一、
エピローグ
またこの季節が来た。
傘を差しながら、青年は思った。
紫陽花の上を歩く蝸牛が、道端を転がる雨の波紋たちが、現れては消える、夢のような悲しい過去を、青年に思い出させていた。
長いようで短い暗黒の夏が、再び青年に訪れようとしているのだ。
僕はこれを乗り越えられるだろうか。
僕はまた、人間に戻れるのだろうか。
青年が見上げた時にはもう、空は涙をぬぐっていた。
早く泣き止んで、早く歩きだしなさいと、青年の背中を押しているのだ。
青年はそれを思うと、いっそう悲しさに包まれた。
あの日々が、苦しく甦った。
ねえ、僕はもう思い出せないよ。
君の声も、あの日の僕も、何も。
一、
「ねえ、未鼓。僕と春樹、どっちが好き?」
青い車が一台、三人の横を不愉快な排気ガスを吐き出しながら通っていった。いつもと変わらない通学路の安心感を削ぐように、突然伶の口から降ってきたその言葉に、春樹と未鼓は同時に顔を見合わせ、赤面する。
「な、何を言っているの、伶。ど、どっちも好きよ、ね、春樹?私たち、友達だもの」
「そ、そうだよ!」
慌てて未鼓に合図地を打ったが、春樹にとってその言葉は、ある意味“重篤”なものだった。
春樹は未鼓に惚れていた。しかし、今の三人の関係を壊したくないし、何よりフラれるのが一番怖い。だから毎日好きな人の隣に居ながらにして、恋心を胸の奥に押し殺していた。それが、今の伶の言葉で溢れ出そうになる。春樹は、元々色白の自分の顔がトマトジュースみたいに赤く染まっていたらどうしようと羞恥し、思わず顔を伏せた。
「冗談だよ」
伶はふっと笑うと、春樹の肩に手を置いた。
三人は下校中だ。今日はいつになく、伶が二人を「ゲームセンター」に誘ったのであった。伶は真面目を売りにするうちの学校の中でも際立って物静かで、成績優秀な生徒だ。好きな場所は図書館。趣味は読書。ゲームセンターなんて単語が最もふさわしくない人物と言えよう。未鼓も春樹も、伶がゲームセンターに行きたいだなんていい始めたときは、顔を見合わせて、
「嫌なことでもあったのかい」
と、心配した。しかし、伶曰く、
「たまにはゲームセンターの様な、日常とかけ離れた雑音の中に身を投じてみたいのさ」
なのだそうだ。変わった回答だが、伶らしい。
しかし、先程の発言で春樹には伶の意図が分かった気がした。春樹は気付いていた。伶も、未鼓の事が好きなのだ。伶は春樹の事を「単純で子供っぽい奴」と思い込んでいる。春樹がゲームセンターに夢中になっている間に、未鼓をどこかに誘い出して、告白するつもりに違いない。
―――そういうことか!あいつ、未鼓を自分のものにするつもりなんだ!
容姿端麗で頭脳明晰、長身で男らしい体つき、しかも大人っぽくて頼りになる、女子にモテる要素を全て兼ね備えている伶に、小柄で病弱貧弱、学校の授業に関してはついていくのすらやっとの春樹が、正々堂々と戦っても勝てる確率が乏しいというのに、こんな姑息な手を使われたら勝ち目が一パーセントも残らない。
―――未鼓の隣から一時も離れないでいてやる。伶の思い通りになんかさせないぞ!
