四、
未鼓はバスに揺られながら、偏頭痛に耐えていた。この天気の所為か、昨日からおかしな夢を見たり、おかしなことを考えてしまう。
―――今日の二人、なんだかちょっと変だったなあ。
そんなことを言ったら、一番変だったのは私に違いない。未鼓は、羽鳥刑事の前に躍り出た時の事を思い出し赤面した。少し衝動的すぎた、幼稚すぎたかもしれない。嫌な風に記憶されなければいいけれど。
窓の外を見る。こんなに憂鬱な下校は久しぶりだ。
―――翔也が友達辞めたいって言った日以来ね。
あの日も、こんな空だった。おろしたてのローファーが汚れて、家で父に散々嫌味を言われたのだった。
―――翔也じゃなきゃいいなあ。
同時に、今日の春樹と伶を思い出していた。春樹はなんだかぼーっとしていたし、伶は逆にそわそわしていた。特に伶は、何度も何度も春樹を見て、いつも以上に春樹の顔色を窺っていたような気がする。ふたりとも、非常にわかりやすい性格だ。伶は春樹の事になると、見た目にそぐわない子供っぽさを見せる。春樹は……。思ってから未鼓は赤面した。
―――……そうだったらいいな。
春樹はきっと、未鼓の事が“好き”だ。未鼓も、春樹の優しさに惹かれていた。しかし、伶も居るし、何よりも恋愛経験がない未鼓は、フラれるのが怖かった。“好き”にも種類が色々ある。春樹がもし、未鼓が翔也にそうだったように、友達としての“好き”だったとしたら、春樹にフラれた未鼓、となって、三人の関係はギクシャクしてしまう。
―――今が一番いい感じの関係だものね。
壊したくない、と思った。
バスを降りて、五分歩いた所に家がある。父子家庭にしては、立派な二階建ての一軒家だ。賃貸ではない。こう見えて、未鼓の父親はどこぞの大きな会社の役員をしているから給料はよかった。
父の帰りはいつも決まって夜十時を越える。ひとりでこんなに広い家にいても、寂しいだけだ。幼いころから、父は、未鼓が欲しがるものは、何でも与えた。しかし、未鼓の寂しさを埋める家庭的な温かさだけは、与えてくれなかった。
「ただいまー」
誰も居ないのはわかっている。形式的なものだ。ローファーを脱いでスリッパに履き替えると、まずリビングに向かう。リビングには来客用の菓子が出されていて、未鼓は毎日こっそり一つずつ食べていた。
―――宿題もないし、テスト勉強でもしようかな。
そう思って二階の自室に行こうとしたとき、誤って落ちていたテレビのリモコンを踏んでしまった。ファーっという静かな音と光を発しながら、少し時間差で薄型のデジタルテレビがつく。
「もう、お父さん、リモコンは机の上に置いてっていつも言ってるのに」
愚痴をこぼしながらリモコンを拾うと、ついたばかりのテレビに目をやった。
『安全なはずの学校で何が』
未鼓は思わず手を止めた。画面の右上の文字を見て、今日の事件の事だと確信した。
『今朝未明、安全なはずの高校の敷地内で、変死体が発見されました。遺体は損傷が激しく、身元はまだわかっていませんが、学内に連絡の取れない生徒がいるということで、警察は捜査を進めています。こちらが……』
未鼓は吐き気を覚えて洗面所に走った。映像からちらりと見えたブルーシートが、先程の出来事を走馬灯のように思い出させる。
死体を見たいと言った伶。
それを止める春樹。
土田翔也か確かめたいと言った未鼓。
刑事二人の会話。
伶と志波刑事とのやりとり。
泣きながら訴える未鼓。
冷静に二人を帰路に導く春樹。
…………。
いや、違う、何か見落としている。伶は、冷徹で時に突発的なことを言う。春樹は優しくて、いつも未鼓や伶の事を思って行動してくれる。ふたりとも、いつも通りだった。ん?いつも通り?いつも通りなのはおかしい。だって今日は“いつもどおりではない”。そしてあの場所は、“いつもどおりではなかった”。
未鼓は思い出した。あのひどい臭いを。
肉が腐ったような、腐敗臭。慣れてるはずの刑事たちですら、ハンカチで口を覆っていたのだ。未鼓は、あの臭いでいつ吐いてもおかしくなかった。しかし、伶も春樹も、まるで臭いを感じていなかった。
―――私の気の所為?
