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第二十五話 半月仙女


 皇帝のおわす居城に白龍の使者が現れ、都人みやこびとらを畏れ、恐れさせた、翌日のこと。


「おはようございます」

 薬仙堂の居間へ入ると優しい陽ざしが照らしこみ、火鉢から立ちのぼる、ぬくい空気が心地よい。

 日課の素振りで一旦は温まったものの、広い屋敷の、まだ肌寒い廊下を歩いてきた草草そうそうはふうわりと笑う。


「おはようございます。清々しい朝でございますね」

 丁寧に頭を下げて応えたのは、見目麗しい壮年の男――都の薬仙堂の主人だ。

 歳を感じさせない美しい笑みに、品を欠かないほどの華美な装い。その姿はどこぞの仙を思わせる。


「ところで草草様。都でのご用は終えられたそうでございますが、この街は広い。もう少し見物なさってはいかがでしょう?」

 こう言いながら見目麗しい主人が、仙山の薬湯をふるまってくれた。

 草草はありがたく、礼を述べて腰を下ろす。その脇に狼君ろうくんが、裏庭から取ってきた季節外れの林檎をひと抱えも、どんと置く。

 芳香が漂う。


 これは坊ちゃんの誕生日のお祝いに、精霊がくれた枝を植えるとまたたく間に成った実だ。

 この時期の下界にはない香る果実はとてもおいしく、白龍の使者を演じた際にも役立った。

 そして、やはり神仙の物であるから、これに属さないものが実をもぐと、腐り果ててしまうそうなのだ。


「あんた、この林檎が食べたくて、我らを引き留めるんじゃないのかい?」

 果実の匂いを吹き飛ばす勢いで、虹蛇こうだがふふんと小気味よく笑う。

「それは否定いたしません」

 都の主人もフフフと笑った。


 やはり似ている。顔かたちは違うのだが、雰囲気や気質がよく似ていると草草は思う。

 薬湯をすすりながら、美麗な仙と見目麗しい主人を見比べて、熱さも甘さもほど良くおいしい――いや違う。湯のみを置いて、もしかして、と小首をかしげた。


 来仙の、薬仙堂の人々は焔龍の子孫であった。となれば都の一族も、仙寿村の、仙恵の、望仙の皆々も、仙の誰かしらの子孫ではあるまいか。

 山神がそれぞれ別の一族に恵みを与えたのも、単に仙の子らだったから、と考えれば納得だ。

 虹蛇と主人が似た風なのは、この仙にちかしいものの血を、彼ら一族が受け継いでいるからではないか。

 そんな気がする。


 うん、とうなずき坊ちゃんは、脇に積まれた林檎の小山を見やった。

 ただの人なら腐るそうだが、仙の血をひく者ならどうか。


「ご主人。もし、こちらの薬仙堂の方々も仙の子孫なら、林檎を取れるかもしれません。よろしければ試してもらえませんか?」

「かしこまりました」

 主人は麗しい笑みをたたえて去ってゆく。早速もぎに行ったのだろう。手の中で腐臭を放ち、どろどろと溶けてしまうかもしれない林檎をだ。

 好ましい頼みではなかっただろうに、主人の眉は、わずかばかりも上がらなかった。

 大丈夫だろうか。

 今度は美麗な仙の、よくつり上がる眉を見ながら草草は、自身の見立て違いではと少し心配になる。


「坊ちゃん、疲れてるんですか?」

 迫力の増した眼光が、卓の湯のみを睨みつけていた。薬湯の減りが鈍いのに気づき、心配になったのだろう。

 かげりを帯びた美麗な顔も、こちらを伺ってくる。

「都へ来てから何かと忙しかったからねぇ。坊ちゃん、今日はゆっくり休みましょう」

 やはり。思ったとおりの台詞が飛びだしてきた。

 守役たちは心配してくれているのだし、今日くらいは大人しく休もうか。けれど疲れたなどとうなずけば、二日も、三日も、休まされかねない。

「大丈夫だよ」

 草草はにこりと笑い、ごくりと飲み干す。


「お待たせいたしました」

 しばしして、戻ってきた主人の手に、林檎は腐ることなく乗っていた、のだが――


「坊ちゃん、この林檎はほとんど匂いません」

 狼君の鼻が、すんと鳴った。

「変だねぇ。ちっともおいしそうに見えないよ」

 美麗な顔はななめに傾く。林檎を差しだす見目麗しい笑みも、どことなくぬるい。草草が見ても、しなびて色味も悪いとわかる。

 みなで食べてみると、甘みも瑞々しさも抜けており、もさもさとしてまったくおいしくなかった。

 つまり――


「坊ちゃん、口直しにどうぞ」

 勝手知ったる我が家とばかり、守役たちが香るほうの林檎をむいて、ついでに茶まで出してきた。

 草草もありがとうと遠慮なく、しゃりり。口いっぱいに広がる甘さに頬をゆるめながら、つまりと続きを考える。


 実をもいでも腐らなかったのだから、やはり都の一族も仙の子孫なのだろう。

 だが、食べごろをだいぶ逃したような林檎になってしまった。何というか、微妙な時間経過である。

 これは彼らが神仙ではないからか。あるいは歳月を経て、血が薄まりすぎたためなのか。

 まあ、仙の血筋とわかればよい。ならば先祖は誰だろう。

 口の林檎を飲みこむと、二人の仙を向く。


「虹蛇に似てる仙は誰かな?」

「は? 我に、ですか?」

「白くて長いなら雲龍です」

「え?」

 坊ちゃんの問いも唐突であったが、困惑する虹蛇を置いて、狼君の答えも頓珍漢とんちんかんであった。

 いや、姿だろうが何だろうが、似ているのだから正答か。でも、きょとんとした。

 これを見て、主人がくつくつと笑う。

 草草は自身の考えを話して聞かせ、気質の似ている仙は誰かと改めて問うた。


 すると、

「それなら鏡月こうです」

「我はあんな婆さんに似てないよ!」

 仙らはそれぞれ即答した。


 黎国には、仙山から湧き出でて、来仙を通ると東へ、東へ。いくつもの街や村を越えて、この地をあまねく潤しながら都も抜けて海まで続く、大河がある。

 この大河――仙河という、に天の月が映りこみ、生まれたのが鏡月蛟だ。(蛟は伝説上のヘビのこと)