春樹はひそかに拳を握った。
「ちょっと、春樹」
頭の向こうで未鼓の声がした。
「なに立ち止まっているの。先入っちゃうわよ」
顔をあげると、ゲームセンターの入口に、未鼓と伶が立っていた。思ったより長い時間、あるかどうかも分からない妄想の風船を脳味噌の中で膨らめていたらしい。伶も、穏やかに笑っている。
「ごめんごめん、」
言いながら歩き出して、途端、小石につまずいて転んだ。
「おい、大丈夫かよ」
すかさず駆け寄る伶。
「お前すぐ骨折るんだから気をつけろよな」
「へへへ、大丈夫、ごめんね」
春樹は伶に肩を抱かれるようにして起き上がると、恥ずかしさで赤面したまま右手を後頭部に置いた。それからその右手に熱を感じ、目を落とす。擦り傷になっていて、ほんの少しだが血が出ていた。
「もう、春樹はどじね」
未鼓が笑う。
「絆創膏あるからこっちきて」
鞄の中を探る未鼓を見て、
「こんなのなめときゃ治るよ」
と言うのと、伶に、
「悪い、ありがとう」
と言うのをほぼ同時にすませると、春樹は未鼓の元へ歩みを進めた。未鼓は手早く絆創膏を取りだし、春樹の右掌に貼った。
「血が止まるまでおさえてるのよ」
未鼓はまるで「お母さん」みたいに言った。春樹は、ああ、また、恋愛ボルテージが一下がった、と肩を落とした。
伶は、二人を、春樹が転んだ地点から動かないまま見ていた。瞳の奥に静かな、淡い青色の螺旋が渦巻いているようであった。眩暈がする。ふらつかないように膝に力を入れ、軽く頭を振った。その時、視界の端に、春樹の躓いたであろう小石が、地面に転がっているのが見えた。伶は能面のように無表情になると、思い切りそれを踏みつけ、ぐりぐり、とコンクリートに擦り付けた。堅いローファーの靴底に押しつぶされ、小石は小石であった痕跡を残さないくらい粉々に粉砕された。伶はそれを見て満足したのか、二人に合流し、三人そろってゲームセンターの入口を開けた。
まだ能面のような伶に春樹が声をかける。
「伶、どうしたの?」
まさか、傷の手当てをしてもらったのを羨んでいるわけではあるまい。
「なんでもない」
もう一度伶を見ると、伶の能面は取れていた。気の所為だったのか、いや、でも僕は。春樹は右手の絆創膏を見て頬を赤らめた
―――僕はうれしかったんだからいいよね。
春樹と伶が、風越学園高校に転校してきたのは、半年ほど前である。二人は同時に転入し、同じクラスに配属された。
二人は、複雑な家庭事情の中育った。
伶の両親は伶が五歳の頃、離婚。伶は母親に引き取られたのだが、その母親が育児放棄して消息を絶ち、彼女の親友であり、家族ぐるみで付き合っていた春樹の母親が、祖父母の反対を押し切り、伶を引き取った。
春樹には父親が居なかった。生まれた時から居なかった。父親がいなくて寂しいという感情はなかった。それは、伶にも、父親がいなかったからかもしれない。同一の境遇を持つ存在を近くに持つことで、春樹は孤独と不安が表に顔を出すことを抑制していた。
春樹が、子供には父親と母親、ふたつの親がいるという事を強く意識するようになったのは、小学生になってからであった。伶からなんとなく聞かされていたが、必ず二人いるのだという。
―――僕の父親も、何処かに居るのだろうか……。
春樹はそれから何度と無く母親に尋ねた。しかし、母親はその度春樹の肩を優しく抱いて、
「お父さんは、お星さまになったのよ」
と言うだけだった。しかし、春樹はなんとなく、父親が死んだようには思えなかった。生きていればどこかで父親に会えるような、そんな気がしていた。
転校初日から、二人には友達が中々出来なかった。病弱そうで細身の、見るからに話がつまらなそうな春樹、高い位置からいつも冷ややかな目で人を見下している伶。他生徒からすると、話しかけづらかったのかもしれない。二人はいつも二人だけで会話し、二人だけの学生生活を楽しんでいた。登校も昼食も下校も……常に二人だった。
