土田と“死の約束”をしたとき、しくじった時用にナイフを用意しておこうっていう打ち合わせだったんだ。青酸カリで死ねなかったら、仕方ないから僕がナイフで首を切ってあげるよって。勿論そんなつもりはなかったけど、持っててよかった。僕は彼を切り刻み」
伶は立ち上がり、テレビの下の引き出しから“あの封筒”を取り出した。
「“アート”を作った」
伶は封筒から写真を取り出すと、一枚一枚テーブルの上に几帳面に並べた。
「これが、全体図。これは、手。これは、頭。これは、足……」
「ひっ」
思わず声が漏れていた。やはり伶が全部やったんだ。やはり伶は、恐ろしい殺人鬼だったんだ。
伶はくい、と首を持ち上げると、
「春樹、怖がらなくていいよ」
と笑った。
「僕は春樹とおばさんの事は本当に大切に思っているんだ。だから絶対に殺したりしないよ。ずっと、一緒だったじゃないか。君は僕のこの枯渇した心を、理解してくれるだろう?」
伶の表情は逆光で、見えなかった。昨日と同じだ。
「ほら、春樹、こっちへ来て」
伶が手を伸ばす。
―――あの時、僕はその手を取って……。
「い、嫌だ……」
春樹は恐怖と息苦しさで涙ぐみながら、なんとか声を絞り出した。
「僕は……そっちには行けない」
勢いよくドアを開けると、春樹は駆け出していた。兎に角、この殺人鬼から逃げたかった。葛藤から逃れたかった。玄関で靴を履こうとするが、身体中が震えて上手く履けない。何とか踵を踏みつぶして足をねじ込むと、春樹はドアを開け放って家を飛び出した。
逃げたい、逃げたい。
誰か、誰か助けてくれ!
土田翔也の残骸と、殺人鬼と化した伶が、後ろからナイフを手に、追いかけてきているような気がした。
春樹は何度も転んでは這いつくばりながら、全力で走り続けた。
今朝の喫茶店“ループ”が見える。
春樹は助けを乞う思いで喫茶店に飛び込んだ。
―――誰か……!
…………。
喫茶店に入った途端、春樹ははっと我に返った。脳に静けさが戻ってくる。
「いらっしゃいませ」
店内に愛想のいい声が響く。春樹は汗をぬぐいながら、挫いた足を引きずって、朝と同じテーブルに座った。伶が追ってきているなら、喫茶店のドアが開くころだろう。しかし、店内はただ静かなだけで、殺人鬼の気配が迫っているようには思えなかった。
―――伶は、追ってこなかったんだ。
春樹は安堵の溜息をついた。店員が水を運んでくる。
「ご注文は」
「オレンジジュースを一つ」
「かしこまりました」
やはり、ここは落ち着く。春樹はおしぼりで汗を拭きながら、これからどうすべきか、と思案した。家には帰りたくない。伶に会いたくない。会うなら未鼓、いや、未鼓は今朝の話で混乱している。更に混乱させるようなことを言いたくない。
春樹はズボンのポケットから、名刺を取り出した。
―――この人か……。
春樹は携帯電話を取り出すと、名刺の電話番号を押した。
ブー、ブー。
志波の携帯のバイブ音が鳴った。
「羽鳥さん、早速かかりましたよ」
志波は立ち止まりざまに羽鳥に言った。
「僕の蒔いた餌に」
言い終わると志波は電話に出る。羽鳥ははつらつと喋る志波を見て、眉を歪めた。志波はいつも警察の為に、いや羽鳥の為だけに捜査に協力をしている。その志波が、このヤマを欲しい、とまで言うなんて、余程彼らへの思いが強いのだろう。
羽鳥は嫌な予感がしてならなかった。この事件について喋る時の志波は、心ここにあらず、というように見えたからだ。警察ですら、油断をしていると後ろから刺されることがある。ましてや志波は一般人である。できることなら、もうこの事件に巻き込みたくない。
電話を終えた志波は、
「日野君でした。喫茶店ループで待ってるそうなんで、僕、行ってきます」
と言った。
「ああ、私も行こう」
「いや、僕一人で行きます。刑事さんがいると、緊張しちゃうと思うんで。それに、一人でいるみたいだから。一対一の方が、話もしやすいでしょう」
「しかし……」
「僕なら大丈夫ですよ」
志波はにっこりと笑った。羽鳥は苦い顔をしたまま、
「志波君、君はこの事件に、のめり込み過ぎている」
と言った。
「この事件に“何を感じるのか”、私にはわからないが、この程度の事件なら、君が自ら捜査しなくとも、私たち警察だけで十分だ。君が一番よくわかっているだろう」
羽鳥は志波の肩に手を置いた。
「君が、心配なんだ」
「羽鳥さん、僕がこの事件にのめり込むのは、この事件が、あの時の僕の宿題だからです。真実は、全てわかっている。でもそれを羽鳥さんに話す前に、人間というものの希望に賭けたいんです。大丈夫、僕の事は心配いりません。全てが終わったら、必ず羽鳥さんに真実を話します。そして必ず、この事件を解決させてみせます」
「志波君……」
志波の目は、最早意思を固めていた。羽鳥は、手を放さざるを得なかった。
「気をつけるんだぞ」
羽鳥は強い口調で言った。志波はにっこりと微笑むと、
「はい」
と言って、小走りで来た道を戻っていった。
伶は、春樹が開け放ったドアを、ぼーっと見ていた。春樹は、伶を嫌いになっただろうか。もしそうだとしたら、それは、“正しい”ことだ。
溜息が漏れる。伶はグロテスクな写真を封筒に戻すと、テレビの下の引き出しに入れた。
伶は、喪失感の中に居た。わかってはいた。だが、春樹を、弟を失うことがこんなに辛く、苦しいとは。
昔の事が脳裏を過った。遊びから家に帰ると、家に知らない男がいた。その夜、伶の父は母を殴った。母の唇には血が滲んでいた。伶は両手で妹の目を隠しながら、自分はそれを見ていた。父は泣きながら、喚きながら、何度も何度も母を殴った。母が死んでしまう、と思った。伶は泣きながら、父に「やめて」と叫んだ。しかし、伶の声は、父には届かなかった。
父は、何よりも失う事を恐れていた。友も、財産も、母も。しかし、財産以外の全てが、父から離れて行った。その度に父は嘆き悲しみ、途方に暮れていた。父が伶を引き取ろうとしたとき断ったのは、母を殴ったからではない。伶が、父の元から去る日が来るかもしれない、そうなったら父は、また大切なものを失うことになる。失うならば、最初から持たない方が良い。父を思ってこそ、伶は父と決別する道を選んだのだ。
―――いらん昔話を思い出してしまった。
伶は麦茶をグラスに注ぐと、一気に飲み干した。そういえば、夕食の具材を切らしている。
「春樹は、戻ってくるかな……」
伶はふと呟いた。戻ってこないかもしれない。あのまま、警察に行ってしまったのかもしれない。でももし帰ってきてくれるならば……。
―――その時は、夕食、作っておかなきゃいけないな。
伶は立ち上がると、買い物袋と財布を持って、家を出た。




