三、
ざわめきが消え、静けさだけが残った教室。ついさっきまで、ここに居た生徒たちは皆、下校した後だった。
三人を除いては。
「ねえ」
上の空の伶が言った。
「死体、誰だったんだろう」
声がこだまし、再びしんと静まり返った。錆び付いて緩んだ水道の、ぽちゃり、ぽちゃりという音が廊下に響いている。夏はもうすぐだというのに、虫の声もしない。
未鼓は青ざめていた。先程の宮坂の表情が脳裏を過る。「土田がいない」と言われて彼女は明らかに顔色を変えた。
「そう言えば、土田がいなかったな」
伶は言った。春樹は少し伶を見、それから窓から見える体育館を見下ろした。ここからは何も見えない。つまり、事件現場は逆側なのだ。
「伶、今はそういう事言うのやめようよ。不謹慎だし、ほら、そろそろ帰ろ」
「ああ、悪かったよ」
いつになく伶が素直に謝った。すぐ傍で殺人事件が起きているのだ。流石に、少しは肝が冷えたのだろう。
未鼓は、何処を見ているのかわからない目を曇らせ、ただ黙っていた。繊細な少女なのである。彼女に、殺人事件なんてものは重すぎる事態だったに違いない。しかも、もしかしたら、被害者はクラスメイト。土田と喋っているところは見たことなかったけれど、気さくな未鼓なら、少しは思い入れがあるのかもしれない。ショックを受けるだろう。
「提案があるんだけど」
唐突に伶が言った。
「とても、面白い提案だよ」
まさかこの期に及んで、ゲームセンターに行こうなんて言わないだろうな。春樹は眉間に皺を寄せた。考えてもみろ。同級生が死んだかもしれない、それに加えて、日々のゲームセンターでの散財により春樹たちの財布は悲鳴を上げている。未鼓だって、こんなにも疲れた顔をしている。今日は、いや、今日以降数日は、大人しくして居るべきだ。
「なんだよ春樹、顔が怖いよ」
伶が笑った。
「いや。別に。面白い提案なんでしょ。聞かせてよ」
春樹はふん、と鼻を鳴らした。ゲームセンターに関することだったら、今の理屈を力説すればいい。未鼓も納得するだろう。
「僕の言う事だから、予想はついているだろうけど」
「ゲームセンターにはいかないぞ」
「違うよ、春樹、もっと面白いことさ」
「もっと面白いこと?」
「ああ。見に行くんだよ」
「見に行くって何をさ」
死体をだよ。
伶は時々突拍子もないことを言う。春樹はそれに散々振り回されてきた。今だってそうだ。単なる高校生、一子供の冗談だというのに妙に冷ややかで立体感がある。その所為で、ただの冗談が、冗談に聞こえない。
春樹はぞっと背筋が凍えるのを感じた。それを隠すように少し呆れ顔を作りながら、
「伶、冗談はやめてよ、こんなときに。子供じゃあるまいし」
「一応まだ未成年だし、子供だよ?春樹」
いや、そういうことじゃない。
このままでは、またいつものように、伶の呪文みたいな、暗号みたいな、面倒くさい長話につき合わされそうだ。それに、下校しなさい、と言われた時間はとうに過ぎている。
「とりあえず時間も時間だし、歩きながら話そうか」
未鼓も居ることだし、たまには大人っぽいところを見せないと。
春樹は「未鼓もそう思うだろ?」と言った。しかしそれとほぼ同時に、
「私、見たい」
虚ろな目のまま、未鼓は言った。顔をあげ、今度は声を荒らげて、
「私、見たい!」
その目は必至だった。ただ事ではない。春樹は思った。春樹は未鼓の肩を持ち、
「未鼓、まだ土田が死んだとは限らないし、未鼓疲れてるみたいじゃないか、今日はもう帰ろう」
「嫌!誰が死んだか、確かめるまで帰れない。私には、約束があるから……」
未鼓は春樹を振り払い、伶の方を見た。
「行きましょう、伶」
伶は冷ややかに微笑んだ。