入学して一週間。
春樹はなんとなく、この学校に馴染めないような気がしていた。でも馴染まなきゃいけないような、そんな気もしていた。ちょっとひとりになってみようか。冒険でもするような思いで、春樹は伶に声を掛けずに昼食前、校庭に散歩に出た。
四月の穏やかな風、散りゆく桜。校庭に続く石段に腰を落とし、春ってなんて儚いんだろう、と憂いた。
その時、頭上から少女の声が落ちてきた。
「知ってる?ソメイヨシノって、全部接木なのよ」
見上げるとそこには、雲一つない青い空と、可愛らしい少女の顔があった。少女は靡く長い黒髪をかきあげながら、春樹を見てにっこりと笑った。見たことがある。たぶんクラスメイトの女の子だ。
「日本中に咲いてるソメイヨシノは、全部兄弟なのよ。だから同じ時期に咲くのね」
少女はとんとんとローファーを弾ませながら、春樹の隣に座った。それから春樹を覗き込む。
「転校生の日野君ね。私、歌山未鼓。よろしくね」
活発そうに動くその唇は、高校生にしては色っぽく、しかし清純だった。
春樹は胸の鼓動が早まるのを感じた。生まれてから今まで、こんなに可愛らしい少女に出会ったことがない。
あっ、と春樹は顔を伏せた。きっと恥ずかしさに赤面していたに違いない。
「日野春樹です。あの、」
何か話さなければ……。春樹は顔をそらしたまま脳味噌を巡らせた。
「まだ、学校に慣れてなくて、その……」
「じゃあ、私が案内してあげるわ!ほら、あの桜並木を歩いてみない?午後の授業まで、まだ二十分もあるんだし」
「あ、いえ僕、友達を待たせてて……ご飯もまだだし……」
「じゃあちょっとでいいわ。いきましょう」
未鼓は無理やりに春樹の手をとって、石段を駆け下り始める。春樹はそれに続きながら、黒髪とスカートのプリーツの可憐に目を奪われていた。
「遠くから見るのもいいけれど、近くから見るのも素敵だったりするの。だから人々は、毎年お花見なんてするのね」
未鼓は歩みの速度を緩めると、ほら、と前方を指さした。
「この桜が、この学校で一番大きな桜よ」
言われてみれば、この木は他に比べて幹が太く、立派な風貌をしているように思えた。未鼓は歩きながら春樹を振り返って、
「ね、ちょっと目を閉じて」
と言った。
「え、歩きながら?嫌だよ。転んだりしたくないもん」
「大丈夫、私が先導するから。それに、凄く感動するから。ね?」
春樹は不安と少しの期待――青春ドラマにあるような――を胸に、目を閉じた。それから未鼓に手を引かれ、一足一足歩みを進める。不意に顎の下に何かが触れた。温かいそれは、未鼓の手だ。成すがままに春樹は顎を上に向ける。春樹が完全に上を向いた時、
「いいわよ!」
と未鼓は言った。春樹が目を開けるとそこには――――――。
―――万華鏡だ!―――
目の前に、桜の万華鏡が広がっていた。万華鏡は風に靡く度に形を変えて、色を変えて、春樹の心を躍らせた。
「なんてきれいなんだ」
ほろっと言葉がこぼれた。こんな繊細で素敵な景色が、この世にあったなんて。
未鼓は瞳を輝かせる春樹を見て言った。
「転校してきて、緊張してるんじゃないかと思って、心配してたの。他の子たちもそうよ。桜って、ひとひらの花びらがいくつも集まって、それできれいなの。人間もきっと同じ。人とつながって、それで桜のように、きれいになっていくんだわ」
春樹は桜の万華鏡から目を離して、未鼓を見た。転校してきて一週間……。ろくに友達も出来ない僕を気遣って、彼女はこれを見せてくれたのか。未鼓はどんな女神よりも美しい笑顔で、春樹に微笑んでいた。この時、春樹は初めて、恋というものがどんなものなのかを知った。
