二、
夕焼けが美しい秋の帰り道、二人は出会った。
ほんの些細な出来事だった。
しかしこの出会いが、未鼓を変えた。
未鼓は目を閉じて思い出す。
当時高校一年生だった未鼓は、入学して半年も経つというのに、友達が居なかった。登校もひとり。昼食をとるのもひとり。帰り道も、勿論ひとり。
今日もひとりで帰る。
寂しいと思ったことは無かった。いや、思わないようにしていた。友達というのは面倒な存在だ。何かと気を遣わなければいけないし、時には自分の欲望を抑えて行動しなければならない。友達なんて、居なくてよかった。自由でいられるもの。未鼓はふと孤独を感じる時、そうやって自分に言い聞かせた。それに……。
同じクラスの女子たちの笑い声が聞こえる。全員作り笑いだ。本当の自分を隠して、相手の話につじつまを合わせるような自分を作って、「トモダチ」という麻薬に依存して孤独を癒しているのだ。
そんなもの、私にはいらない。
未鼓は本を開いた。中学生の時から何度も読み返している、古い本。誰かと言葉を交わすより、本を読んでいた方が、どれほど楽しいだろう。小学生のころからそうだった。活字は小さく、歩くたびに揺れる。目に悪いと分かっていても、どうしても読まずにはいられない。
この本の内容はこうだ。ある女性に一人の男性が恋をする。同時に男性の親友までもが彼女に恋をする。次第に二人は争うようになり、二人とも死んでしまう。最後は後を追うように、残された女性も自ら命を絶つ。愛という大罪を犯した罰として、胸に十字架の刻印を刻み付けて……。
美しい物語だと未鼓は思った。特に、女性が自ら十字架を胸に刻み込むシーン。その痛みに耐え抜くことが出来る程、二人の男性は女性にとって大切な存在であり、そしてそれを失って生き続けていくことは、辛いことだったのだろう。
もがき苦しみながら、十字架を胸に刻み込む、クライマックス……。未鼓はストーリーに飲み込まれた。
その時突然、路地から男が飛び出してきて、未鼓を跳ね飛ばした。大きな衝撃だった。本は手から離れ、宙を舞う。――待って――手を伸ばしても、未鼓の小さな体は抗えない。
きっと一瞬の出来事だったのだろう。未鼓は数メートル吹き飛ばされ、地面にたたきつけられた。意識が遠のいていく。沢山の顔が、未鼓を覗き込む。どれも歪んで見える。
―――あのあと、あのひとはなんて言ったんだっけ。
未鼓は薄れゆく意識の中思った。
―――ああ、神よ、私たちをどうかひとつに……
「歌山!」
身体が強く揺さぶられた。視界が少しずつはっきりしてくる。
「おい歌山!しっかりしろ!」
茶髪……いや、最早金髪に近い少年が未鼓を見下ろしている。何処かで見たような顔だ。これが、走馬灯?私は死ぬの?
バシッと強く頬を叩かれた。
「痛っ」
そこで意識がはっきりとした。未鼓は、金髪の少年の腕の中で横たわっていた。そうだ、今誰かとぶつかって……。
「歌山、大丈夫?救急車呼ぶ?」
未鼓は身体の至る所をとりあえず触ってみた。幸い、無傷のようだ。
「いいえ、大丈夫です……なんか、丈夫な方だから」
「ほんとか?てかひでえよな!女の子跳ね飛ばしといてあいつ逃げたんだぜ!」
「あいつ?」
「歌山とぶつかった奴」
そうか、やっぱりぶつかってたんだ……。顔は見ていないけれど、男の人だった気がする。
私は本を読んでいて……。
――――――――――!