―――春樹、未鼓はお前より僕を選んだぜ。
春樹の頭の中で伶の声がぐるぐると渦巻いた。
―――死体も見れないような弱っちい男、未鼓は嫌なんだってさ。
僕だって、死体くらい見れるさ!ただ、未鼓の事を思って言っただけなのに……。
春樹は肩を落とした。
「わかった、僕も行くよ」
伶は嬉しそうに笑った。
「そうこなくっちゃ」
未鼓を見た。死体を見に行くことが決まっても、嬉しそうでは無かった。ただ憂鬱そうな瞳は、何もない空虚を捉えているばかりだった。何か、苦しんでいるようだった。僕では救えないのだろうか。春樹の心は痛んだ。
「こりゃ、ひどいなあ」
地面に敷かれたビニールシートを捲り、男がひとり、溜息をついた。年齢はまだ若い、二十代後半から三十代前半と言った感じの黒髪で長身、猫背の男である。
「ここまでやるなんて」
白いワイシャツを第二ボタンまで開けて、スラックスを履いている。ほっそりとしたその腕はブルーシートを静かに元に戻した。辺りは様々な服装の、特に警官らしき服装やマスクをした人がたくさん居た。「現場検証」というやつだろう。
ハンカチを口に当て、顔をしかめる猫背の男に向かって歩いて来る、黒い丈長の上着。五十代後半だと思われる灰色の髪をしたその男は、中年という言葉よりも年配という言葉の方がよく似合う。猫背男の上司の様だ。年配の男は、気分悪そうに言った。
「すべてかき集めたそうだ。まだ見つかっていないところはあるか調べてくれ。……まあそれは冗談だ。志波君」
志波と呼ばれた男は、振り向いてお辞儀をしてから、苦笑いを浮かべた。
「よくも此処まで細かくしましたね。顔だけでも残っていてよかった。しかしどうしてこんなに細かくして放置したんでしょう。猫にやるわけでもあるまいし」
言ってからまたハンカチで口を隠して少し嗚咽を漏らした。
「まるで、残虐の塊だ」
この物々しい雰囲気と、今の会話からわかることは、その「死体」は、バラバラにされ、ビニールシートを被っている、という事だけである。伶は無言の内に笑みを隠した。昨日までは生きていた、ありふれた人間。これからは「バラバラ死体」という、昨日とは違う、“生き生きとした”アートとして人々の記憶の中に存在し続ける。ブルーシートの中にあるそれ。見てみたい、アートが陽の光にさらされ、真に輝く瞬間を。
「かき集めたってことは……死体は、バラバラ?」
未鼓は鼻と口を抑えながら小声で言った。
「最初に発見したのは、誰なのかしら」
「そんなの決まっているさ。神様が天罰を下したのは、散々僕たちの筋肉を傷めつけてきた体育教師、鷲島だよ。こんなところ朝っぱらから通るなんて、奴しかいないさ」
「あら、お気の毒様」
お気の毒、と言っている割に、労っているようには聞こえなかった。春樹も鷲島に痛めつけられた側である。元々の運動神経の悪さ故に、散々いびられてきた。このくらいの仕打ちはあって当然だろう。世界は平等にできている。
三人は殺人現場のすぐそばに身を潜めていた。現場は、体育館の横にある細道だ。今日の空は曇っている。その所為で、元からぬかるんでいたそこは余計にじめじめとし、春樹の新品だったローファーはあっという間に台無しになった。
泥で汚れたローファーに目を落とした春樹は、不意に罪悪感に襲われた。
人が死んでいるのだ。
もしかしたら、それはクラスメイトの土田かもしれない。
つい昨日まで、彼は生きて、笑っていた。
友達もたくさんいただろう。
もっと生きていたかったに違いない。
自分たちのしている行為は、その彼の“生”を踏みにじる行為だ。面白半分で彼の死にざまを見て、生きざまをないがしろにしている。まるで博物館で剥製を見物するかのように。
違う、彼は見世物じゃないんだ。