「おい、春樹」
後ろから声がして振り向いた。石段の方から誰かが歩いて来る。……伶だ。忘れていた。伶と昼食を食べる約束をして、それをすっぽかしてここに来たのだ。最初はすぐに帰るつもりでいたのに、長引いてしまった……。
「どこにいるかと思ったら。探したぞ」
桜の下まで来た伶は、少し不機嫌そうだった。そりゃそうだ。大事な昼食の時間が台無しになってしまったんだから。
「ごめん、ちょっと外の空気を吸おうと思っただけだったんだけど……」
「ごめんね、私が無理やり誘ったの」
「いや、僕が行きたかったから」
「いいよ、ふたりとも」
はあ、と溜息をついて、伶はかばい合う二人を制止した。
「あと五分。お弁当食べ切れる?」
春樹と未鼓は同時に時計台を見た。どうやら二人は時間が経つのも忘れて、桜に見入っていたようだ。伶はまた溜息をついた。
「もう。僕まで食べそこねたんだぜ」
「ごめん。帰りにジュースおごるから」
「私も。おごるわ、好きなもの」
いいよ。と伶は首を振った。
「そのかわり」
「なに?」
「これから毎日、雨や雪じゃない時はここで、三人で昼食を食べないか」
思いもしない提案だった。
「わあ!それすてき!賛成!」
未鼓が声をあげた。
「それと、帰りは一緒に帰ろう。君も……歌山さんも途中まで一緒だろう?」
「未鼓でいい」
「うん。じゃ、そういうことで決定」
春樹は心を躍らせた。これで毎日この少女と、そしてこの桜と生活を共にできる。なんて幸せなんだろう。
その時、三時間目開始のチャイムが鳴り響いた。
「あ!」
三人は同時に叫んだ。それから、まあいっか、と頬を緩めた。
「今日は三人そろって遅刻しよう」
「忘れられない一日になりそうだわ」
桜の万華鏡が、校庭に伸びる影を静かに見送っていた。
いつから、こんな風になってしまったんだろう。
ゲームセンターの騒音の中で、春樹はあの日の穏やかな三人を思い出していた。この三人なら、上手くやっていけると思っていた。それに、伶は恋愛なんかに興味を持たないと思っていたし……。
春樹はユーフォ―キャッチャーの前ではしゃぐ二人を見て、なんだか自分だけ置いて行かれてしまうような気がしていた。
―――もしかしたら二人はもう付き合っていたりして。
いやいや、ありえない。だとしたら、伶は僕に言う筈だ。春樹は大きく首を振る。そうでなくても、伶が未鼓に告白なんてしてしまったら一巻の終わりだ。例え相手が未鼓じゃなくても、伶の様な魅力的な男性に告白されて断る女性がこの世にいる筈がない。未鼓は伶のものになり、二人は春樹の事なんか気にも留めなくなる。春樹は独りになってしまう。
―――僕が最初に未鼓に出会ったのに!
あの日、最初に彼女と出会い、触れあったのは春樹だった。今では、このありさまだ。
ユーフォ―キャッチャーのアームに首をひっかけられた巨大なクマのぬいぐるみは、そのまま穴へ向かって行くように見えた。しかしあと一歩、というところで、あっけなく落下した。
「あーっ!もう!惜しい!」
未鼓が悔しがる。よし、いいところをみせてやろう。
「未鼓、僕が……」
「よし、任せろ」
いち早く小銭をゲーム機に投入したのは伶だった。
「コツがわかってきた。次は確実に取れる」
未鼓が腕を組む。
「あら、できるならやってみなさいよ」
春樹は財布から出し損ねた小銭をゆっくり収めると、やはり自分は鈍くさいのだ、と溜息をついた。
アームはクマのぬいぐるみのすぐ上まで来ると下降し、首元めがけてとまる。
「伶、コツって何」
春樹は伶の耳元に小さな声で言った。
「こいつ、首輪してるだろ。そこにアームを」
アームがゆっくり閉じていく。左側のアームが、クマの首元、いや、首輪に突き刺さった。上昇するアーム。ぬいぐるみ程度の重量では、首輪に食い込んだアームから逃れることはできない。
