第十九話「魔物にも一服を」
エルフが巨大なロックホーンへ向かって走り出した。
「茶神様! その器を!」
主人公は器を差し出した。
「こぼすなよ。せっかく淹れたんだから」
「分かっています!」
「熱いから気をつけて」
「今それを言いますか!」
エルフは器を受け取り、魔物の突進を避けながら距離を詰めていく。
「おい! あのエルフ、何をするつもりだ!」
兵士が叫んだ。
「お茶を届けるんだと思います」
「そんなことは分かっている! どうやって飲ませるんだ!」
「さあ……」
「お前も分かっていないのか!」
エルフは魔物の側面へ回り込んだ。
しかし、黒い魔力が激しく渦巻き、近づくことさえ難しい。
「くっ……!」
魔物が角を振り回す。
エルフは身をひねって避けたが、器の中のお茶が揺れた。
「わっ!」
「茶神様! こぼれていませんか!?」
「そっちの心配か!」
兵士の怒鳴り声が飛ぶ。
エルフは一度距離を取った。
魔物の額にある黒い魔力は、まるで生き物のように暴れている。
「このままでは近づけません……!」
主人公は魔物を観察した。
黒い魔力が激しく膨らんでは縮み、魔物の身体を包み込んでいる。
「……やっぱり、あれが原因なのかな」
「茶神様!」
「魔力が落ち着けば、近づけるかもしれない」
「それなら、どうすればいいのですか?」
主人公は少し考えた。
「まずは、香りを届けてみよう」
「香りですか?」
「うん。無理に飲ませなくてもいい」
エルフは器を持ち直した。
「分かりました!」
エルフは風の魔法を使った。
器から立ち上る香りが、魔物の方へ流れていく。
最初は何も起きなかった。
しかし、しばらくすると魔物の動きがわずかに鈍った。
黒い魔力の渦が、一瞬だけ弱まる。
「今です!」
エルフが叫ぶ。
兵士たちが一斉に動いた。
「足を狙え! 動きを止めるんだ!」
しかし、魔物は咆哮し、地面を踏み鳴らした。
黒い魔力が再び激しく渦巻く。
「駄目です! まだ乱れが大きすぎる!」
主人公は器を見つめた。
「香りだけじゃ足りないのか……」
「茶神様! どうすれば!」
「飲んでもらうしかないのかな」
「だから、どうやってですか!」
主人公は少し考えた。
そして、エルフに向かって叫んだ。
「器を地面に置いてみて!」
「地面に!?」
「魔物の近くに。無理に飲ませなくていい!」
エルフは魔物の攻撃をかわしながら、器を地面に置いた。
「これでいいですか!」
「うん!」
魔物は器に気づいた。
巨大な頭がゆっくりと下がる。
鼻先が器に近づく。
「……飲むのか?」
兵士が呟いた。
魔物は器の中のお茶を見つめた。
そして、舌を伸ばした。
ぺろり。
「……飲んだ」
主人公が呟く。
魔物はもう一度、器を舐めた。
今度は器を持ち上げ、残っていたお茶を飲み干した。
その瞬間だった。
額に渦巻いていた黒い魔力が、ゆっくりと弱まっていく。
暴れていた魔力が静まり、巨大な身体の震えも収まっていった。
魔物は大きく息を吐いた。
「……落ち着いた?」
エルフが呟く。
主人公は魔物を見つめた。
「うん。少しだけ、元に戻ったみたいだ」
街に静寂が訪れた。
小型の魔物たちも、すでに動きを止めている。
兵士たちは武器を構えたまま、しばらく様子をうかがっていた。
「……終わったのか?」
「分かりません。まだ警戒を解かないでください」
エルフは魔物の様子を確かめた。
黒い魔力は完全に消えたわけではない。
それでも、先ほどのような暴走は収まっている。
「茶神様。あなたのお茶が……」
主人公は空になった器を見ていた。
「飲んでくれたな」
「はい!」
「よかった。せっかく淹れたのに、飲んでもらえなかったら寂しいからな」
「そこですか!?」
兵士長が近づいてきた。
「おい、茶神様!」
「はい?」
「今のは一体何なんだ!」
「お茶です」
「それは聞いた!」
「飲んだら、少し落ち着いたみたいですね」
「そんな説明で納得できるか!」
主人公は首を傾げた。
「でも、俺にもまだよく分からないんですよ」
兵士長は深く息を吐いた。
「……とにかく、助かった。礼を言う」
「いえ。俺はお茶を淹れただけですから」
「それが一番おかしいんだよ!」
そのとき、地面に伏せていたロックホーンが、主人公の方を向いた。
ゆっくりと頭を上げる。
兵士たちが身構えた。
しかし、魔物は襲ってこなかった。
ただ、主人公をじっと見ている。
主人公は少し考えた。
「……おかわり?」
魔物が小さく鼻を鳴らした。
「茶神様!」
エルフの声が響いた。
「もう茶葉はありません!」
「そうだった」
主人公は空の器を見つめた。
「残念だな」
兵士長はその場にしゃがみ込んだ。
「頼むから、もう何もするな……」
それから数日が過ぎた。
ロックホーンは街の外れにいた。
兵士たちは警戒を続けていたが、魔物は暴れることもなく、逃げ出すこともなかった。
食事を与えれば食べ、水を置けば飲む。
そして、主人公が近くを通ると、必ずそちらを向いた。
「……待っているんでしょうか」
エルフが言った。
「何を?」
「お茶を」
主人公は魔物を見た。
魔物も主人公を見ている。
「……おかわりかな」
「たぶん、そうです」
主人公は腰の袋を確認した。
残っている茶葉は、わずかな欠片だけだった。
「足りないな」
魔物は主人公を見つめたまま、動かない。
「……作るか」
「今からですか!?」
「うん。茶葉を摘むところから」
「この状況で!?」
兵士長が遠くから叫んだ。
「頼むから、せめて今日は休ませてくれ!」
主人公は魔物を見た。
魔物も主人公を見ている。
「待っててくれるか?」
魔物は、ゆっくりと地面に伏せた。
「……待つ気ですね」
エルフが呟いた。
「そうみたいだな」
主人公は茶葉のある場所へ歩き出した。
今度は、最初から作ってみよう。
葉を摘み、蒸し、揉み、乾かす。
そして、湯を注ぐ。
あの一杯で何が起きたのか。
もう一度、自分の手で確かめてみたかった。




