悲愴
雨が強くなってきた。
伶は誰も居ない公園のフェンスに身体を預け、崖下に広がる街並みを見下ろしていた。昔、家族四人でよくここに遊びに来た。今ではみんな、バラバラになってしまったけれど、ここに来ると、あのころの幸せな気持ちを思い出す。
春樹と初めて出会ったのも、この公園だった。出会った時から、優しい奴だった。
伶は刃先の欠けた包丁を、首元に近づけた。もうこの世に、未練はない。
大切なものを守りきった。伶がこれだけ事件の証拠を持って死ねば、警察はどう足掻こうと、伶を犯人にするしかない。春樹の記憶が戻ったとしても、親友を庇う唯の悪あがきにしか見えない。
それに……もう、疲れた。
―――こんな風に逃げる僕を、春樹は恨むだろうか。
伶は空を見上げた。別れ際の、春樹の涙が空に映る。
―――最後は、笑って見送ってほしかった。
春樹が幸せになれば、それでよかった。届いただろうか、伶の思いは。伶は春樹に、何か残せただろうか。
―――あとは、未鼓と志波さんに任せよう。
あの二人なら、春樹を幸せにできるはずだ。
伶は目を瞑った。決心した瞬間だった。
「伶!」
その時、聞こえない筈の声が、伶の耳に届いた。幻聴かと思った。しかし、目を開けると、そこには、ずぶぬれになった春樹が、目を真っ赤にして立っていた。
「伶、僕、思い出したよ」
春樹は言った。
「伶は僕を、守ってくれていたんだね」
―――神様……。
伶の頬を涙が伝った。神を呪った。
「来るな。今更、後戻りをする気はない」
最期くらい、格好つけさせてくれよ……。
「僕は殺人鬼だ」
「違う。君は、優しい人だ」
「春樹、言うとおりにしろ。僕は死ぬ。殺人鬼として、死ぬ。君は、未鼓と志波さんに守ってもらって、幸せになるんだ」
伶は言った。
「君は十分苦しんだ。もうこれ以上、苦しむ必要は無い!」
伶の強い口調に、春樹は動じなかった。
「馬鹿野郎!」
春樹は叫んでいた。
「君がいなきゃ、僕が幸せになれるはず、ないじゃないか」
春樹は伶に向かって歩みを進めた。
「君がいなきゃ」
伶は動けなかった。春樹は伶の目の前まで来ると、震える手から欠け刃の包丁を取り上げ、雨をはじく泥まみれの地面に投げ捨てた。それから、伶の胸にすがって泣いた。
「ごめん、ごめんなさい……ごめんなさい……」
二人は力が抜けたように、そのまま地面にしゃがみこんだ。泥がはじけて、二人の身体と頬を汚した。
「ごめんなさい……」
伶は春樹を抱きしめた。ずっと、こうしてやりたかった。やっと、やっと思いが伝わった……。
「……よかったのに」
嗚咽を漏らしながら伶は言った。
「思い出さなくて……よかったのに」
忘れたままで、よかったのに。
君が幸せになれれば、僕は何もいらなかったのに。
夕暮れの公園で、少年がひとり、泣いていた。
友達はみんな帰ったのに、お母さんが、迎えに来ない。
その時、少年の元に、もう一人の少年が駆け寄った。
『伶、泣かないで』
幼い伶は首を振る。
『お母さんが、来ないの』
『ばかだなあ、伶。お母さんは、こどもを迎えに来るいきものなんだよ。だからね、絶対に来るよ』
『本当に?』
『うん』
幼い春樹は微笑んで、伶の手を握った。
『だからその日まで、うちにおいで。さあ、帰ろ』
突然、雨は二人を叩きつけるのをやめた。ざー、という音は遠のき、代わりに、ボツ、ボツと、傘が雨をはじく音が響いた。いつの間にか、二人の隣に、傘をさした未鼓が立っていた。
「バカね、二人とも。……風邪、ひくじゃない」
*
梅雨が終わろうとしていた。
退院した志波は、小雨の降る中、月島伶が死に場所に選んだあの公園を訪れていた。
腹部に負った傷が、まだほんの少しだけ痛む。しかし、少年たちが心に負った傷に比べれば、小さなものだ。
最悪の結末を迎えるはずだったこの物語は、優しい愛の物語へと変化した。
土田翔也。
日野春樹。
月島伶。
歌山未鼓。
四人の狂った歯車が、寸でのところでやっと、噛み合った。
土田翔也が最後に日野春樹に言おうとした言葉は、『俺を鳥にしろ』なんかではない。
『鳥になりたかった』
そう言いたかったのだ。
全てはそこから始まった。
土田翔也が日野春樹に声をかけていなければ。
日野春樹が土田翔也の自殺を目撃しなければ。
月島伶が日野春樹が土田翔也を殺したのだと勘違いしなければ。
歌山未鼓が日野春樹に月島伶との関係をもっと早く伝えていれば。
こんな狂った事件は起きなかった。
―――僕は、彼らの支えになれるだろうか。
羽鳥があの日、自分に手を差し伸べてくれたように。彼らの支えになりたい。志波は心から思った。
事件から約一か月。
この街は、事件のことなどすっかり忘れてしまったようだ。
―――あの時と同じだ。
志波は空を見上げた。
さっきまで降っていた雨は、いつの間にかその涙をぬぐっていた。
また、この季節が来た。
長いようで短い暗黒の夏が、五歳の裕也の悪夢が、再び青年に訪れようとしていた。
―――父さん。ダン。
青年は、心の中で呟いた。腹部の痛みは、もう全く気にならなかった。
―――僕はまた、人間に戻れるのだろうか。