 焔龍と同じほども生きている、力ある仙である。


 実は坊ちゃん、鏡月蛟がどのような仙であるかは知らなかった。会ったことはあるのだが、如何せん、生まれたてだったために覚えていないのだ。

 以降も、この仙は仙河を遡り天之川を翔け、天地を自在にめぐっているらしく会う機会がなかった。

 長い時を生きる仙だ。十年や二十年、会えなくとも不思議ではない。


「どんな仙なの?」

 草草が期待のこもった瞳を向けると、形良い眉はくいっと上がり、鋭い眼光はギラリと煌めく。

「ずけずけと遠慮なくものを言う、派手好きな婆さんですよ」

 それは……虹蛇ではなかろうか。

「虹蛇のような仙です」

 それは……つまり虹蛇でいいのか。

 結局ちっともわからなかった。


 ちなみに、虹蛇と鏡月蛟はともにヘビだが、血のつながりはない。

 勝手に育つ仙であっても、大きなものは幼きものを気にかける。同じような仙であれば、暮らしぶりも似ているので世話もしやすい。

 きっと幼い虹蛇の面倒は、鏡月蛟が見たのだろう。それで気質も似ているのだ。


「だから、我はあんな婆さんに似てないんだよ!」

 本人に認めるつもりはないようだが。


「鏡月蛟様とおっしゃる方の血が、私どもに流れているかもしれないのですね。ありがたいことでございます」

 こちらは、遠慮なくもの申す美麗な仙と、自身は似ていると自覚しているのだろう。主人は美しい笑みを虹蛇に向ける。

 それから神の子にうやうやしく一礼すると、

「でしたら尚のこと、ご恩返しに、ごゆっくり逗留なさってくださいませ」

 と華やかにほほ笑んだ。




 それから三人は、主人の申し出をありがたく受け、都見物を楽しんだ。


 とある日、目を輝かせて街を歩けば、もしや白龍の使者かとささやかれ、坊ちゃんはしれっと会釈した。

 別の日は、浮き浮きしながら市へ出向くと草草は、仙山や来仙のみなへ土産を買いこんだ。守役たちは、坊ちゃんへの土産を買いこんだ。

 また別の日には散歩中、古びた道観(道教寺院)の、屋根が壊れているのに気がついた。これは自分たちが空をったせいだとも、気がついた。坊ちゃんは、そ知らぬ顔で修繕費用を寄進した。


 こんな感じで、都へ来てから数えれば一月近くも滞在し、そろそろおいとましようかとなったころ――


「仙の方々が人との間に子を成すのは、そう稀なことでもないのでしょうか?」

 日課となった朝の薬湯をふるまいながら、主人は整った眉をひそめて問うた。

「いえ、ずっと昔はわかりませんが、今では珍しいと思います。何か気がかりな事でもあるんですか?」

 草草が小首をかしげて問いを返すと、こんな話が戻ってくる。


 今、白龍の使者の話題で持ちきりの都に、半月仙女と呼ばれる占い師の噂が、ささやかながら広まり始めているという。

 この者は、月の力を借りて物事を見透す千里眼の持ち主だとか。よく当たるとの談もあり、なかなか人気もあるようだ。


「私が気になっておりますのは、この占い師が、自らを仙女の娘だと申していることでございます」

 ここまでを言うと、さらに主人の眉がひそまった。

 どうやら彼は、半月仙女とやらを信じていない風だが、まるきりの偽物とも断じきれない何か理由があるらしい。

 その訳は、と草草が伺うよりも前、口を開いたのは珍しくも狼君だ。


「その占い師はいくつなんだ?」

「私は遠目から見ただけでございますが、濃い化粧を落とせば二十歳はたち前……おそらく十七、八といったところでしょう」

 今もなお、女に好まれるであろう見目麗しい主人は、自信ありげに断言した。


「それなら仙山の仙の子じゃない。坊ちゃんが生まれたころ、俺たちはみんな山神様の屋敷の近くにいた」

 偉丈夫の背筋がぐっと伸びたのは、仙のみなに敬愛される坊ちゃんを、誇る気持ちの表れだろう。

「そうだね。坊ちゃんが奥様の腹に宿ったら、みんなすぐに集まりだして、三歳くらいまでは傍にいたからねぇ」

 こちらの守役の、美麗な顔も負けずにぐぐっと持ち上がる。


「そんなに長くいてくれたの」

 初耳であった草草は、その間の三、四年、仙山の頂はさぞや混んでいただろうと嬉しげに笑う。

 ここで、いつものごとく守役たちの坊ちゃん自慢が始まれば、ついでに、見目麗しい主人のあごもくっと上を向いた。


「草草様がお生まれになられた年は、仙山より賜りました薬草もいっそう素晴らしく、作った薬は死人も生き返りそうなほどの効き目でございました」

 本当に生き返ったら大変である。

 主人の参戦により、さらに白熱してしまった坊ちゃん自慢を、草草は薬湯を飲みつつ、ようやっと止める。


「半月仙女という人は、どんな占い師なんですか?」

 これに美しく笑った主人は、

「仙山に連なる者ではないのなら、どうでもよいのでございますが」

 などとのたまいながらも少々顔を曇らせて、こんな風に教えてくれた。


 半月仙女をひと言で言えば、やり口のうまい占い師、であるそうだ。

 客の話をうまく引きだし、いかようにも取れる聞きよい答えを巧みに返す。信じた者には再来をうながし、何がしかを売りつけたりもするのだが、その客が払えそうな額しかふっかけない。