今日見た意味不明の夢の事が思い出される。
―――何だろう……違和感だらけだ。
リビングでは、ニュースキャスターがひとり、事件について喋りつづけていた。微かな音が、家中の壁に吸収されていく。未鼓は洗面台で、顔をあげ、鏡を見た。後ろに誰かいる。
―――伶!
はっとして振り返った。……気の所為だったようだ。
未鼓は溜息をついた。あんなことがあったのだ、今日は疲れているのかもしれない。
死んだのが土田翔也だという事は、未鼓にはなんとなくわかっていた。翔也の魂を感じない。
未鼓はざばっと顔を洗った。こんな日は、寝てしまうのが一番だ。まだお昼だし、早すぎるけれど、何も考えたくない。
これ以上考えていると、一瞬脳裏を過った恐ろしい結末が現実になってしまうような気がした。
リビングでは、まだ機械の箱が、音と光を放ち続けている。被害者の名前は、まだ判明していないようだ。
帰宅した春樹と伶は、お互いに口をきこうとしなかった。お互いに、というよりは、春樹が一方的に伶を避けていた。伶の顔をまともに見ることが出来なかった。昨日までの伶を思い出すたびに、それは石灰の如く脆く崩れ去り、先程の“殺人気”が現れる。今は恐怖より、ただただ、悲しかった。
二人は、二部屋にキッチンと廊下しかない、小さなアパートに二人暮らししていた。ふたりを支える春樹の母親は、今は工場で住み込みで勤務していて、三日に一度帰ってくればいい方だ。子供たちの為に身を粉にして働いている、良い母親だ。春樹は自分の母を誇りに思うのと同時に、いつか必ず恩返しをしようと考えていた。
しかし、伶は知っていた。春樹の母親は帰ってくるたびに、違う香水の匂いがする。きっと、何人も、男がいるに違いない。工場で働いているにしては給料が良すぎる。きっとその男たちの援助があるからだろう。勿論、彼女には感謝している。身寄りのない自分を、快く引き取り、自分の子供のように大切に育ててくれた。その分、いつ裏切られるか、いつ春樹と自分が捨てられるか、伶はそればかり考え、恐れていた。
二人は家事を分担して行っている。今日は春樹が食事担当だ。しかし、伶に先程のように、
「今日は何食べたい?」
などと聞き直す気にはなれなかった。寧ろ春樹は、なにも食べたくなかった。
―――あんな写真見せられて、あんなこと言われた後なんだもの。仕方ないよ。
春樹は溜息をついた。伶は殺人鬼だ。しかし、信じたくない。信じられなかった。あの伶が、春樹思いで母思いで優しい伶が、人を殺せるはずがない。確かに伶は他人と変わったところがある。冷徹で残虐な一面がないとは言い切れない。それでも、人を殺すほど、いかれた奴じゃないことは、春樹が一番よくわかっていた。
春樹は伶の言葉を思い出した。
―――僕が土田翔也を殺して、この美しいアートを作り上げたんだ。
死体をアートだなんて。
春樹は項垂れた。あの時の伶の恐ろしい表情が甦る。
―――信じたくないけれど、あの写真を持っているという事は、やはり真実なんだろう……。