頭の中が弓で射られたようにはっとした。そうだ、私は本を読んでいた。本は、何処へ行ってしまったのか。
未鼓は立ち上がろうとして眩暈を覚え、再び少年に支えられた。
「お前、やっぱ救急車呼んだ方が」
「いや、違うんです!本が、読んでた本がなくなっていて、それで!探さないと!」
未鼓は少年の制止を振り切り、今度はしっかり立ち上がった。
「大事な本なんです。友達代わりなんです。あの本がないと、私、生きていけないんです」
そこまで一息に言い切り、人混みの中に戻ろうとする未鼓の腕をぐいと少年は掴んだ。
「あの、本って、このぼろいやつ?」
未鼓が振り向くと、少年は微笑みながら、顔の横で文庫本を人差し指と親指だけでつまんでひらひらと揺らめかせた。
「値打ちもんだったりしたらいいなあ、と思って、騒ぎに便乗して拾っといたんだけど、なんだ、歌山の“友達”か」
「それです!」
未鼓は本に飛びつくと、飼い猫を労るように抱きしめた。
「よかった……。これでクライマックスがまた読めるわ」
少年はその様子を見て、少ししてから吹き出すように大笑いした。腹を抱えて笑っている。未鼓は、ああ、と赤面した。本に依存するオタク少女だと思われたのだ。何のとりえもない、本を読むことしかできないオタク。しかもその所為で、こんな迷惑ごとに巻き込んでしまって……待てよ。この少年、笑っているのではなくて怒っているのではないだろうか。金髪に、単ランボンタン……ちょっと古いけれど、この格好は所謂不良のする代表的なものだ。もしかしたら周りに仲間がいたりして……。
「歌山って」
未鼓が青ざめながら脳内で思考を巡らせる。それを見て、笑いをこらえながら、少年が口を開いた。
「やっぱ変わってるね」
「あ、え、ええと」
どうしよう、どうしよう。そういえば、この少年にまだお礼も言っていない。
未鼓は混乱する脳内を落ち着けることが出来ないまま、勢いよく少年に向かって頭を下げた。
「助けていただき、本当にありがとうございました!本も、本まで救っていただき、まことに感謝申し上げます!」
「あの~」
少年は未鼓を覗き込みむ。
「あの、顔あげてくれないかな」
未鼓は恐る恐る体制を元に戻す。少年は、苦笑していた。
「もしかして、俺の事、わからない?」
「え?あの、何処かでお会いしたことがありましたでしょうか」
少年はばつが悪そうに頭を掻いた。
「実は、同じクラスだったりして」
二人の間に沈黙が走った。
未鼓はこの時初めて、人見知りを克服するのを諦め、他人の顔を見ないようにして生きてきたことを心から悔いた。同時に、彼が恐ろしい不良では無く、ただのクラスメイトだったことに安堵した。
「ご、ごめんなさいっ。私、昔から人の顔を覚えるのが苦手で」
「いいよ、わかってる」
少年はそうは言ったが、少し残念そうに見えた。
「でもよかった。歌山、意外と面白いし、ちゃんと喋れるし、友達も作ろうと思えばすぐできそうじゃん」
未鼓は下校途中で見たクラスメイト達を思い出し、下を向いた。
「私には、無理ですよ。見た目も陰気だし、話も面白くないし、テレビ見ないし、本しか読まないし」
「大丈夫、大丈夫。少なくとも、話は面白い。見た目も、上向いてれば陰気じゃない」
少年は未鼓の肩に手を乗せた。
「歌山、俺を友達第一号にしてくれないか?」
「へ?」
未鼓は目を丸くした。こんな金髪で、悪そうな顔して、友達になってくださいなんて、この後、悪の組織とか出てきたりして。それとも、ただ子供っぽいだけだろうか。
「だめかな?俺」
一息ついて、少年は少し寂しそうな顔になった。
「お前がクラスに溶け込めてないんじゃないかって、ずっと心配してたんだぜ」
「え」
衝撃だった。
「関係ないじゃないですか。私、別に寂しくないですし」
「関係大有り。歌山、桜って、きれいだろ?」
季節はずれなことを言うなあ、と未鼓は思った。今は紅葉がきれいな季節だというのに。
「桜って、花弁ひとつだけじゃ、全然きれいでもなんでもないじゃん。五片そろって、そしてそれがたくさん咲いて、一つの“さくら”になるんだよ。一つも欠けてちゃいけない」
それから空を見上げて、
「クラスが一つの桜の木だったらさ、お前は一つの大事な大事な花弁なの」
未鼓は少年の顔を見つめた。不良だと思っていた少年の瞳は穏やかで、なんとなく、この人なら信用できる、と未鼓は思った。
「友達第一号、なります」
「おっ、美人歌山の友達第一号、もーらい」