超えてはいけない一線を、今、僕たちは越えようとしている。
行ってはいけない。絶対に。
春樹は伶の肩を掴んだ。
「伶、やっぱり戻ろう。こんなこと、道徳的に反してる」
「今更何を言っているんだこれからが面白いところだろう、あ、だまって」
伶に制止され、春樹は口を噤む。同時に飛び込んできたのは、先程の志波と上司の声だった。
「志波君、私と君とは、昔からの仲だ。だから、君にだけ聞く。思ったように答えてくれ」
上司の声は囁くようで、なんだか聞き取りづらい。しかし、それが逆に現場に臨場感を春樹たちに伝えていた。
「はい、なんでしょう」
志波の返答から少し間を置いて、上司はさらに声を小さくして言った。
「犯人は、どんな人物だと思うかね……彼に恨みがあるとか、恋愛の縺れだとか……」
「いや、その線は薄いでしょう」
志波は即答した。
「恨みがある場合は、害者が苦しんで死ねばそれでいい筈。死んでからバラバラにするよりも、死ぬまで鈍器で叩き続ける、くらいの方が現実的です。あとは燃やすとか、塩酸をかける、とか……死因がわかってないので何とも言えませんが、そもそも、バラバラにするのには基本的に理由があるんです。例えば小さくして埋める、排水溝に流す、さっき言ったみたいに動物に食べさせて死体自体なかったことにする。死体を、殺人を隠蔽する為に、人は死体を分解するんです。あ、ちなみに人間は関節の部位が一番切りやすいからそこから切断することが多いんですよ。……余談でした。もう一つはサイコパス、所謂異常犯罪者って奴です。こういうのは分解した後の配置にアート性やメッセージ性を残しているものが多いんですが……うーん、写真の配置を見る限り、サイコパスじゃないですね。サイコパスに見せかけてるように見えなくはないですけど」
志波はひとしきり喋ると腕を組んで黙ってしまった。上司が詰め寄る。
「つまり、君は、何を言いたいんだい?隠すための分解でもない、サイコパスでもない。では死因を隠すため?」
「いえ……確かに、サイコパス性を感じなくはありません。僕が真っ先に着目したのは、この肉片の切り方です。粉々にされている肉片と、ぶつ切りにされている肉片。二種類あるように見えませんか?」
「確かに……」
志波はハンカチで鼻を抑えながらブルーシートに近づき、捲って上司に見せた。上司は眉を顰める。志波は一番近くの肉片を指さして言った。
「断面を見てください」
「断面?」
志波は小さくなった肉片の一つを指さした。
「この小さな方の断面は、骨まで砕いて、削るようにして刻まれているのがわかります。でもこちらの大きな肉片、これは関節の、切りやすいところを一気に断ち切ったように見えません?」
上司はうーんと唸る。志波は続ける。
「見た瞬間分かりました。犯人は途中までは、この死体を骨ごと刻み続けた。でも途中から、骨を断つのを断念しています」
「それじゃあ例えば、サイコパスが犯行の途中、正気に戻って犯行を続けたとか、面倒になって切り方を変えたとか、そう言う風に君は考えているのかな?」
「その可能性が一つ、それともうひとつは……」
ブルーシートとは距離があって、最早二人の会話は殆ど聞き取れなかった。周りもせかせかとしていて、いつこの潜入がばれるかわからない。
「おい、伶、そろそろやばいよ」
「何言ってんだ、これから突入だぜ」
「はあ?」
「ブルーシートの中を見るのさ!」
「そんなのおかしい!狂ってる!」
「何とでも言えよ」
言い争う二人の後ろで、未鼓はハンカチで口と鼻を覆いながら、涙目を浮かべていた。それからやっとの思いで春樹のワイシャツを引っ張る。
「どうしたの?未鼓」
春樹……!
それに、伶も……!