二人は幼いころから生活を共にしてきた。決して裕福な日々では無かったけれど、一人っ子だった春樹は、伶が家に来たとき、兄を得たような気持ちになって、とても嬉しかった。
あの日々はもう戻ってこないのか。
伶は異常な殺人鬼になってしまった。人を殺した。しかも、クラスメイトを。そして春樹の隣にいて、平然と生活している。笑っている。
もしかしたら、自分も殺されるかもしれない。
春樹は不意に恐怖を覚えた。
その時、背後に黒い気配を感じた。春樹はあっと飛びのき、テーブルに躓いてしりもちをついた。顔をあげる。そこには、伶が立っていた。
「なにしてんの」
「な……それはこっちのセリフ」
「もしかして、僕にビビってるの?」
春樹は何も言えないまま、伶を見つめ返した。伶は笑った。
「大丈夫。春樹に手を出したりはしないよ。僕にとって春樹とおばさんは、特別な存在だから」
いつもの伶みたいな、優しい言い方だった。
「ほんとに?」
「もちろん。誓っていい」
伶は言った。
「その代わり、僕の事は誰にも言わない。約束してくれるかい」
春樹は震えながら頷いた。本当の友達なら、自首を勧めるべきだという事は十分にわかっている。しかし、今の春樹は恐怖に屈して、ただ頷くことしかできなかった。
「よかった。春樹ならきっとわかってくれると思ってたんだ」
伶は微笑んだ。それから手を差し伸べる。先程の帰り道でもそうだった。春樹は伶の手を取り、立ち上がる。伶の手は、殺人鬼の手とは思えないくらい、温かかった。
ああ、これから、殺人鬼との同居生活が始まる。
伶が去ったあと、春樹は呆然と立ち尽くした。
りーん、りーん。
正午を知らせる鐘が鳴る。春樹ははっとして、キッチンへ向かった。今日の昼食を作らなくては。
―――何を作ろう……。
写真の肉片が脳裏を過った。小さく嗚咽を漏らす。今日は肉料理はやめよう。確か冷蔵庫に、キャベツがあったはずだ。春樹は冷蔵庫を開け、少ししなびたキャベツを取り出した。
―――千切りにしちゃえば、少しくらい水分抜けてても、わかんないよね。
目玉焼きにキャベツの千切り。朝食の様なメニューだが、今現在この家にある食材ではこの程度のものしか用意できない。
春樹は棚を開け、包丁を取りだし、握った。
その時だ。
――――――――――――!
春樹は何が起きたのかわからなかった。砂嵐の様な映像が、断片的に、春樹の脳内を駆け巡った。脳味噌を抉られるような、ひどい頭痛が襲う。
一瞬の出来事だった。
「あああああああ!」
春樹は頭を押さえてのたうち回った。春樹から解き放された包丁が、自由落下を終え、床に当たって先端がはじけた。
とぎれとぎれの映像は、一体何を意味するのか分からない。先程見た写真の影響だろうか。春樹は、目の前が真っ赤に染まるのを見た。
一体何なんだ。
“あれ”は、何なんだ。
頭痛のあとは耳鳴りが春樹を襲った。右耳から左耳まで、高音の矢が突き刺さる。矢は今度は後頭部から両目を抉るように駆け抜け、ぐちゃぐちゃと脳味噌をかき回した。
「やめてくれ!」
春樹は叫んでいた。気持ちが悪い。誰か、誰か助けてくれ。このままでは、死んでしまう……!