夕日に照らされて、少年の表情は絵画のように未鼓には映った。
「あの、な、なんて呼べば」
「あー翔也でいいよ」
「翔也」
生まれて初めて、友達の名前を呼んだ気がした。
「歌山、友達第一号から早速だけど宿題な」
翔也は言った。
「明日、クラスの女子、誰でもいいから声かけて、一緒に弁当食べるんだ。一人で食べてたら承知しないぜ」
「わ、私にできるかな」
翔也はまっ白い歯をむき出しにして笑った。
「できる。大丈夫」
翔也はそれから左手の腕時計に目を落とした。
「やべっ!病院の時間!」
未鼓が何か言おうとするのを待つことなく、翔也は走り出した。
「じゃあな!歌山!また明日!」
沈む太陽のオレンジの中で翔也がだんだん小さくなっていく。
「ありがとう」
未鼓はボロボロの本を抱きしめながら、小さな声で言った。
翌日の昼。未鼓は教室の隅で、一人きょろきょろとあたりを見回していた。
どんな人なら、私を受け入れてくれるだろうか。
未鼓の心の中には、義務感と不安のみがあった。昨日、初めてできた友達である翔也との約束、それを守ることが未鼓に課された使命であって、しかしそれを果たそうとすることは、心に大きな傷を負うかもしれないというリスクを併せ持っていた。
目の前を、茶髪で巻き髪、長身の少女が横切る。だめだ、この人はきっとだめだ。完全なる「イケてる組」だ。未鼓は首を振った。
想像する。
『あの、一緒にお弁当を食べてくれませんか?』
未鼓が言うと少女は、冷ややかな目で未鼓を見下す。
『は?誰があんたみたいな陰気なやつと食うかっての。弁当がまずくなるでしょ』
―――だめだ。
未鼓は溜息をついた。
その時、突然背中に衝撃を感じた。気付くと、前のめりになって、あろうことかその少女に突進している。自分でも何が起きたのかわからなかった。しかしどうやら、今自分は、茶髪巻き髪のイケてる女子の上に馬乗りになっている、という最悪な状況に陥っているようだ。未鼓は、顔面蒼白になった。ああ、いじめというものはこうやって始まるんだ。未鼓は現実から目をそらすように、目を閉じた。
「歌山さん!大丈夫?」
「え」
歌山さん?未鼓は恐る恐る目を開ける。このようなイケてる少女が、この学校で最もイケてない未鼓の名字を知っている筈がない。
少女は未鼓の肩を両手で優しく掴むと、もう一度言った。
「歌山さん、大丈夫?顔真っ青だよ」
「えっ、あっ」
未鼓が何も言えずにいると、少女は立ち上がり、未鼓の背後をギラリとにらんだ。
「ちょっと!土田!あんたねえ、歌山さんにちょっかい出してんじゃないわよ。歌山さん、華奢なんだからね、あんたと違って」
「おめーとも違ってな」
土田と呼ばれた少年は悪戯に笑った。
「なんですって!」
少女は顔を真っ赤にして拳を振り上げる。
「ま、待って待って」
未鼓は少女の拳が握られている方の手を優しく掴んだ。
「悪気は、ないよね」
振り向くと、昨日の笑顔があった。翔也は未鼓にウインクすると、
「じゃ、鬼婆にやられる前に逃げますか」
と、幼稚な台詞を吐き捨てて廊下を駆けて行った。
少女は、はあ、と溜息をついて拳を下ろした。
「歌山さんが優しいからよかったけど、あたしなら一発いくけどね」
それからしゃがみこみ、まだ腰が抜けて動けない未鼓の肩に手を置いた。
「ごめんね、歌山さん。うちのクラスの男子、みんな馬鹿だから。特にあいつ。歌山さん、気を付けなよ。いつも大人しいから、ああやってふざけた奴にちょっかい出されるの」
少女は微笑むと、立ち上がり、未鼓に背を向けた。少女の微笑みは、その風貌からは考えられないくらい、天使だった。
未鼓は唐突に思った。この絶好の機会を逃すわけにはいかない。翔也が作ってくれた、絶好の機会を。
「あっ、あの!」
思わず叫んでいた。少女が立ち止まり、振り向く。
「なあに」
未鼓は、この五月蝿い教室の中で自分の声が聞こえなかったらどうしようと思い、立ち上がって一歩少女に近づいた。
「あの……お昼、一緒に……あの、えっと」
うまく言えない。未鼓は下を向いた。しかし、ここで負けてなどいられない。翔也と、友達第一号と、約束したのだ。
未鼓は胸に手を当て、今度ははっきりと言った。
「お昼、一緒に食べてくれませんか」
「はっ!マジですか」
少女は目を見開いた。未鼓は肩を落とす。やはり、だめだったのか。先程の想像が頭をよぎる。
突然、少女は未鼓の肩を強い力で掴んだ。未鼓は驚いて少女を見る。
