第十話 扇子が無い(後編)
その二週間後の日曜日——
今度は三太が白沢先生に雑学を聞いているところにねずみの姿をした雪平師匠が首をひねりながら訪ねてきた。と言っても三太はまだ一度もこのねずみの人間の姿を見ていない。
再び突然現れたねずみにまた三太が一瞬爪を出しかけたが今度は何とか衝動を抑えることが出来た。
「白沢先生、例の弟子の件なんですが」
白沢先生はいったん雑学の講義を辞め、雪平師匠の方を向いて言った。
「上手くいったのかい?」
白沢先生の問いに雪平師匠はどうも歯切れが悪い。
「まあ、ある意味上手くいったようなところもあるんですが……」
「どうなったんですかにゃ?」
「実は……」
雪平師匠の話はこうだった。白沢先生に言われた通り「次の高座には扇子を置いていけ」と命じて扇子を取り上げた。弟子の雪八はたいそう悲しそうな顔をしていたが師匠に逆らえるわけもなく、しぶしぶ手ぶらで高座に上がったそうだ。
ところが、いつもとはうってかわって終始落ち着いた語り口調で、お客さんを大いに楽しませていた。ショック療法が効いたのかと喜んで扇子を返したが、今度はまた以前に逆戻り、再度取り上げるとまた落ち着きを取り戻したそうで、雪平師匠もその周りの噺家達も目をぱちくりしていた。
「一体どういう事なんでしょうね」
雪平師匠が聞くと、白沢先生はまた目をつむり考えている。
やっぱりすることがない三太はコーヒー豆の新しい仕入先を開拓しようかなあ、最近国産で中部地方でもいい豆が取れるらしいにゃあ、でもほとんどの客さんはカフェオレ頼むから、豆が多少変わっても築かないだろうにゃあ、などと考えていると、白沢先生が目を開けて言った。、
「雪八さんが落ち着かなくなったのは二つ目になってからと言っていたね? で、その時に今の扇子を贈ったと、前座の時はどんな扇子を使ってたんだい?」
「いや、兄弟子のお古でどこにでもある扇子でした。もうボロボロだったんで二つ目の時に俺っちが贈ったものなんですが、二つ目が持つにしてはかなりいいやつですよ」
「私が思うに雪八さんは少し真面目過ぎるのかもしれないね。大体の想像はつくけど専門家ではないから、一度雪八さんに扇子のことをどう思っているか聞いてみなさい」
雪平支障は今一つ腹落ちしていないようであったが、白沢先生の仮説を聞いて小さい両手をポンと叩いた。
雪平師匠は白沢先生の言う通り、雪八に扇子の事をやさしく聞いたところ、雪八が重い口を開いて言ったそうだ
「師匠から貰った高価な扇子を汚したり壊したらどうしようと、扇子の事ばかり気になって高座に集中できませんでした。でもそのせいにしたら師匠に失礼かと思ってそれも言えませんでした」
そう言えば雪平師匠にも思いあたることがある。雪八が茶をちょっとこぼしたくらいで土下座して謝ったり、電車の遅延で遅刻した時も辞表を出してきたことがあった。そもそも落語家って辞表を書いてやめるもんじゃないけどね。
ともあれ、弟子の不良の原因は本人の生真面目過ぎるメンタルの為と言うことで、今後は落語協会の産業医とも相談しながら噺家を続けることになった。もちろん師匠から貰った扇子は家のタンスの上に飾ったままになっている。
いつか真打になった時にはもう一度この扇子で高座に立ちたいと雪八は言っているらしい。
そのまた次の週の日曜日、白沢先生宅では三太と白沢先生が縁側で日向ぼっこをしながら雑学の講義をしていた。。
「ちなみに二つ目とか真打とかって言うのは元々江戸落語の階級制度で、関西の上方落語にはなかった制度なんだ。最近になって入門から十五年経った噺家の中から実力のあるものを一人前と認める制度が新しくできたらしい」
「へー、勉強になりました。誰に披露したらいいかわからないですが」
「ま、知っとけばいつか披露できることもあるんじゃないかな」
そう言って、白沢先生は一仕事終えたと言わんばかりに丸くなる。
「でもまあ雪平師匠のお弟子さんの件、結果よければすべてよしということで良かったですにゃ」
そう言う三太に白沢先生は心外そうな顔をして
「扇子自体になにか原因がある可能性も考えなかったわけではないけどね」
と言った。
「またまた、それはさすがに嘘でしょにゃ。ところで気になってたんですけど、あのねずみの雪平師匠の八番目のお弟子さんの名前雪八さんでしたにゃ。まさか、お弟子さんの名前雪一から順番に雪八ですかにゃ?」
「そのまさかだよ。本当にセンスが無いのは雪平師匠だね」
続く