「春樹!」
悲鳴を聞きつけ、いち早く駆けつけた伶は、キッチンでのた打ち回る春樹を見て絶句した。次に目に入ったのは、床に転がる、先端が欠けた包丁。
伶はすかさず包丁を手の届かないところに蹴り飛ばすと、春樹を床に押さえつけた。
「どうした、何があった」
伶が触れた途端、暴れていた春樹の身体は落ち着きを取り戻した。微かな震えはあるものの、春樹は目を開け、伶を見た。
「何があったんだ」
伶の問いに、春樹は震える唇で、
「わ……からない……」
と、なんとか答えた。春樹は何故か汗まみれだった。冷や汗だ。息をするのもやっとだ。空気を吸い込むという事は、こんなに難しいことだっただろうか。
伶はふう、と息をついた。
「いつもの過呼吸だな」
春樹はもともと過呼吸持ちで、病弱な体質だった。今日あった出来事の刺激が、春樹には強すぎたのだ。
伶は春樹の背中を支えて抱き起すと、
「あの写真の所為だな」
と言った。
「ちょっとテンションあがっちゃって、誰かにどうしても見せたくて、見せた僕が馬鹿だった。ごめんな、春樹」
春樹はまだまともに息が出来なかった。伶は背中を摩りながら、春樹を落ち着かせようと言葉をかけ続けた。
「大丈夫だ。安心しろ。心配することは何もないだろう」
五分くらい経っただろうか。春樹は落ち着いてきて、すう、と息を吐いた。
「ごめん、伶」
「過呼吸なんて、二年ぶりくらいじゃないのか」
「克服したと思ってたんだけど」
「いや、今回は僕が悪い」
伶は立ち上がると、
「今日の昼食は、コンビニ弁当にしよう。ちょっと、買ってくるよ。その前に、ここ片付けるから、春樹は部屋行って寝てて」
と言った。春樹は辺りを見回して、自分が思った以上に暴れまわった事を悟る。割れた食器、開け放たれた冷蔵庫、散乱する潰れた卵と野菜の残骸、欠けた包丁……。
「いや、自分がやったんだし、僕が片付けるよ」
「過呼吸だったんだから仕方ないさ。また発作が出ても困るし。良いから寝てろよ」
確かに、立ち上がるのもやっとだった。
「ごめん、じゃあ、お言葉に甘えて……」
春樹は食器棚に手をかけ、ゆっくり立ち上がると、壁伝いに歩いて部屋へ向かった。まだ気分が悪い。顔でも洗おう。
春樹は洗面所に向かう。その時、ギラリという眩しい閃光が春樹を襲った。思わず顔を背ける。また幻覚か。しかし今度は、姿見が太陽の光を反射して映し出しているだけだった。その中で、やつれた顔をした痩せ細った男が小刻みに震えている。
―――誰だ!
一瞬驚いて、しかしすぐにそれが春樹自身であると悟った。
―――なんだ、驚くじゃないか……。
こんなに疲れた顔になってしまって。春樹は姿見に近づくと、自分の頬に触れた。今日の事が余程ショックだったのか、目の下にクマが出来ている。顔色も悪い。
はあ、と息をついた次の瞬間、姿見の中で、やつれた男がにんまりと不気味な笑みを浮かべた。春樹は、声も出ないまま、その男から逃れようと反対側の壁に張り付いた。やつれた男は、春樹であって、春樹でない。そいつは再び腰を抜かして床にへばりつく春樹を見て、声高らかに笑うのだ。奇声だ。春樹は耳を塞いだ。耳を塞いでもその声は、春樹の脳味噌に直接針のように通じてくる。
―――いやだ、やめてくれ、もう僕を苦しめないでくれ……。
がらがら、とドアが開いた。はっとそちらを見ると、伶が財布を取りに部屋に入るところだった。
「どうした、また発作?」
伶は心配そうに眉を歪める。
「いや……」
春樹は言い淀んで、それからもう一度姿見を見た。そこに映っているのは、脅え、腰を抜かしている間抜けな春樹自身だった。あの男はもう居ない。春樹はもう一度伶を見ると、
「なんでもない」
と誤魔化した。
「ならいいけど……」