「ぜひぜひ、てか、こっちからおねがいしますみたいな!」
今どきの言葉だ。語尾に「みたいな」がつく。未鼓は、そういう言葉にはあまり慣れていなかった。しかし、どうやらこの少女が未鼓の申し出を受け入れてくれたようだという事は理解できた。
少女は目を輝かせているようだった。未鼓を教室の真ん中へと誘導すると、「イケてる組」の女子たちが一斉に未鼓を見た。
「うちら、真ん中で食べてんの。歌山さん、うるさいの苦手かな。うちらうるさいからさ、うざかったらうざいって言ってね」
うざいなんて、とんでもない。未鼓は大きく首を振った。
「あ、あの、よろしくおねがいします」
未鼓が頭を下げると、少女は口を大きくあけて笑った。奥にある銀歯がきらりと光った。
「歌山さん、絶対どっかのお嬢様だよね。てか社長令嬢ってかんじ。うちらみたいな庶民と言葉交わしてくれるんですか、マジラッキー、みたいな」
「マジ?歌山さんうちらと弁当食べてくれるわけ?」
「咲良何やったの!スゲーじゃん」
外国語である。この言葉に慣れるまで、暫く時間がかかりそうだ。しかし、少女たちは未鼓を歓迎しているようであった。未鼓は心が温かい何かで満たされていくのを感じた。今日から一人で弁当を食べることも無くなる。
未鼓は、自分はやはり寂しかったのだ、という事に気付かされた。友達なんていらない、そう思っていたが、新しく自分を受け入れてくれた同世代の少女たちの肌の温もりを感じる度、未鼓は自然と笑顔になった。
ふと、廊下に目をやる。ドアに寄りかかりながら、翔也がこちらを見ていた。未鼓は思わず口端をあげ、翔也に微笑みかけた。これが「嬉しい」というものなのだ。嘘偽りのない、人間の本当の姿なのだ。
こうして未鼓には友達が出来た。
そんなある日の事であった。
雲が空を覆う。未鼓は曇天に少しの偏頭痛を感じながら、窓の外を見て溜息をついた。
空に浮かんでいる雲たちは、皆不気味な灰色をしていた。去っていった雲を追うように、次の雲がまた空を覆う。時たま顔をのぞかせる太陽も、悲しげな表情で、何も言わず、静かに未鼓を見下ろしていた。
クラスにはすっかり馴染んだ。友達も出来たし、だからと言って自分に嘘を吐く生き方をしているわけでもない。充実した学生生活とはまさにこのことだろう。
ただ、今日は少し、嫌な予感がしていた。
放課後、未鼓は翔也に呼び出された。そこは体育館とプールの狭間に位置する、暗くて陰気な雰囲気のじめじめと湿った通路である。何故こんな人気のない場所に呼び出されたのか、未鼓には予想もつかなかった。おろしたてのローファーが、ぐちゃぐちゃの泥に汚染されて、見ていられない。
奥には、既に翔也がいた。翔也は体育館の外壁にもたれかかりながら、目を瞑っていた。眠っているのだろうか、いや、こんな不快な場所で眠るような人間はいない。
「翔也」
未鼓は首を傾げながら、小さな声で言った。翔也は静かに目を開ける。それからすぐに未鼓を見つけると、優しい微笑みを浮かべた。
いや、違う。未鼓にはわかった。翔也は、笑っていない。
未鼓は眉を顰めた。
「こんなところに呼び出して。おろしたてのローファーが台無しじゃない」
「ああ、悪い。まさかこんなに地面がぐっちゃりしているとは思わなくてさ」
翔也は言う。未鼓は、翔也から漂う微妙な違和感を繊細なまつ毛で感じていた。
今日の翔也の顔は、なんだか苦しそうだ。
「歌山」
翔也が言った。
「俺さ、もう、お前の友達でいることが出来なくなった」
「……え」
未鼓は思わず聞き返す。翔也は微笑んだまま、未鼓ではなく、それよりもっと向こうを見つめていた。
「俺、病気でさ」
「病気……」
そういえば、と思い出す。二人が出会ったあの日、翔也は未鼓と別れる時「病院に行く」と言っていた。
「思ってたより、悪いらしいんだ」
「……治らないの?」
「俺、馬鹿だから、気付くの遅くてさ。なんか最近、胸が苦しいなあって思ってたんだよな。もしかして、恋かな、とか思ったりして」
翔也は笑う。笑い事ではない。
「翔也、諦めちゃダメ。それに、それが友達でいられない理由になんかならないわ。私、友達第一号として、翔也を支えるし、力になるわ」
未鼓が言うと、翔也は首を振った。
「……そんなことされたら、俺、逆に苦しいから」
翔也は空を見上げた。