ぬいぐるみはそのまま穴まで進み、ふさり、という思ったよりも軽そうな音を立てて取り出し口に落ちた。
「こうするんだよ。な、ゲームってのは、コツさえ分かれば簡単なものさ」
未鼓はしゃがんで取り出し口からぬいぐるみを引き抜いた。クリスマスプレゼントをもらった小学生のように、未鼓の瞳がきらめいた。
「やったー!くまさん!」
普段の大人びたベールを脱ぎ棄てた、子供の未鼓がそこに居た。伶も春樹も、なんだか心が温かくなる。春樹は、良いところを見せられなくてちょっと悔しいけど、でも結果オーライかな、と自分を納得させた。
不意に未鼓が二人を振り返った。
「ねえ、次はあれがほしい」
一瞬、ゲームセンター内の騒音が掻き消されたように、伶と春樹は青ざめた。この巨大なクマのぬいぐるみを取るのに、伶は二千円、春樹は三千円使っていた。貧乏高校生にとっては大金である……。
二人は顔を見合わせた。すると未鼓が、先程とったばかりのくまのぬいぐるみを二人に摺り寄せながらせがむ。
「ね?ね?コツがわかったんでしょ?ね?」
「あ、ああ」
伶がいつになく口ごもっていると、未鼓ははっとしたように駆けて行った。
「わー!ぞうさんがいるよー!」
伶は春樹の耳元で言った。
「明日から一週間、もやし生活な」
春樹はごくりと唾を飲むと、重く頷くしかできなかった。
*
六月十一日、水曜日。青い空を雲が覆った。大地を、この街にふさわしくない寂しい風が吹き抜けて行った。平日の校舎にしては、静かすぎる。廊下も、校庭も、あの桜の木の下さえも……。
生徒たちの間で、小さな悲鳴が上がった。嘘だ、いや、本当だ。ありえない、いや、ありえる。
小さな蝶のはばたきがハリケーンを巻き起こすのと同じように、ひとつの小さなざわめきが、校舎の壁を振動させて、地響きのように這っていく。
何か、あったのか。いや、何かあったのだ。
その時、緊急放送のベルの音が轟いた。ベルの音に驚いて、生徒がみな凍りつく。驚きのあまり、机の下に隠れるものも居た。
ベルに続いて教頭の山内のガサツな声が響いた。
「全校生徒に連絡します。この放送以降、担任の先生からの指示があるまで、各教室で待機すること。決して教室を出ないこと。繰り返します。……」
放送が終わると、教室内は一気に騒がしくなった。
「ねえ、やっぱりあれよ!」
未鼓に茶髪の少女が切羽詰まったように話しかけた。
「やっぱ、来るときに見たブルーシート、きっとそのことなんだわ」
「ブルーシート?どういうこと?」
「警察の人がいっぱいいて、鷲島が青い顔してて、怖くて近寄れなかったんだけど絶対あれ」
ガラガラガラガラ。
一瞬にして空気は凍ったように静けさを取り戻した。担任の宮坂が来たのだ。立っていた生徒たちは皆一斉に席に着く。
顔色が悪い。
春樹はなかなか話を切り出さない宮坂を見ながら、隣の席に座る伶にそっと話しかけた。
「様子がおかしいね」
「そうだね」
「いつもは美人ではつらつとしている感じなのに、今日の宮坂先生、病気みたい」
「ああ。いやな知らせでもあるんじゃないか」
「嫌な知らせ?」
「例えば」
宮坂の持っていたファイルから、一枚の紙が落ちた。宮坂は慌ててそれを拾う。
「殺人事件とか」
「えっ!」
春樹は言ってから口を塞いだ。
―――五月蝿いなあ。
―――転入生の分際で。
―――全く、困った子だわ。
生徒たちと宮坂の声が聞こえた気がした。慌てて周りを見渡す。しかし、誰もこちらを向いていない。気の所為だった。春樹はほっと息をついた。
「伶……さすがにこんなくそ田舎で殺人事件なんて、ありえない」
「まあ、宮坂先生の話を聞いてみようよ」