「……ふたりとも……おかしいわ」
未鼓は絞り出すように言った。春樹は苦笑いする。
「なんだよ、来たいって言ったの未鼓でしょう」
……ち、違う……。
「ねえ、伶、未鼓も帰りたがってる。もう帰ろう、諦めよう」
未鼓は二人の声が遠のいていくような気がした。どうしてだろう、おかしい、二人ともおかしい。どうして、平気なのだろうか。未鼓は立っているのもやっとだ。そのくらい酷いのだ。
この場所の臭いが。
「おい!誰かいるぞ!」
声がした。
見つかった!春樹は血の気がさーっとひいていくのを感じた。伶は動こうとしない。未鼓も、顔を俯けたきり、ぼーっと立ちすくんでいる。
「ふたりとも、逃げなきゃ」
「なんで逃げなきゃいけないんだ。目的が折角果たせるというのに」
伶はにんまり笑った。怖かった。
少しして、数人の警官たちが三人を囲った。
「君たち、ここの生徒だね?」
「だったらなんですか?」
「下校しなさいと言われなかったかい?」
「言われました」
「じゃあなんで帰らないんだ!」
「死体が見たいんです」
伶が言った。その声は、志波と上司の耳にも届いていた。志波は上司に踵を返すと、声のする方へ向かった。高校生三人が、警官と言い合いをしている。志波は割り込んで言った。
「誰だ今、死体を見たいとか言った奴」
伶が手を上げる。
「僕です。興味があって。それに話盗み聞きしてたら、バラバラだって言うじゃないですか。サイコーのスリルですよ」
言い終わるか終らないか、志波は伶の胸倉を掴んでいた。
「死体なんかいつでも見れる。人間いつか死ぬんだ。でも今回のひとは違う。まだ続くはずの命の球を誰かに無理やりむしりとられてしまったんだ。もう二度と、死者を冒涜するようなことは言うな」
「あれぇ、大の大人が子供の冗談本気にしちゃって。嘘ですよサイコーのスリルだなんて思ってません。僕は真剣に、死体が見たいんです」
「ふざけるな」
胸倉を掴む志波の手に力がこもる。その時、志波の上司が志波の肩に手を置いた。
「志波君、そのくらいに」
言われて志波は、伶を睨み付けながらぶっきら棒に突き放した。伶は一歩後ろに引きながら、尚も動じることなく、乱れた襟元をさっと直した。
「羽鳥と言います。刑事です。どうやら、この事件の担当になりそうでね」
伶は「どうも」と名刺を受取った。
「こちら志波。僕の助手です。先程はすまなかったね。彼の代わりに謝罪します」
羽鳥は頭を下げた。志波は尚も伶をにらんでいるようだった。
「学校でこういう事件が起きて、気が動転しているのでしょう。目撃情報など、なんでもいいです、ありましたら連絡ください」
「そういうのはいいんですけど、死体を」
言いかけた伶を押しのけて、後ろにいた未鼓が躍り出た。
「同級生かもしれないんです。大事な人かもしれないんです。初めてできた友達なんです。お願いします、顔だけでも、顔だけでも見せてください」
それから未鼓はハンカチで口を押えて嗚咽した。辺りに漂う只ならぬ腐臭。未鼓の身体は最早それに耐えきれなくなっていた。
「御嬢さん」
羽鳥は未鼓に歩み寄ると肩に手を置いた。
「夕方には身元もわかるでしょう。今はお力になれません。どうか、我々を信じて、大人しく帰宅してはいただけませんか」
未鼓の右目から涙がこぼれた。春樹は後ろから未鼓を支えると、伶の裾を引っ張って
「おい、行くぞ」
と声をかけた。
伶は最後まで、志波と目をそらさぬままだった。お互いにお互いが見えなくなるまで、ずっと睨み合っていたようだ。羽鳥は志波の肩に手を置いた。
「長く生きているとね、ああいう高校生の一人や二人、いるもんだよ。そんなにムキにならなくても」
「違うんです羽鳥さん」
志波は尚も三人が去っていった方向をにらみながら言った。
「あの三人、違和感を感じます。特にあの少年、伶、と呼ばれていた彼、彼は重大なにかを」