伶は春樹と姿見を交互に見て、
「その姿見、もう古いし新しいのにしよっか」
と言った。それから、
「これからコンビニに行くけど、何がいい?お昼」
春樹は息を整えて、
「なんでもいい」
と平静を装って言った。
伶が家を出たあと、春樹はソファに横たわって目を閉じた。きっと、伶の事で動揺しておかしくなっているのだ。
伶の事を思った。
伶は、昔はもっと素直で、笑う少年だった。幼いころを思い出す。伶は正義感が人一倍強く、体が弱い春樹がいじめられないように、いつもそばにいて守ってくれていた。友達も多く、みんなに信頼されているようだった。
「そういえば、いつも一緒にいる女の子が居たっけ」
多分伶の妹か親戚か何かだろう。三人で遊んだ記憶もある。今の、伶と春樹と未鼓の三人のように。あのころは楽しかった。
伶が変わったのは、伶の両親が離婚し、そして伶の母親が伶を置いて出て行ってからである。両親の離婚の原因は、母親の浮気と、父親が母親に手を上げたことだ、と伶自身から聞かされた。伶の母親が伶を置いて出て行ったとき、本当は父親の方から、引き取りたいという要望が来ていた。しかし、伶はそれを拒絶した。母親に手を上げた男の元に戻る気はないと、幼心に考えていたのだという。その二つの事件を機に、伶は冷たい人間になってしまった。大人を信用しなくなった。友達すら、持たなくなった。
そして今日、大きな犯罪を犯した。
伶の起こした事件は許されることではない。しかし、そこまで伶が追い込まれていたのだとしたら……どうして自分は気付けなかったのだろうか。伶の近くに居ながらにして、どうして、伶の異常を察知し、止めてあげることが出来なかったのだろうか。
「伶、ごめんよ……」
いつの間にか春樹の目からは涙がこぼれていた。
大切な人を守ることが出来ない。僕はなんて、臆病で小さな人間なんだ。
帰宅した伶が買ってきたのは、インスタントのきつねうどんと醤油ラーメンだった。
「どっちがいい?」
「あ、じゃあ、うどんで」
「お湯、わかしてくる」
伶はキッチンの方へ足った。春樹は何気なく、テレビのリモコンに手を伸ばす。赤い電源スイッチを押すと、ブラウン管のブーンという音と共にテレビがついた。このご時世に、ブラウン管か。貧乏高校生にも程がある。
そういえば、未鼓とは仲がいいが、一度もお互いの家に行ったことがない。きっと未鼓は、綺麗な家に住んでいるんだろうな。春樹は想像を膨らませる。庭には花壇があって、部屋の中にはグランドピアノなんかがあったりして。二階建てか三階建てだ。テレビはもちろん、最新の薄型。でも未鼓は、テレビなんて見ないで、帰宅したらすぐに勉強するんだ。未鼓は伶と並んで、学年でも成績トップクラス。お嬢様で成績優秀。僕なんかとはつり合わない。春樹ははあ、と溜息をついた。もし今度、未鼓が「家に行きたい」なんて言ったらどうしよう。このブラウン管に散らかった部屋。見せられないなあ。それにはきっと、伶も同意するだろう。
テレビはついたが、まず光がきて、少し遅れて音が出る。ブラウン管テレビ独特のやつだ。春樹が妄想を膨らめている内に、ブラウン管から音声が発された。
『現在、現場上空です』
春樹はテレビを見た。通いなれた高校の姿が、そこにはあった。
『安全なはずの学校で何が』
右上に見出しが出ている。……伶の事件だ。
『発見された遺体は、バラバラに切断されており、今朝未明、この学校の体育教師が発見しました』
「お、ほんとに鷲島だった!」
頭上で声がした。お湯を沸かしに行った伶が、戻ってきていた。
「これ、テレ昼だよね?全国区じゃん!」
伶は嬉しそうだ。
「有名人だな!まあ、多分警察は僕を捕まえられないけど」
『犯人は未だ特定されていません。また、被害者に関する情報がただいま入ってきました』