 ただ、占い方が少し変わっているという。

 客はまず半月仙女に会う。このとき、半月の形をした鏡と対面させられる。それから託宣とやらを授かるのだが、すぐに言われる者と、一旦帰され次の訪れで伝えられる者とあるそうだ。


「半月の鏡、ですか」

 草草が見やると、主人は心配そうにうなずいた。

 彼の気がかりは、いく度か話に出てくる『月』に、半月の『鏡』、これと『鏡月蛟』という仙の名が重なることだろう。占い師が、偽物とは断じきれない訳もあるようだし、仙女の娘は嘘だとしても――

 と坊ちゃんは、話が長くなったせいか二個目の林檎をむきだした、美麗な仙に目を向ける。


「ねえ虹蛇、もしもだよ。半月仙女も鏡月蛟の子孫だったとして、人を騙すような事をしてたら、この仙はどう思うかな?」

「気にしないと思いますよ。子でも孫でも、ひ孫でもないんだし、薬仙堂の一族じゃなければ仙山と関わりもないですからねぇ。でも、あんまり嫌な奴なら喰い殺すでしょうけどね!」

 歯切れよく言いきり、ふんっと鼻を鳴らした仙の姿を見て、主人は気を軽くしたようだ。フフフと笑い声を出す。


「坊ちゃん、そろそろ朝飯にしましょう。飯はちゃんと食べなきゃいけません」

 ここで鋭い眼光が、薬湯の減りを確認したのち、草草を見た。

 この意見に同意したらしい。坊ちゃんへと向かっていた切れた林檎はさっと引っこみ、虹蛇と、ついでに狼君の口に一瞬で納まる。

「では準備を」

 主人も麗しい笑みを残して立ち去ってしまう。


 もう少し聞きたい事はあったのだが、自身の腹が「くぅ」と鳴り、草草も食事は大事とうなずいた。





 暖かさもだいぶ増し、表の通りを一本、二本、奥に入ると、子らの遊ぶ姿がある。戸を開けて、内職に励む者もちらほら見える、とある里弄りろうの昼下がり。(里弄は、割棟長屋が並ぶ住宅区画のこと)


 そこを、只ならぬ三者が闊歩する。


「か、母ちゃん、白龍の使者様がいる!」

「何言ってるんだよ、家の手伝いもしないで。こんな貧乏里弄に使者様が来るわけ……ちょ、ちょっと婆ちゃん、見てごらん! 何だかすごい人たちがいるよ!」

「昼間っから何を騒いでるんだよぉ。へえっ?!」


 いささかほこりっぽい路地が、坊ちゃんの目を痛めるのではと嫌なのだろう。恐ろしげな武人の、眼光がギラリと煌めくと、固唾を飲んで見守っていた子らはびくりと縮こまる。

 住人称する貧乏里弄が、坊ちゃんには相応しくないと思ったか。美麗な策士の眉がくいっと持ち上がると、見蕩れていたはずの、女房方の肩もびくっと跳ね上がる。

 しかし、連なる家に目を輝かせ、ほほ笑む清らかな貴人を見れば、女房子らのこわばりは解け、老人方は手を合わせる。

 つまり、いつもどおりの騒動を巻き起こしながら、進む三者の歩みはぴたり、一軒の前で止まった。


「坊ちゃん、ありましたよ」

 看板代わりなのだろう。軒先に、半月の形の板がぶら下がり、彫られた仙女の姿もある。戸口と窓には不思議のさまを装うためか、さまざまな色の布も垂らしてある。

 ここが半月仙女の住まいのようだ。


「女と鼠の臭いがします」

「霊か妄念かねぇ。大したのじゃなさそうだけど、妙な気配はありますよ」

 それぞれに鼻を鳴らし目を尖らせ、二人の仙が草草を向いた。

 女の臭いは、この家の住人のものだろう。鼠も……住んでいるかもしれない。妙な気配とやらは占いに関わっているのか。

 ともかく見てみればわかるだろう。

 うん、とうなずき戸口へ一歩、足を出す。


「坊ちゃん、占いは止めましょう。こんなところで長々と喋ったら、のどを痛めるかもしれません」

 いつものごとく横に揺れる迫力顔が、その行く手を遮った。

 このたび心配性な守役は、臭いや気配より、戸口のさんに溜まったほこりの方が気になるようだ。

 もう一方のこだわりのある守役も、こんな家に入ったら坊ちゃんの着物が汚れる――とか何とか言いだすよりも前に、草草はにこり。


「狼君が占ってもらったらどうかな?」

「狼君が、ですか?」

「それなら坊ちゃんは喋らないから、いいですね」

「いいってあんた、何を占ってもらうんだよ?!」

 納得顔になった狼君の横で、虹蛇が思いきり困惑した。


 実は今日、半月仙女を訪ねたのは、託宣とやらが欲しいのではなく、占い方を見るためであった。

 なぜかといえば薬仙堂の主人から、占い師が偽物とは断じきれない、こんな話を聞いたからだ。


 とある商家の娘は、縁談話が持ち上がり、密かに想う別の者へ、届くことのない文をつづって焼き捨てた。

 この切ない秘め事を、半月仙女は言い当てた。

 また別の商家に仕える侍女は、腹の立つことがあると、掃除のとき、お嬢様の寝室の枕を叩きつけていた。

 この内緒の憂さ晴らしも、半月仙女は言い当てた。

 さらにとある商家の、主人の妾は、買ってもらった真珠と翡翠のついた帯飾りを、売り払おうと思いたった。

 このちゃっかりとした企ても、半月仙女は言い当てた。


 主人曰く、これらの客には共通点があるそうだ。

 一つは占いの際、一旦帰され次の訪れで託宣を授かったこと。

 この間に、客を探ることはできるだろう。が、言い当てた行為は、誰の目も無かったであろう場所での出来事であった。妾に至っては考えただけ、せいぜい自室で呟いたくらいか。

