第26話 怒の鬼
深緑の風が、礼拝堂の中で渦を巻いた。
剣士リュオの細剣に、風が集まっていく。
ただの風ではない。
研ぎ澄まされた刃だ。
目には見えないはずなのに、肌が分かる。
あれに触れるだけで、斬られる。
いや、削り取られそうや。
リュオが低く構えた。
赤黒く濁った目が、俺を捉えている。
その奥には、屍の飢えと、仲間を失った怒りが混ざっていた。
「キサマヲ……クラウ……」
低く、潰れた声。
その声を聞いて、俺は『鬼軍曹』を握り直した。
次の瞬間、リュオが消えた。
いや、消えたように見えた。
深緑の風をまとったまま、一直線に突っ込んでくる。
細剣の切っ先が、俺の胸を狙っていた。
ただの突きではない。
逆巻く風を一点に集めた、必殺の一撃。
「っ!」
俺は『鬼軍曹』を正面に構え、迎え撃った。
赤熱する鬼軍曹と、深緑の風をまとった細剣が激突する。
ぎゃりぃぃぃぃぃっ!
耳をつんざくような音が、礼拝堂に響いた。
金属を削る音。
風が裂ける音。
熱が暴れる音。
赤と緑がぶつかり合い、空気が震える。
熱風が巻き起こり、礼拝堂に残っていた土煙を吹き飛ばした。
「ぐ、ぅぅぅっ……!」
重い。
想像以上に重い。
リュオの突きは、細剣とは思えないほどの圧を持っていた。
風が剣先にまとわりつき、『鬼軍曹』を削ってくる。
ぎりぎりと、黒い金属の表面に傷が刻まれていく。
俺の腕が軋み、肩が悲鳴を上げる。
足元の床が割れる。
戦闘用ビジネススーツが衝撃を逃がしているはずなのに、それでも体の芯まで響いてくる。
「お、おおおおおっ!」
押し返そうとする。
だが、リュオの風がさらに強まった。
細剣の先から放たれる深緑の風が、俺の体を切り裂く。
戦闘用ビジネススーツの胸元が裂け、腕部分も裂ける。
腕に、鋭い痛みが走る。
血しぶきが飛んだ。
「くそっ……!」
押されている。
足が後ろへ滑る。
一歩。
さらに一歩。
床に靴底の跡が刻まれる。
リュオの細剣は止まらない。
深緑の風が、牙を剥くように唸っている。
だが。
俺は、耐えていた。
ただ押されているわけではない。
怒の鬼の本質は、受けたダメージを『鬼軍曹』へ蓄積することにある。
怒りを溜めるみたいに。
痛みを喰らうみたいに。
受けた分だけ、赤い光が濃くなる。
『鬼軍曹』に蓄積されるダメージと熱が、内側で膨れ上がり、表面に走る亀裂が、赤から赤黒へ変わっていく。
「まだや……」
俺は歯を食いしばった。
「まだ、足りん……!」
リュオの風がさらに食い込む。
肩から血が飛び散る。
腕が痺れ、握力が抜けそうになる。
それでも、離さない。
ここで離せば、終わる。
ここで耐え切れば、勝てる。
怒の鬼は、臨界まで溜めなければ真価を発揮しない。
中途半端に振れば、ただの赤熱した鉄塊だ。
だが、臨界点に達した瞬間。
並の防御なら意味をなさない、破壊特化の一撃になる。
相手を確実に壊すための力。
その一撃を放つために、俺は耐えていた。
「ぐぅ……おおぅっ……!」
鬼軍曹が、甲高い音を立てた。
びきっ。
表面の赤黒い亀裂が、一気に広がる。
鬼面の目が、赤く灯り、口から蒸気が爆ぜる。
怒の鬼が、吠えた気がした。
「……きたっ!」
俺は叫んだ。
次の瞬間、俺はリュオの細剣を『鬼軍曹』で巻き取るようにかち上げた。
深緑の風ごと、剣の軌道を上へ逸らす。
「っ!?」
リュオの体勢が崩れ、胸元が空いた。
「吼えろ!」
俺は赤熱する『鬼軍曹』を握り締めた。
「怒の鬼!!」
鬼面の口から、赤黒い蒸気が噴き上がる。
空気が震え、床が軋む。
俺は全身の力を込めて、一歩踏み込んだ。
「怒の鬼――臨界砕!」
振り抜こうとした、その瞬間。
横から、弓士ミリカが飛び込んできた。
「なっ……!」
ミリカは、リュオの前へ身を投げ出すように割って入った。
弓を手放し、両腕を広げる。
リュオを庇うように。
屍になっても。
赤黒く濁った目でも。
それでも、仲間を守ろうとしていた。
一瞬。
本当に一瞬だけ、俺の腕が止まりかけた。
だが、奥歯を噛みしめる。
ここで止めたら、終わらない。
こいつらは、ずっとこのままだ。
飢えて、さまよって、仲間を失った痛みだけを残して、誰かを襲い続ける。
それは、救いではない。
「すまん」
俺は低く呟いた。
「終わらせるで」
振り抜いた。
赤熱した『鬼軍曹』が、ミリカごとリュオへ叩き込まれる。
直撃の瞬間、音が消えた。
赤黒い光が爆ぜ、遅れて衝撃が礼拝堂を揺らした。
どごおおおおおおおおんっ!