おお、と伶は感嘆の声を上げた。
『被害者は、この学校に通う高校二年生、土田翔也さん、十七歳と判明しました』
きゅるるるる、とやかんが音を立てた。伶は立ち上がりながら「なかなか早かったね」と笑いながら言った。春樹は最早、感情を表現することが出来なかった。伶は何もなかったかのように、インスタントラーメンにお湯を入れる。
「顔だけは残しといたから、わかりやすかったのかもね、はい。春樹のは五分ね」
伶はキッチンタイマーを五分にセットすると、お湯がこぼれないようにゆっくりと、春樹の方にうどんを運んだ。春樹は目の前に用意されたうどんを見て、食べたくない、と思った。伶はテレビの方を見て、リポーターの話す内容を面白がって茶化している。
「通り魔じゃないって!通り魔がこんなに分解しないでしょ!」
笑い声が響く。五分にセットしたキッチンタイマーが、かちかちかちと音を立てながらその刻を削っていく。
命のタイマーは、いつ切れるかわからない。もしかしたら、土田の様に突然、停止スイッチを押されるかもしれない。
春樹は腹を抱えて笑う伶を見て、狂っている、と思った。
朝、爽やかでもなんでもないカラスの鳴き声で、春樹は目を覚ました。枕元にある目覚まし時計を見る。針は、まだ午前四時を少し過ぎたくらいを指していた。
春樹は、寝ころんだまま伸びをした。まだ眠いが、仕方ない。起きよう。今日は未鼓と伶との約束がある。殺人事件の次の日だというのに、ゲームセンターに遊びに行くという、とんでもなく不謹慎な約束が。
約束の時間には、まだほど遠い。しかし、二度寝を甘く見てはいけない。二度寝したら最後、春樹は伶が出発ぎりぎりになって起こしに来るまで、目を覚まさないだろう。寝癖がついたまま、想い人に会うのはごめんだ。
春樹は勢いよくベッドから跳ね起きた。その拍子に右手が当たって、目覚まし時計が宙を舞う。あっと春樹が手を伸ばす間もなく、目覚まし時計は床に落下し、がしゃん、という嫌な音を立ててあっけなく壊れた。あわてて駆け寄るがもう手遅れだ。時計の針は動いていない。針を保護する透明なプラスチック面は、粉々に砕け散っている。もう御釈迦だ。
それから、春樹は、今の音で伶が目を覚ましてしまったのではないか、と懸念した。伶は、寝るのも起きるのも、時間通りに行う人間である。春樹のように寝坊しないし、春樹のように、早く起きすぎることもない。つまり、今の耳障りな音が伶の睡眠の邪魔をしてしまったとしたら、伶は、必ず激怒する。
春樹は目覚まし時計の残骸を片付ける前に、伶の寝ているリビングを確認しようと思い、寝室のドアを開けた。同時に、そこからにょきっと何かが顔を出す。春樹は驚いて、一歩退く。春樹は緊張に襲われた。
「れ……伶」
「あ、春樹、おはよう。早かったね。なんだか大きな音がしたから来てみたんだけど」
伶は床を見て、
「随分と派手な起き方をしたみたいだね」
と笑った。怒っていないのだろうか。春樹は伶を部屋へ入れると、
「ごめん、五月蝿くて起きちゃった?」
と恐る恐る聞いた。
「いや、今日はなんだか眠れなくてね。早く目が覚めたんだ。春樹と一緒だよ」
伶はにっこりと笑った。
春樹は驚愕した。あの規則正しい伶が、こんな時間に起きるなんて。しかし、
「昨日の事件の興奮でね」
と言われて春樹は納得した。伶は春樹の横をすりぬけると、目覚まし時計の残骸に腰を下ろした。
「ああ、こりゃもうだめだね。新しいのを買わなきゃ。全く、昨日から買わなきゃいけないものばかりだよ。春樹、もうモノを壊さないでくれよな」
「ご、ごめん……」
「ちょっと袋持ってくるから」