 これをどうやって、半月仙女は言い当てたのか。

 ついでにどうやって、主人は秘密の話を彼女たちから聞きだしたのか。こちらもちょっぴり気になる。


 もう一つは、みながそこそこ若く、それなりに美しい女であること――あくまで主人の言である。

 ともかく不可思議な託宣を、男が授かることはないらしい。ならば自分たちの、誰が占ってもらっても変わりない。

 草草は興味深々、狼君を見やった。


「それで、何を占ってもらうの?」

「何も考えてません」

 虹蛇のほうがいいだろうか。まあ、いいか。

 坊ちゃんは、縦とも横ともつかない感じに首をふると、納得顔と困惑顔の守役たちを引きつれて、半月仙女の下へ乗りこんだ。




 垂れ下がる布をいく枚かめくると、うす暗い、けれど案外すっきりとした部屋に出る。

 小さな卓を挟んで女が一人、こちらを向いて座っている。

 目元や頬に濃い化粧をし、頭からも布を垂らして被っている。たくさんの色を使った着物は、なかなか凝った作りのようだ。

 全体的に、仙女、とは言えないまでも占い師らしい雰囲気は充分に出ている。


「……よう、こそ、いらっしゃいました」

 半月仙女は三人を見てぎょっとして、ぼうっと見蕩れ、ぽかんと口を開いた。が、それはわずか一瞬のことであった。すぐさま澄ました顔を作り、どうぞと席を勧めてくる。

 薬仙堂の主人は彼女の歳を十七、八と断じたが、それほどの若さで、大した胆力の持ち主のようだ。


 占ってもらう狼君が半月仙女の前へ、草草と虹蛇は後ろの椅子へ、座ろうとしたとき、

「坊ちゃん、あっちの娘は少し勘が鋭いみたいですよ」

 耳元で、そっと声がささやく。

 切れ長の目の向いた先には、半月仙女、ではなく、三人を畏れ恐れた風に縮まっている、さらに若そうな娘がいた。

 こちらは装いも地味だし部屋の隅にいるので、お付きの者といった感じだろうか。しかし勘の鋭い、おそらく真の占い師は、彼女のほうであるらしい。


 なるほど、と草草は、腰掛けながらうなずいた。

 胆力ある娘と、霊感のある娘。はったりまがいの占いを商売とするには、よい組み合わせだと思ったのだ。

 ここに不可思議な鏡が加わって、よく当たると評判の半月仙女となるわけか。


「仙女の母からもらい受けた半月鏡。この鏡で、あなた様を見通します」

 半月仙女の役をこなす胆力ある娘が、もったいぶった手つきで胸元にかざしたのは、半月の形をした鏡――いや、半分に割れた鏡であった。


 見やれば、草草の位置からは、ちょうど虹蛇の顔が収まっている。にっこり笑うとなぜだか照れたらしく、鏡の中の目のふちが、赤く染まる。

 正面に座る狼君には、自身の顔が見えるだろう。特に思うところはないようで、偉丈夫の背中は微動だにしない。

 占いは、この状態で始まるらしい。


「では、本日はどんな事を占いましょう?」

「何も思いつかない」

「……では、悩み事や相談事はありますか?」

「ない」

「……家族は?」

「いない」

「…………仕事は何を?」

「仕事? 仕事はしてないな」

 ないない尽くしの、取りつく島もない問答が続く。


 と、ゆらり、鏡面が揺れた。

 ゆら、ゆらり。ゆらぎが収まると、鏡には美麗な仙に負けないくらい、美しく優しげな男の顔が、ちょうど半分現れた。

 すると、隅にいた霊感のあるらしい娘の体が前のめりになる。食い入るように鏡を見つめる。

 もちろん草草も、見きわめようと鏡を見る。頭を動かし眺める位置を変えてみるも、半分の顔は動かない。

 ということは、男は鏡に映っているのではなく、鏡の中にいる。これが鏡に憑く、霊か妄念なのだろう。


 再び、ゆらり、ゆらり。

 今度はこの位置からは見えないはずの、狼君が映った。

 鏡に見入っていた娘は、眼光鋭い武人の姿を恐れたのか、その身を引く。

 草草には、いつもどおりの見慣れた馴染みの守役だ。遠慮なく見やり、しかし何かがおかしい気がする。

 さらにじっと見つめていると、なぜだか時おり鏡面は、さっと一瞬暗くかげる。


 さっ、さっ、ぱちり、ぱちり、さっ、ぱちり――


 かげりと自身のまばたきが重なり、そうか、と気がついた。

 今、鏡に映っているのは、憑いた男の視界なのだ。

 鏡面の狼君をいつもどおりに感じたのは、反転していないせいだ。

 そして妙だと思ったのは、鏡に映る狼君が、こちらをまったく見ないからだ。鏡越しに大事な坊ちゃんが見えたなら、この守役が目を向けないはずはない。


 またしても、ゆらり、ゆら、ゆら。

 憑いた男を見たせいか、片方の眉だけを持ち上げた虹蛇が映り、鏡は元に戻ったようだ。

 と同時に、霊感のありそうな娘が、首を小さく横にふった。


 草草は指を一本、唇の前で立てた。

 不可思議な託宣のからくりは、おおよそわかったように思う。


 この男の霊か妄念は、鏡をのぞき見た者に、憑いていくことがあるのだろう。すると男の視界が鏡に映る。

 密かに恋文を書いたり、隠れて枕を叩いたり、帯飾りを売り飛ばそうとほくそ笑んだりする姿を、だ。