そこで一息呑んだ。
「隠している」
*
向かい風に逆らいながら、春樹は重い足を引きずるようにして歩いた。風の抵抗が、春樹の沈んだ心に更に追い打ちをかける。
帰り道、三人は未鼓を挟んで並んで歩いていた。春樹は下を向いたまま、先程のあの緊張と絶望を思い出してた。志波の眼光、羽鳥の呆れきった顔、馬鹿な伶の冷ややかな眼差し、頬を伝う未鼓の涙……。今日はなんて最悪な日なんだ。春樹は溜息をついた。
「見せてもらえなかったなあ、死体」
伶は「ちぇっ」と舌を鳴らしながら言った。
「ケチだよな。あの後あの死体はすぐ片付けられちゃうんだぜ。ほら、道端でタヌキが死んでたら役場の職員がすぐやってきて、次の日にはもう跡形も残ってないだろ。あれと同じさ。今日だけが死体を見るチャンスだったのに。大人って本当にケチだ。もしかしたら一生に一度きりかもしれなかったんだ。ああ、残念だ」
春樹は伶を睨み付けた。
「伶いい加減にしろよな。人間を、道端のたぬきなんかと一緒にするなよ。人を馬鹿にするのにも程があるし、死者を冒涜するのなんてもってのほかだぞ。君と志波さんがつかみ合ってるとき、後ろでハラハラしてた僕の身にもなれよ。寿命が十年は縮んだ」
「ハラハラじゃなくて、ビビッて動けなかったんだろ」
「違う!それに、誰だってあんな状況になったら動けなくなるさ。特に僕みたいに、気の小さい男はね」
「やっぱりビビッてたんじゃないか」
伶は面白そうに笑った。こいつには、何を言っても無駄だ。何処か頭のネジが外れているに違いない。
春樹に背中を支えられながら歩いていた未鼓は、ハンカチを丁寧に整えると、鞄の中にしまった。それから春樹の腕に触れると、
「春樹、ありがとう。もう大丈夫よ」
と言った。
「でも未鼓、まだ具合が悪いんじゃ」
「いえ、自分で行きたいって言ったんだもの。自業自得よ」
春樹は未鼓から手を放した。
「……土田、未鼓と仲良かったっけ」
聞いちゃいけないかな、と思いながら、しかしどうしても気になって、春樹は未鼓に尋ねた。未鼓は小さく頷くと、
「私を、今の私にしてくれた人よ」
と言った。それから土田との出会いと、今に至る経緯を語る。春樹はそれを聞いて、意外だなあ、と思った。土田と言えば、金髪で学校一の不良だ。不良と言っても、喧嘩をしたりとかそういう事は聞かないけれど、成績は良くないし、先生たちからも諦められていて、他の同じような――髪の毛の色が奇抜だったり服装が派手な――生徒たちとつるんでいたイメージしかない。そんな彼が、未鼓に友達を与えて、今の明るい性格にした功績があるなんて、本人の口からきいても容易に信じることは出来なかった。
「喋ったことないから、不良だと思っていたけど、本当は良い奴だったんだね」
「ええ。彼、不器用なの」
“不器用なの”と現在形で喋っているところを見ると、未鼓はまだ土田が被害者だとは思っていないみたいだ。勿論春樹も、クラスメイトから死者が出ただなんて思いたくはない。しかし、なんとなく土田の魂が、もうこの世界にはないんじゃないか、そんな気がしてならなかった。
「未鼓も不良とつるむこともあるんだ」
伶が言った。
「彼は不良なんかじゃないわ」
未鼓は伶をにらんだ。
その後は、暫く無言で歩いた。春樹は、濁った曇天を見上げながら、今にも雨が降りそうだ、早く帰らなければ、と思考を巡らせる。特に未鼓は、バス通いで帰宅まで時間を要す。途中で雨が降らなければいいのだが。
別れのバス停まで来た。バスはあと五分で来るようだ。
「なあ、明日三人で遊ばないか」
伶が言った。
「遊ぶって」
抗議しようとする春樹を遮って、
「だって、折角休みなんだぜ。なあ、未鼓。どうせ暇だろ」
と未鼓の肩に手を置いた。
「……そんな気分じゃないわ」
「だからこそさ」
伶は笑った。
「暗い気持ちの時こそ、明るくいなきゃ。未鼓の好きなゲームセンターにでも行こうよ」