赤熱した衝撃波が、床を抉り、長椅子を吹き飛ばし、壊れた祭壇を砕く。
壁に亀裂が走った。
次の瞬間、教会の側面に大穴が開いた。
外の赤黒い光が、そこから差し込む。
熱風が吹き抜ける。
俺の腕が、限界まで痺れた。
「はぁっ……はぁっ……」
俺は荒い息を吐いた。
怒の鬼の赤熱は、ゆっくりと薄れていく。
鬼軍曹の表面からは、まだ白い蒸気が上がっている。
目の前の床は、赤く焼けていた。
抉れた床。
砕けた石。
焦げた木材。
その先に、二つの影が倒れている。
リュオとミリカだった。
二人は、もう立てる状態ではなかった。
体は半ば崩れ、黒い灰が少しずつ零れ始めている。
それでも、まだ完全には消えていない。
ミリカは、上半身だけになりながら、リュオに折り重なるように倒れていた。
かすれた声が、礼拝堂に落ちる。
「リュオ……」
ミリカの赤黒い瞳が、わずかに揺れた。
「ヤット……オワレル……ネ……」
リュオが、ゆっくりと顔を向ける。
赤黒く濁っていた目が、ほんの少しだけ澄んだように見えた。
「……アア」
短い返事。
リュオは、残った腕を伸ばした。
ミリカの頭に、そっと触れる。
長い旅を終えた仲間を労わるように。
もう大丈夫だと伝えるように。
その指が、ミリカの髪をゆっくり撫でた。
ミリカの口元が、微かに緩んだ。
次に、リュオが俺を見た。
俺は、何も言えなかった。
ただ、『鬼軍曹』を床に立てる。
そして、静かに両手を合わせ、目を閉じた。
こいつらが何者だったのか、俺は詳しく知らない。
どんな旅をして。
どんな仲間で。
どんな夢を持っていたのかも知らない。
でも、エネは彼らを英雄だと言った。
誰かからそんな言葉を贈られるくらいや。
きっと、生きていた頃は善良で、誰かを守ってきた奴らやったんやろう。
なら、せめて。
終わったあとくらいは、この英雄たちのために祈らせてほしい。
どうか、安らかな眠りでありますように、と。
礼拝堂の中に、静寂が落ちる。
崩れた屋根から、赤黒い光が差し込んでいた。
俺はしばらく、その場で黙とうした。
目を開けた時、リュオの顔に、もう飢えはなかった。
怒りもなかった。
ただ、穏やかな笑みを浮かべていた。
まるで、礼を言うみたいに。
次の瞬間。
リュオとミリカの体が、静かに灰へ変わっていった。
黒い灰が、礼拝堂の床にさらさらと落ちる。
剣と弓だけが、そこに残った。
「……もし」
俺は、灰になっていく二人を見つめながら呟いた。
「もし、来世なんてもんがあって、もう一度出会う奇跡があるなら」
喉が、少しだけ詰まった。
「一杯おごらせてくれや……」
返事はない。
ただ、灰が静かに舞っていた。
俺はしばらく、そこから動けなかった。
◇
少しだけ、時間は遡る。
善一郎とエネが、教会の屋根へ向かった直後。
シルビアは、教会前の広場に停まっていた。
周囲には、まだ屍が蠢いている。
だが、シルビアの車体に近づく前に、またたびが軽く車体を振るだけで、屍たちは吹き飛ばされていた。
『ギンコ』
運転席から、またたびの声が通信具越しに響く。
『坊主のお守りをしなくていいのか?』
ギンコはシルビアの屋根の上に立っていた。
黒ぶち眼鏡の奥で、町の奥をじっと見つめている。
「善一郎様なら、心配いりません」
『信頼してんのか?』
「評価しているだけです」
『素直じゃねぇな』
「それより」
ギンコは小さく鼻をひくつかせた。
風の匂いを嗅ぐように。
町の奥。
崩れた建物の影。
屍の群れに紛れ込んだ誰かを探るように。
「……やはり、いますね」
『何がだ?』
「我々の同業者ですよ」
ギンコの声が、いつもより少し低くなる。
『ほぅ、視察ってところか』
「ええ。どうやら近くにいるみたいなので」
ギンコは尻尾をゆっくり揺らした。
その口元に、いつもの商売用の笑みではない、薄い笑みが浮かぶ。
「少し、ご挨拶をしようと思いまして」