 これを霊感のある娘が見、胆力ある娘が、半月仙女の託宣に利用したというわけだ。


 不可思議な託宣は、それなりに若く美しい女ばかりが授かっている。これは男の霊か妄念の、好みか。

 最後に、映るすべてを見ていたであろう、霊感の娘が首をふった。男が狼君には憑かなかった――当然だが、と仙女役に伝えるためだと思われた。


「坊ちゃんは、どこの誰よりも優しくて賢いからな」

 ふと草草が気がつけば、狼君は坊ちゃん自慢を朗々と繰り広げていた。

 いつの間にこうなったのか。

「それは素晴らしい若様に仕えましたね」

 仙女役が、うまい具合に合いの手を入れるものだから、守役の話は止まらない。


「大事な坊ちゃんには、何としても長生きしてもらいたい。人の体にいい物を、何か知らないか?」

 今度はなかったはずの相談事まで引きだされた。

「いろいろとありますが、大切なのは、若様が楽しく過ごすことでしょうか。病は気から、とも言います」

 この答えは、坊ちゃんの体ばかりに目が行きがちな守役の意表をつき、根は坊ちゃん至上主義の守役の、意に沿うものであったようだ。

 それぞれが重々しく、満足げに、うなずく。


 守役たちを手玉に取った――

 仙女役の娘の手腕に坊ちゃんは、感心がてらしみじみうなずく。


 客らが納得した様子を見て取り、ここが締め時だと判断したのか。あるいは、ここで打ち切らなければ武人の話は止められず、策士の参戦までを察知したのか。

 ぱたり。仙女役の娘は、半分に割れた鏡を卓に伏せた。鏡背を飾る螺鈿らでんが、うす暗い部屋にゆらりと光る。


「若様は、きっと幸せに生きるでしょう」

 長生きするともしないとも言わず、主観や気の持ちようでどうとでも変わる、けれど守役たちの喜ぶ言葉でくくると、

「若様に幸運が訪れるように、いい御符を渡しましょう」

 と言い添えた。

 この仙女役は商魂もたくましい。只ならぬ三者にも、しっかり何かを売りつけるようだ。

 御符とやらを取るためか、霊感の娘は奥の部屋へ。


「少し前に、白龍の使者様が現れましたね」

 雑談なのか何なのか。仙女役の娘が、少し、唐突な感じに切りだした。

 彼女曰く、半月鏡は、由緒ある道観のそばで、妹が授かった物であるという。

 由緒ある、古びた、草草たちが空を翔ったために屋根が壊れた道観で、だ。


 鏡は、男の霊か妄念の憑いた、いわく付きの代物だ。道観に納められていても不思議ではない。

 白龍の使者を演じた日、草草たちは屋根を壊し、ついでに封じの結界か何かも破ってしまったのだろう。何せ大狼が仙の風を巻き起こし、仙の大蛇が舞ったのだ。

 そして鏡は道観から飛びだし、仙女役の妹――おそらく霊感のある娘だろう、が拾ったというわけだ。


 坊ちゃんの顔に、ぬるい、ぬるい、笑みが浮いた。

 この小さな騒動の元は、自分たちであったらしい。

 そしてなぜ、こんな話をして聞かせるのかと疑問にも思う。


「空を飛ぶ白龍様には、母も乗ってたんでしょう。仙女からもらった半月鏡……私たちには強すぎる物かもしれません」

 仙女役の娘は、半分の鏡に目を落とす。

 その顔は、面倒臭そうな、忌々しそうな。どうにも鏡を嫌っているように見える。


 なぜ、大切な商売道具であるはずの鏡を、そんな風に見るのか。

 そしてなぜ、客にそんな顔を見せるのか。


 草草の小首がちょいと、かしいだ。





 薬仙堂へ戻ると、まずは一服。


「甘くて、すっきりしてて、おいしいねぇ」

 草草は洒落た硝子ガラスの器を置いて、半月仙女の占いが早速当たったわけでもないが、幸せそうに笑った。

 器に入っているのは、昼間暖かかったからと主人が用意してくれた、林檎をすり下ろした冷えた果実水だ。


「ああ、これはおいしいね!」

 守役たちもお気に召したらしい。美麗な顔には煌びやかな笑みが広がり、鋭い眼光は鋭いままに、おかわりを所望する。

 ついでに、

「坊ちゃんの体にも良さそうだ」

 と、作り方を聞いたりもしている。きっと来仙の薬仙堂に植えた、梨と蜜柑、茘枝ライチでも、おいしい果実水が飲めるに違いない。

 ふふふ、と坊ちゃんは嬉しげに笑う。


「半月仙女の占いは、いかがでしたか?」

 皆がひと心地ついたころ、見目麗しい主人が問うてきた。

「ちょっと霊が見えるくらいで、大した占い師じゃなかったねぇ」

「坊ちゃんが幸せに生きるのは当たり前だ。当たるとは言えないな」

 美麗な仙はふふんと笑い、迫力顔は横にゆれる。


 守役たちは、半月仙女の言葉にずいぶん得心した風であったはずだが、まあいいか。

 草草は占いの様子を、騒動の元は道観を壊した自分たちであったことも含めて、にっこり笑って話して聞かせた。

 すると、

「さすが草草様、良いことをなさいましたね」

 なぜだか主人は褒め称える。

 続けて曰く、半月仙女に母はなく、父と妹が一人いる。


 どうやら、草草たちが半月仙女の下へ乗りこんでいたとき、主人は主人で得意の聞きこみに励んだらしい。

 半月仙女の一家について、こんな風に教えてくれた。