「でも犯人が捕まるまでは大人しくしろって、先生が言ってたじゃないか」
「三人でいれば平気さ、な、未鼓」
未鼓は少し目を泳がせてから、ふう、と息を吐いた。
「……わかった。明日、朝十時ね」
「おっ、そうこなくちゃね」
伶は満足げに笑った。春樹は不快だった。未鼓が嫌がっているのに、無理やり連れ出そうとしているみたいで、気が乗らなかった。しかし、もしかしたら、伶なりに、未鼓を元気づけようとしての提案なのかもしれない。そうだとしたら、春樹も反論のしようがない。
ゴー、という重低音を響かせながら、バスが来た。未鼓はバスに乗り込みながら、振り返り、
「明日十時。遅刻は許さないわよ」
と、まるでいつものように笑って見せた。
未鼓が席に着くと、バスは出発した。二人は未鼓に手をふる。明日、未鼓が今みたいに笑っていてくれればいいな。春樹は胸の内で静かに思った。
未鼓と別れたあと、二人はいつもの帰り道を、スローペースで進んでいた。流れる沈黙は、まるで今日の天気のように、はっきりとしない、居心地の悪いものだった。
伶はこの事件に想いを馳せていた。ブルーシートからはみ出したおびただしい量の血は、この犯行の残虐性を物語っている。きっと今頃、全国のニュース番組はこの事件でもちきりだ。死体が陽の光を浴びるのを見ることは出来なかったが、日本中にこの死体と犯人の存在が周知されることは、なんとも喜ばしい。
重苦しい空気に耐え切れず、最初に沈黙を破ったのは春樹だった。
「ねえ、伶、そういえば今日の料理当番は僕だね。何食べたい?って言っても、冷蔵庫の中にあるもので作るしかないけどさ、スーパーすぎちゃったし」
「なあ、春樹」
声をかぶせるように伶が言った。
「な、何だよ」
春樹は肩をすくめた。折角気を利かせて言葉をかけたというのに、伶は自分勝手に別の話を始めようとしている。
今日伶は、死体を見せてもらえなかった上に大人に説教を喰らった。伶は両親を失ってから、大人を毛嫌いしている節がある。先程の志波とのやり取りから感じた殺気。あれはまだ払拭されていないだろう。きっと今の伶の心理状態は芳しくない。また「大人ってのは」から始まる愚痴でも聞かされるのだ。多少気分は悪いが、伶は怒ると面倒くさい。今は安全策として、伶のペースに巻き込まれてやることにした。
「実は今日、死体を見たいって言ったの、嘘なんだ」
「え、どういうこと」
「本当は、死体を見たいなんて、思ってなかったんだよね」
ああ、なんだ、そんなことか。長々と愚痴を聞かされると思っていた春樹は拍子抜けしてしまった。そりゃあ、そうだ。死体を見たいなんて幼稚な発言、伶らしくない。冗談で言ったことが、未鼓の様子から引き返せなくなり、仕方なく、未鼓と春樹へのかっこつけの為に、先頭立って現場に赴いた。きっとそんなことだろう。
「なんだ、心配して損したよ」
春樹は頬を緩めた。
「子供じゃあるまいし、わざわざ野次馬に行こうなんて、やっぱり冗談だったんだね」
「いや、そういう事じゃないよ」
左手を春樹の顔の前にひらりと散らして、伶は言った。
「見たくなかったとか、冗談で言ったとかじゃなくて、一番近い言い方があるとしたら“見る必要がなかった”かな」
「見る必要?」
誰だってないだろう。未鼓みたいに誰なのか確かめたいというなら検死を待てばいいし、グロ画像が見たいならネットで検索すればいくらでも出てくる。
「どういうこと?」
言いながら春樹は、伶と志波のやり取りを思い出していた。死体を見たかったわけじゃない、というのなら、きっと伶は単に大人をからかいに行ったのだろう。そういうことか。伶は大人をからかいたいがために死体を見たいと言ったのか。
伶はそんな幼稚な人間だっただろうか。
「だから、見る必要がなかったんだよ、知ってたから」
「知ってたから?」