「俺さ、ほんと、馬鹿だから、お前とか、他の友達とかと一緒にいるだけで、苦しいんだ。こいつらと笑っている俺は、明日にでも消えてしまうかもしれない。俺が死んでも、この世界は、何の影響も受けずに、何もなかったように回っていく。そして俺の事を、みんな少しずつ忘れていく……まるで俺なんかいなかったかのように。そう考えるだけで、苦しくて仕方がない」
未鼓は、何も言い返せなかった。こういう時に、なんというべきなのか、未鼓はまだ知らなかった。
「俺、一人で考えたいんだ。これから、どうすればいいのか、どうしたいのか。だから、友達でいられない」
沈黙が二人に覆いかぶさった。未鼓は、突然井戸の底へ突き落されたような、孤独を感じた。翔也のおかげで、友達は沢山出来た。しかし、一番大切な友達である翔也が、未鼓から去って行ってしまう。この手をすり抜けてひとり、何処かへ旅立ってしまう。
苦しかった。
気付くと、未鼓の頬を、幾線の涙が伝っていた。
恐れていたことが、起きてしまった。
未鼓が今まで友達を作らなかった理由。それは、人見知りだからでも、面倒だからでも、一人になりたいからでもなんでもない。
ただただ、もう二度と、失いたくなかった。
もう何も。
『お父さん、どうしてお母さんとはもう会えないの?』
―――そう聞くと未鼓の父は必ず未鼓に手を上げた。
『お兄ちゃんとも、会えないの?』
―――父は容赦なく、幼い未鼓を痛めつけた。
―――痛い、と泣く未鼓に、父は言った。
『人とは得れば得る程、離れていくものだ。愛おしく思うほど、失った時の悲しみは計り知れない』
―――父を見上げて初めて、父の頬を流れる涙の滝に気付いた。未鼓は思った。私はもう二度と父を傷つけない。そして、私は決して、こうはならない……。
未鼓は叫んでいた。
「人は桜の花弁だって言ったじゃない!全部繋がって桜になるんだって……一つでも欠けたらだめなんだって!」
拳を握りしめる。強く、強く握りしめる。爪が肉に食い込んで熱を帯びても、そんなことよりも翔也を失う方が、今は苦しかった。
「あなたが欠けたら、桜じゃなくなっちゃうじゃない!」
その時、温かい掌が、未鼓の握りしめられた拳に触れた。
「歌山」
目の前に翔也は来ていた。青白い顔つきは、もうあの時のはつらつとした翔也では無かった。
「ありがとう」
翔也はそう言うと、未鼓を力強く抱きしめた。人の温もりとは、こんなにも心を穏やかにするのか。未鼓は翔也の細くなった胸に顔を押し付け、泣いた。
「歌山と出会えてよかった。俺、絶対にお前のこと忘れない」
「まだ、治るかもしれない」
「歌山」
遮って、翔也が言った。
「少し、時間をくれ。時間がない俺だけど、だけど、時間をくれ。お前らに、お前に、さよならってちゃんと言えるくらい強くなる時間を」
嗚咽しながら、未鼓は言う。
「それまで、友達じゃないってことは、話しかけてもダメ?」
「ああ」
「ご飯も一緒に食べられない?」
「ああ」
「ずるいよ……」
「……ああ」
暫く、二人は抱き合っていた。お互いの温もりを忘れないように、出来るだけ長く、そうしていたいと思った。
切り出すように、翔也が言った。
「俺、そろそろ行かなきゃ。病院でさ」
「あっ、そっか……」
未鼓は翔也から離れて、改めて冷静さを取り戻し、赤面した。
「ご、ごめん!べ、別に変な意味は無くて。ただ、友達第一号だから……」
翔也は、はは、と笑って未鼓の頭を撫でた。
「大丈夫、わかってるって。悪かったな、辛い思いさせちまって」
じゃっ、と言って翔也は走り去ろうとした。未鼓は、今度は、しっかりと手を掴んで、翔也をひきとめた。
「待って!」
翔也が振り向く。
「私、待ってるから!翔也がまた友達に戻ってくれる日を、待ってるから!」
声は校舎に反響した。
「おう。待ってろ!」
また走り出したかと思うと、翔也はもう一度振り返って、未鼓ににかっと笑って言った。
「俺、病気なんかじゃなかったら、お前に惚れてたかもな!」
未鼓は顔が赤くなるのを感じた。頬に血が上る。言い返そうとしたが、翔也はもう遠くまで行ってしまっていた。別れ際に、そんな冗談……。未鼓は空を見上げた。
―――またからかわれた。
いつか仕返ししてやるんだから。未鼓はまだ残る翔也の温もりと微かな匂いを抱きしめるように、自分の体に腕を回した。
あれからもう半年になる。伶と春樹が転校してきたのは、丁度その頃であった。翔也が離れていくにつれて伶と春樹の存在が、未鼓の心に空いた穴を塞いで行った。そして、未鼓は知らず知らずのうちに、翔也の事を、少しずつ忘れて行った。
土田翔也。
それが彼の名だった。