 父は酒場の雇われ料理人で、酔っ払い客をどやしつける度胸もあり、腕っぷしもそれなりに強い。けれど片方の足を引きずっており、よい仕事には就けなかった。

 半月仙女は幼いころより酒場を手伝い、今では若いながらも化粧と客あしらいのうまさで、店で一、二を競う売れっ子だ。

 妹はおとなしい娘で、酒場勤めは向かなかった。けれど手先は器用らしく、縫い物で家計を助けている。

 日々の暮らしに余裕があるのでもないが、明日の食い扶持に困るほどでもない。この都ではごく普通の、そこそこ貧しく、たくましく、生きる一家であるそうだ。


「ですから草草様は、この家族に、新たな稼ぐ手立てを与えたのでございます」

 ただ道観を壊しただけである。妙な理屈のはずなのに、こうも堂々と言われると正しく思えてくるから不思議だ。

 見目麗しい顔がくいっと持ち上がると、美麗な顔も負けじとぐっと天を向く。


「それだけじゃないよ。坊ちゃんは、妹のほうに婿も与えてやったんだ」

「え? どういうこと?」

 思いも寄らぬ台詞を聞いた草草の、首がけっこう傾いた。つられたのか、美麗な顔もわりと傾く。

「若い娘が男の顔をあんなに見つめてたんだから、惚れてるんじゃないですか?」

「そう、か……」


 占いばかりに目を向けていたせいか、この考えにはちっとも思い至らなかった。するとどうなるのか。

 坊ちゃんの目の玉が、くるり、動きだす。


 霊感のある妹は、鏡に映るのが、美しく優しげな男から狼君に変わると、身をひいた。

 これは武人を恐れたのではなく、いや、恐れはしたかもしれないが、恋する男が消えて興味を失ったからか。

 仙女役の姉には、不可解な言動がいくつもあった。そのうち、鏡を嫌っている理由は容易に説明できそうだ。

 姉は半月仙女として商売をしている。当然、妹の霊感を知っており、信じてもいるわけだ。

 その妹が妖しげな鏡に心惹かれた。姉が思っていたよりずっと、魅入られてしまった。ならば心配し、鏡をいとうのはごく自然なことだと思う。


 うん、おかしくはなさそうだ。

 草草は硝子の器に手を伸ばし、のどを潤し、にっこりうなずく。

 見やれば、二人の仙は果実水を飲み干して、そろっておかわりを所望した。確か狼君は、三杯目ではなかろうか。

 それはさて置き、続けて先を考える。


 仙女役の姉は、妙な話を客にした。『白龍の使者が現れた際、妹が半月鏡を授かった』だ。

 この話は、『妹』を仙女役の姉に変えれば、半月仙女に箔がつく、よい宣伝になると思う。けれど妹のままに語った。

 きっと、客の目を妹に向けるためだ。

 話し始めたのは、妹が御符を取りに奥の部屋へ、姿を消したときだった。

 つまり、妹には聞かれたくない。

 そして『自分たち』に話して聞かせた。客あしらいのうまい、客の様子をよく見る姉だ。こちらには霊か妄念が見えていたことを、察したに違いない。


 これらをつなげると、『姉は道士らしき人物に、鏡に魅入られた妹のことを密かに相談したかった』となるのか。

 何だか、漠然としているが――


「あの道観の屋根は、まだ直ってなかったぞ。せっかく坊ちゃんが金を出したのに、いつ直すんだ?」

 狼君が眼光鋭く不満げに、主人を向いた。硝子の器か空なのも影響しているのだろうか。

「それは、道士様が皇帝陛下に呼ばれていたからでございます」

 主人は困った風に首をふりつつ、これまでより倍は大きな陶器にたっぷり注いだ果実水を、迫力顔の前に置く。

 眼光が、やわらぐ。

 草草はぬるい笑顔を浮かべつつ、話に耳を傾ける。


 壊してしまった道観は、由緒ある、古びた、いわく付きの代物を封じることのできる特別なところであった。直すには、力ある道士が必要だ。

 この道士が、皇帝の命により城に呼ばれていたために、修繕が遅くなってしまったそうだ。ありがたい白龍の使者様を奉ずる、という命令でだ。

 坊ちゃんの、ぬるい笑顔は継続中である。


「ですが道士様はお戻りになりました。道観の修繕につきましては、すでに準備を進めておいででしたので、明日にも取り掛かかれるそうでございます」

 主人は美しい笑みで締めくくった。


 なるほど。草草は小首をかしげて、こめかみをつついた。

 姉はおそらく、これらを知っていたのだろう。三人の訪れも、道観に関わる者が探りに来たのでは、と考えたと思う。

 すると姉の言動は、『道士らしき人物に、鏡に魅入られた妹のことを相談したかった』ではなく、『妹が被害を被っているから、厄介な鏡をどうにかしろ』となるのか。

 うん、とてもわかりやすい。


 では、妹はどうか。

 妹は半分の鏡の、半分の顔の男に恋をしている。ならば両方合わせた顔を、見てみたいとは思わないだろうか。

 あるいは、割れた鏡を合わせれば、男に会えるかもしれないと考えたりはしないだろうか。

 道観の修繕は明日にも始まる。姉と父には夜の酒場の仕事がある。すると妹は、今夜一人きりになる。


「ねぇ、夜になったら道観に行ってみたいんだけど」

 小首をかしげた草草に、ぐっと力のこもった眼光が向く。