伶は革のスクールバッグを徐に開くと、その中からコンビニの印刷機に設置してある簡易的な写真用の封筒を取り出した。
「うん、知ってた」
春樹は伶からそれを受取ろうとして失敗した。手が滑って、写真はコンクリートの上にかさりと落ちた。
「あ、ごめん」
しゃがみこみ、散らばった写真を集めながらもう一度伶に聞く。
「何を知って……」
はっとした。手に取った写真は、唯の写真ではなかった。これは、何処かで見た場所を映し出している。何かが散乱しているようだ。
近くで見ようとした春樹は、それが何か分かった瞬間、胃から逆流してくる汚物を抑えることが出来ず、写真を持ったまま路肩に吐いた。気持ちが悪い。
写真の真ん中にあったのは首だった。生首が、地面に直立して、こちらをみている。その周りに配置されているものは最早何なのかわからない。細道一帯を埋め尽くすように、どす黒い塊が散乱していた。手があった。右手なのか左手なのかわからない。ただどの指も、第一関節が切り取られて断面から骨が見えていた。
おえ……。
春樹の嗚咽が辺りに響く。もう何も出てこない。
「なんだよ春樹」
伶はあろうことか声をあげて笑った。
「君には刺激が強すぎたかい」
春樹は汚れた唇を拭うと、伶をにらんだ。
「撮りに行ったのか……その写真」
誰かに発見される前に撮られた写真であることは明らかだ。たまたま通りかかった伶が第一発見者となって……それにしても写真を撮るなんて、いかれてる。
伶はもう一度高らかに笑った。
「違うよ、違う。撮りに行ったんじゃないよ、写真はついでさ」
「ついで?」
理解が出来ない。脳内の思考回路が追いつかない。春樹ははっとして、気分の悪さも忘れて落とした写真を見た。十枚ほどあるその写真、一枚一枚を食い入るように見る。顔面のアップ写真。片目が無かった。小川の石ころたちを撮影するように撮られた小さくて歪な肉片たちの写真。そして、何か大きな肉片を、左手で持って撮影された写真……。
「触ったのか……?」
「ああ、それは心臓だよ」
理科の授業で見るのと現実に見るのだとちょっと違うな、と伶は笑った。
「現実で見る方がピンク色できれいだったよ」
―――こいつは死体に触っても平気なのか……!
春樹はまた吐かないように、口を押えて写真から目を背けた。伶がちょっと冷徹でぶっとんだ奴だということは知っていたけれど、ここまでやるような外道だとは思わなかった。
「どう、なかなかよく撮れているだろう」
「バカなこと言ってんじゃないよ!自分がなにしたかわかってんのか!これで君が疑われたらどうするんだ!」
尚も目をそらしたまま、春樹は身体が熱くほてっているのを感じた。憤りを感じる。
「疑われる?そりゃあ、願ってもないよ」
「……なに?」
春樹は伶を見上げた。太陽の光を背負って、伶の顔はどす黒く、悪魔の様だった。
「きれいに出来てるだろう?僕のアート」
伶は、その白い歯をむき出しにして不気味な笑いを浮かべた。春樹は言葉を失った。
―――アートって……僕のアートって……。まさかこいつが、伶が……。
「そうだよ、これでわかったろう、僕の本性が」
伶は間髪入れずに言った。
「僕が土田翔也を殺して、この美しいアートを作り上げたんだ」
春樹はコンクリートの道端にしりもちをついた。動けなかった。体が小刻みに震えているのが分かった。かちかちと歯が鳴る。怖い。目の前に居る友が、今や友ではなくなっていた。
殺人鬼は尚も狂ったように笑い続けた。
「日本中が、いや、世界中が僕のアートに注目するんだ」
両手を広げて、殺人鬼は春樹を見下ろした。きらりと光る左目が、春樹の心臓を鷲掴みにしているようだった。鷹に捉えられた獲物のように、春樹は動けなかった。
「さあ、春樹、家に帰ろう」
それから殺人鬼は、右目に微かに伶の面影を残しながら、春樹に手を差し伸べた。
「勝利の美酒に、酔いしれよう」