宮坂はゆっくりと廊下側の席に足を進ませた。相変わらず細くてきれいな足である。よく見ると、小刻みに震えているようだ。それが、履いているローヒールの所為でないことは、誰が見てもわかった。震える手で、廊下側から順に、プリントの配布を始める。
「後ろへ回して」
皆無言で、プリントを回す。ガサガサという紙の音ばかりが響く。プリントがクラス全体に行き届いたころ、宮坂は教卓に上がり、口を開いた。
「ご存知の方もいるかもしれませんが、今日未明、体育館とプールの間で、変死体が発見されました」
春樹は、息を呑んで、伶を見た。伶はにやり、と、今までに見たことがない暗い薄気味悪い微笑を洩らした。気持ち悪いなあ。伶はなんで分かったんだろう。僕たちの通学路は、あの体育館の方は通らないのに……。いや、きっと冗談で言ったことが、たまたま当たったんだ。
「この高校が現場という事で、暫く学校は休校になります。進路決定の時期なのに、ごめんなさいね」
宮坂が頭を下げた。
顔を上げた宮坂は、険しい表情で続けた。
「殺人事件の可能性が高いそうです。学校としても先生としても、みなさん生徒を危険な目に遭わせるわけにはいきません。ですから、今日は親御さんに迎えに来てもらう事。それが出来ない場合は、家の近い友達と一緒に帰ること。これを先生に約束してください」
ねえ、どうする?うち親仕事だし。
わたしもー。
少女たちの小声が聞こえる。僕も母は呼べないけど、伶と未鼓がいるから大丈夫だな。と春樹は思った。
「プリントは、ご両親に必ず渡してください。また、連絡網が回るかもしれませんが、この近辺を決して出歩かないこと。事件が解決するまで、決して学校付近に近づいてはいけません。みなさん、先生と約束してくれますね?」
皆無言のうちに頷いた。自分の学校で殺人事件だなんて、非日常的でうきうきする。その反面、自分が被害者になるのを想像するとぞっとする。
「十時までに必ず全員下校するようにと、警察の方からも言われています。急いで、そして気をつけて帰宅するように。先生からは以上です。これでホームルームは終わります。先生は会議があるので、ここで失礼しますね」
宮坂は生徒たちに踵を返し、ドアに向かって歩き出す。その時、一人の生徒が声を上げた。
「先生、そういや珍しく、土田が来てないんですけど」
「え?」
宮坂は振り返ってはっとした。教室の隅っこに空席が一つ。
「電話とかしても繋がんなくてー。先生んとこに連絡来てないっすか?」
宮坂は誰が見てもわかるくらいに青ざめた。
「欠席の連絡はもらってないわ、でも、まさか、そんな……ね……」
少しの間を置いて、
「土田君の事は親御さんに連絡してみるから、みんなは心配しないで、早く帰り支度をしてください。それでは、さよなら」
宮坂は踵を返して教室を後にした。ガタン、とドアが閉まる。
途端、生徒達は爆発的に騒ぎ出した。
「土田がいないってどういうこと!」
「あいつ、無遅刻無欠席だけが取り柄って言ってなかったっけ?」
恐怖なのか、不安なのか、最早それを楽しんでいるのかわからない。今の教室内に広がる騒音は、鬱陶しいだけだった。確かに土田がいないのだから土田が被害者なのかもしれない。だが、それはそのうち分かることだ。今こうやって騒ぐのは、沼で河童が出た、と騒ぐのと大差ない。幼稚だ。
うっ。
先程未鼓に話しかけていた茶髪の女子生徒が嗚咽を漏らした。
それを合図に、再び教室が静まり返った。
「……帰ろ」
誰かが言った。
教室の中に、よからぬ風が渦巻いた。ワンピース掛けたパズルのようにぽっかりと空いた穴を見つめ、生徒たちは息を呑む。その中の一人が、窓から見える体育館の屋根から黒い鳥が飛び立つのを見た時、血の臭いを纏った悪魔が、教室の窓をこじ開けてぬるりと入り込んだ。