 これを待てと止めたのは、美麗にほほ笑む仙だった。

「狼君、坊ちゃんは道観に行きたいんだよ」

「……」

 美麗な顔と迫力顔が、じっと、じっと、見つめ合う。

 守役たちの脳裏に思いだされているのは、たぶん――


『大切なのは、若様が楽しく過ごすことでしょう』


「坊ちゃん、夜、道観に行くのは楽しいですか?」

「もちろんだよ」

 迫力顔に凝視された草草は、にっこり笑って大きくうなずく。

「じゃあ……行きましょう」

 心配性の狼君が、力強く首肯した。


 それから、

「焔龍の吐息は、絶対に忘れちゃいけないな」

「林檎の果実水も持っていこうか?」

「いや、坊ちゃんの腹が冷えるといけない。白湯のほうがいいだろう」

「じゃあ、小腹が空いたときのために林檎の飴と菓子、あ、待ち伏せするなら椅子かなんかも要るねぇ」

「座布団もあったほうがいいな」

 守役たちの、いつも以上に気合いの入った大支度を横目に、坊ちゃんは思った。


 半月仙女は、すばらしい占い師である。




 ――そして、夜。


 うっすらと雲をかぶった半月の明かりが、古びた道観の、壊れた屋根からゆらぎ射しこむ。戸口と部屋の半分を、淡々と照らす。

 部屋の真ん中の、光と影の境目に、半月の螺鈿の模様がゆらりと光る。道観に残ったほうの、もう半分の鏡だ。


 影に座った草草たちの姿は、暗がりに沈んでうまく隠れた。

 椅子があり、ふっかりとした座布団がある。小さな卓には湯のみと干菓子。

 いったい何をしに来たのか。


「坊ちゃん、のどが渇いたり小腹が空いたら言ってくださいね」

 草草が、隣の椅子にいるであろう虹蛇を向くと、金色の瞳が二つ、細まる。

 闇の中、坊ちゃんに湯のみや菓子を取ってやるつもりだろう。

「厠に行きたいときは言ってください」

 今度は反対側の、床に座っているために少し低い位置を向く。狼君の、二つの青い目が煌めく。

 こちらはきっと、闇夜で転ばないようにと、坊ちゃんを抱えて運ぶ気に違いない。


 後ろには、こんもりとした山がひとつ。眠くなったときのために布団まで、一式用意されていた。

 もし、坊ちゃんがここで寝てしまったとしても、明日の朝は薬仙堂の客室で、清々しく目を覚ますこと請け合いであった。


 さて、たぶん来るであろう妹を待つ間、何をしよう。

 草草が辺りを見ると、暗闇に浮かぶ螺鈿が目に留まる。というより、それ以外はよく見えない。

 では、あの鏡について考えようか。


「ねえ、虹蛇。あの鏡に憑いてるのは、霊なの? それとも妄念?」

「あれは妙な術のかかった鏡に、さらに霊が憑いたんでしょうねぇ」

「ふぅん」

 かぶる雲が動いているのか。半月の光にゆらめく螺鈿を見ながら、草草はうなずく。


 まず、あの鏡は裕福な人物が、外術使いか何かを雇って作った品であると思う。

 鏡の飾りは美しい。そして鏡の、あの仕組みだ。

 憑いた男の視界が映る。映るということは、それを見る者がいるということだ。いわば、のぞきの鏡である。

 今、鏡は半分に割れている。鏡の力も半分、どころかずっと弱まっているはずだ。ほかにも仕掛けはあるかもしれない。

 そこへ、霊が憑いた。おそらく鏡に思い入れのある、よく使っていた者だろう。

 けれど、と草草は、闇の中で小首をかしげた。


「坊ちゃん、眠いなら布団を敷きますよ」

 夜目の利く二人の仙には、頭の傾きが見えたようだ。取り掛かろうと動きだした気配を止める。ついでに白湯をもらい、のどを潤す。

 夜の外出で守役たちの心配も高まっている今、首をかしげてはいけなかった。

 坊ちゃんは、まっすぐになって考える。


 鏡に憑いているのは、本当にあの男の霊だろうか。あれはのぞきの鏡だ。美しい男が使うというのは、どうもピンとこないのだ。

 傾きそうな首をこらえた草草は、二人の仙に問いかけた。


「鏡に憑いてるのって、あの男の人の霊?」

「どうでしょう? もっと年寄りの気配がしましたねぇ」

「男の臭いはしませんでした」

 やはり。草草は得心した。

 思い返せば、半月仙女の家の前で、狼君は「女と鼠の臭いがする」と言った。

 占いの際、鏡に映った男の、半分の顔を見たあとで、虹蛇の眉は片方だけが上がっていた。あれは男の姿と気配の違いを、怪訝に思っていたからか。

 じゃあ、と口を開きかけたとき、

「坊ちゃん、来ました」


 少しして、道観の扉のほうが、ギィと開いた。


 恐る恐る、身を縮めこめて入ってきたのは、草草たちが待っていた、半月仙女の妹だ。胸には半分の鏡を大事そうに、あるいは縋るように、抱えている。

 光と影の間に浮かぶ螺鈿を、彼女もすぐに見つけたようだ。ときおり足をもつれさせ、それでも鏡に向けて一心に歩く。

 そして、浮かぶ鏡と、胸の鏡を、震える両手がようやく合わせた。


 ゆらり、ゆら、り。

 美しく優しげな男の、左右そろった顔が鏡から出て、現れた。

 美しい顔はほのかな笑みを浮かべ、ただ、ただ、浮かべている。