伶は一旦部屋を出ると、キッチンからビニール袋を一枚持ってきた。残骸をひとかけらずつ、丁寧に袋へ入れていく。春樹は何も言えず、ただ茫然と立っているだけだった。見かねた伶は、
「春樹、ちょっとは手伝ったらどうだい。君が壊したんだから」
春樹ははっとしてしゃがみこむと、プラスチックの欠片に手を伸ばした。
「痛」
プラスチックは意外にもとがっていて、甘く手を出した春樹の人差し指を容易に切り付けた。血が滲む。
「おい、大丈夫か」
伶は春樹の手を取った。
「バカだなあ、寝ぼけてるのか。ほら、片付けは僕がやるから、絆創膏を貼ってきな」
「う、うん……」
春樹は肩を落とすと、部屋を去った。ああ。僕は何をやっても駄目だ。
リビングの棚から絆創膏を取り出す。それからふと、血が滲む人差し指に目を落とした。結構深く切ってしまったようだ。血は少しずつ、溢れ出ていた。
―――ドクドク、ドクドク……。
心臓の音と呼応して、血は、あふれ出す。
―――ドクドク、ドクドク……。
あふれ出た血は、ぽたり、とリビングの床に滴となって落ちた。滴は床に当たって弾け、辺りに飛散する。
春樹は傷口を見たまま、放心状態に陥った。心臓の音と血が滴る音が、まるで音楽を奏でているようだ。頭の中で、ピアノソナタの悲愴が流れた。
―――ドクドク、ドクドク……。
―――ポタリ、ポタリ……。
ピアノの音は次第に早くなり、それに合わせて鼓動も高鳴る。
―――ドクドク、ドクドク……。
―――ポタリ、ポタリ……。
身体が動かない。ただ悲しげな音色が、血の臭いに乗って春樹の身体を覆う。
―――ドクドク、ドクドク……。
―――ポタリ、ポタリ……。
瞬きすらできない。眼球が、身体が、乾いていく。
やめてくれ、やめてくれ!
春樹は心の中で必死に叫んだ。
突然、音が止んだ。リビングの入口で、伶がビニール袋を手に、春樹を見ていた。
「どうした、春樹」
それから、床に溜まった血だまりを見て、目を見開く。
「おい何やってんだ」
「いや、それが、ぼーっとしちゃって……」
伶はテーブルの上のティッシュペーパーを数枚とり、春樹の指に強く押し当てた。
「痛」
「がまんしろ。思ったより深く切ってたんだな。とりあえず、血が止まるまで押さえてろ」
それから再びティッシュペーパーを何枚かとって、リビングの床を拭いた。その伶の姿は、まるで殺人鬼では無かった。こんな小さな傷に慌てふためき、必死に春樹を守ろうとする。優しい心を持った、兄そのものだ。春樹は伶の大きな背中を見て、そう思った。
*
未鼓は目を覚ました。まだ暗い。早く起きすぎたようだ。それにしても、酷い夢であった。未鼓は上半身を起こし、額の冷や汗を拭った。
しかし、一体何の夢だろうか。未鼓の脳裏には、嫌な残像のみが残っている。土田翔也の死のショックによるものだろうか。
夢の中には、伶がいた。伶は、いつもとは違う、脅えた子供の様な目をしていた。息を切らして、切羽詰まった様子だった。何か、恐ろしいものを見たのだ。
その後は、もやもやしていてなんだかわからない。表現するなら、黒い海の中で、何かわからない残骸をひとつ残らず拾い上げるような、そんな作業を、伶はしていた。今思うと、あれは、血の海。
夢から逃れたい、と何度も思った。しかし、まるで金縛りのように、夢は、未鼓が目を覚ますことを決して許さないのである。
熱でもあるのだろうか……。
未鼓は溜息を吐くと、再びベッドの上に横になった。今日、いや、既に昨日になってしまったが、伶が、傷ついている未鼓を気遣って、ゲームセンターへ誘ってくれた。最初は気乗りしなかったが、その思いやりに、なんとか答えてあげたい。二人に心配をかけたくないのだ。
今日は楽しもう。その為には、今は寝ておくのが先決だ。
未鼓は目を閉じた。暗黒が彼女を覆った。