 おかしいと、まぶたをこじ開け男を見ていた草草は、気がついた。

 あの顔は、まるで動かないのだ。それこそまばたきすら、しない。

 よく見れば、あごから銀色の、棒のような物まで伸びている。

 妹も、妙だと感じたのだろう。怖ろしくなったのか、震えた手から鏡がすべり、音を立てて床に落ちる。割れていたはずなのに、転がるそれは丸いままだ。


 ずる、ずる、り。

 続いて、にじり出てきた体は女の着物を羽織っていた。曲がった腰に、男のあごから伸びた棒を握る手は、皺と染みが浮いていた。


 動かない男の顔は、仮面なのだ。銀の棒は仮面の持ち手だ。

 本当の姿は――


「おまえ、何度も鏡をのぞいたね。この男に惚れたのか?」

 しわがれた、ざらりとした声が道観を這う。

「おまえ、それでは妃は務まらない」

 美しい男の仮面が傾くと、現れたのは真っ白な顔に、真っ黒な眉と、真っ赤な頬に唇だった。

「おまえ、わたくしの陛下には相応しくない」

 しゃべるたび、顔に亀裂が入って広がっていく。ひび割れて、ぼろりぼろりと化粧が剥がれる。

「おまえ、まったく相応しくない!」

 ひときわ大きな怒鳴りを上げると、白い顔が崩壊した。


 ひっ、と声なき声で叫んだ妹は、気を失ったのかどさりと倒れる。

 しなびた老婆は男の仮面を振りかざす。銀色の持ち手の先は、細く、鋭く、尖っている。

 切っ先が、妹に迫る。


「狼君!」


 ――ごうっ、ざあぁ。


 道観に、風とともに水まで舞った。

 水のほうは虹蛇の仕業だ。きっと顔面崩壊に至る化粧が、こだわりのある仙には許しがたかったのだろう。

 老婆の霊と術が混じった何ものかは、二人の仙の力でもって壊れた屋根を通り抜け、はるか天の彼方まで、飛んでいったようだった。


 この鏡は、『皇太后の鏡』という――これは後日、道観で聞いた話である。

 一応、坊ちゃんは修繕費用を寄進した立場であったから、道士は快く教えてくれた。もちろん壊した張本人であることは、絶対の秘密だ。


 そしてこの鏡だが、かつては女ばかりの後宮にあった。皇帝に相応しい者か否か。皇太后が、女たちを監視するために作った代物であるという。

 鏡はのぞき見た女を、しばし映すことができた。美しい男の顔は、女たちに鏡をのぞかせるためのようだ。

 ときには男が現れて、女を口説き、試すこともあったという。

 しかし、皇太后が亡くなると、鏡は変わった。女が滅多刺しにされ、殺されるようになったのだ。

 それでこの道観に、納められることとなった――


 草草は、壊れた屋根のすきまから、霊だか何だかが飛んでいった夜空を眺めた。

 かぶる雲は風に流され、半月が美しい。


「坊ちゃん、楽しかったですか?」

「うん、ありがとう」

 薄闇の中、草草は迫力顔と美麗な顔に、心のこもった笑顔を向けた。

 鋭い眼光はやわらぎ、涼しげな目のふちは、染まっているかはわからない。

「じゃあ、帰りましょう」

 大荷物を背負った狼君が、道観の扉を大きく開く。半月が、広く射しこむ。

 虹蛇に手をひかれながら道観を出る、と。


《誰だい、こんなものを妾に投げつけたのは!》

 突如、天から声が鳴りひびき、ふり仰げば、天之川が降ってきた。


 いや、よく見れば、それは天之川ではなかった。

 大きな体は、どこまでも長い。夜に流れる河ごとく黒く艶めく鱗には、星のような煌めきが混じる。顔の下辺りにあるのは、えら、だろうか。まるで二つの半月が、そこで輝いているようだ。

 きらきらとして、闇夜に慣れた目にはちょっとばかりチカチカする。

 そして、龍のような手があった。顔面の崩れた老婆の霊だか何だかが、ギリギリと握られていた。


《あんたたちかい、こんな悪さをしたのは! このくそ餓鬼が!》

 どう見ても、この勇ましいものは仙である。

 その証拠に、思いきり仏頂面の狼君と、盛大な舌打ちを鳴らした虹蛇に警戒の色はない。


「もしかして、鏡月こ」

 と、草草が言い終えるよりも前、

《まさか坊ちゃん? まあ! なんて美しい若者になったんでしょう》

「こんばんは、鏡月こ」

《まあぁ! なんて礼儀正しいんでしょう。あんたたちも見習いなよ》

「我らが坊ちゃんをそ」

《そうだ坊ちゃん、妾の背に乗って夜空を飛びませんか?》

「だめだ! 坊ちゃんはも」

《それとも仙河を登りましょうか?》


 こんな感じでしばらく誰も、坊ちゃんとの邂逅に、はしゃぐ鏡月蛟を止めることはできなかった。

 少しして、この仙が落ち着くと、はりきったときの虹蛇を三倍くらいおしゃべりにした感じかな、と草草はあくび混じりに思うのだった。


「もう坊ちゃんは寝る時間だ!」

《妾の上に布団を敷いて、寝かせてやればいいのさ。それならどこへだって行けるよ》

「我らは家に帰るんだよ!」

《来仙ならひとっ飛びだね。任せておきな!》


 二人の仙が鏡月蛟に四苦八苦しているころ、坊ちゃんは、虹蛇の背中で夢の中――


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