第16話 十億の仕事
通話が切れた。
教会の中に、妙な静けさが落ちる。
さっきまでスマホ越しに聞こえていたパンチ親父のねっとりした声が消えたことで、ようやく張り詰めた空気が戻ってきた気がした。
だが、俺の頭の中には、最後の言葉だけがこびりついて離れない。
成功報酬、十億円。
サラリーマン時代なら、一生かかっても縁のない金額や。
いや、一生どころか、来世でも来来世でもたぶん縁がない。
それが、今俺の目の前にぶら下がっている。
「……十億」
思わず、口から漏れた。
その横で、エネが震えていた。
恐怖ではなく、感動で。
「神託……」
「はい?」
「今の声は、神より遣わされた御声なのですね。救世主様に、西の森を救えと神託が下されたのですね……!」
「違う。あれは神託やない。借金取りの上司からの業務連絡や」
「業務……?」
「いや、そこは深掘りせんでええ」
エネは両手を胸の前で組み、涙を浮かべている。
「これで……これで、我らは救われるのですね……」
「まだ何も決まってへんからな?」
「しかし、先ほどの御声は、救出と討伐を命じられました」
「命じられたというか、勝手に仕事にされたというか……」
俺は頭を抱えた。
体はまだ痛い。
過強化反動とやらのせいで、立っているだけでもしんどい。
屍の王を倒した達成感はある。
だが、その反動で全身が悲鳴を上げている。
そんな状態で、次は西の森。
エルフの国に聖獣救出。
おまけに森の主の討伐。
話が大きくなりすぎて、頭がバグりそうや。
俺はただ、借金返済のために出稼ぎに来ただけの男やぞ。
「ギンコ」
「はい」
「正直、どう思う?」
俺は黒ぶち眼鏡の狐を見る。
ギンコはプリンの容器を名残惜しそうに片づけ、完全に仕事の顔になっていた。
さっきまでプリンの芸術性を語っていた狐とは思えない。
「受けるべきです」
即答かい……。
「お前、さっきリスク管理どうこう言うてたやないか」
「リターンが明確になりました。この仕事を蹴る理由がありません」
「いや、あるやろ。俺の体ガタガタやぞ」
「絶対的な拒否理由にはなりません」
「出た、鬼畜狐!」
ギンコは淡々と続ける。
「善一郎様。あなたはもう、三日前の仕事のできない新人ではありません」
「仕事のできない新人扱いされてたんか、俺」
「そうですが?」
「……まあ、そうやな」
「ですが、今は違います。三日間で大量の戦闘経験を積み、屍の王すら討伐した。今回の案件はかなりの高リスクです。ですが、そのリスクを抱える下地は十分ありますし、なによりこの話は魅力的です」
「十億か」
「はい。十億円相当の成功報酬。これを返済に充てれば、借金完済へ大きく近づくチャンスです」
「……」
「そして、チャンスに食らいつくのも、よいビジネスマンの条件です」
俺は眉をひそめた。
「堅実さも、よいビジネスマンの条件やろ」
「もちろんです」
「なら、今の俺は休むべきや。体ガタガタやぞ」
「休養は必要です。ですが、案件を受けない理由にはなりません」
「ブラック企業の管理職みたいなこと言うな」
「善一郎様。仕事とは、時に無茶を含みます」
「その思想がブラックなんやって」
俺は深く息を吐いた。
十億は魅力的だ。
それは間違いない。
十億あれば、百億の借金が一気に一割減る。
さっき一億七千万返済して、ようやく道が見えたばかりだ。
そこに十億。
こんな案件、普通なら飛びつく。
借金持ちとしては、喉から手が出るほど欲しい。
だが。
エネを見る。
彼女は、祈るような目でこちらを見ていた。
白に近い金髪。
疲れた顔。
必死にここまで来たのだろう、汚れた外套。
その瞳には、俺にすべてを託すような光が宿っている。
重い。
重すぎる。
俺は救世主じゃない。
国を救う覚悟なんてない。
でも。
昔、母さんに言われたことがある。
困っている相手を、笑って見捨てるような男にはなるな。
特に、女の人が本気で頭を下げている時は、茶化さず、真面目に向き合いなさい。
助けられるかどうかは別として、まず話を聞け。
逃げるにしても、誠実に逃げなさい。
妙な教えやと思っていた。
けれど今、その言葉がやけに頭の奥に残っている。
エネたちの境遇には同情する。
国の半分が屍化した。
森そのものが敵に回った。
聖獣が三年守り続けて、もう限界。
そんな話を聞いてしまった。
そして、目の前の女は、俺に頭を下げている。
俺が見捨てたら、きっと後味は最悪やろな……。
十億。
借金。
人助け。
恐怖。
責任。
いろんなものが頭の中でぐちゃぐちゃに混ざる。
「……ああ、もう」
俺は頭をかいた。
「分かった」
エネが息を呑む。
「善一郎様……?」
「救世主として行くんやない」
俺は彼女を見る。
「俺はそんな大層なもんやない。正直、森の主とか言われても、何それ怖いとしか思えへん」
「……」
「でも、十億の仕事や。借金返済のために受ける」
俺は少しだけ言葉を切った。
「それと……目の前で泣いてる人を、見なかったことにできるほど、俺の人間性はまだ死んでへん」
俺の体は人間やめてもうたけどな。
エネの瞳が揺れた。
次の瞬間、彼女は深く頭を下げる。
「ありがとうございます……ありがとうございます、救世主様……!」
「だから救世主ちゃうって」
「いいえ。あなた様は、やはり救世主様です」
「頑固やな、このエルフ」
ギンコが横で眼鏡を押し上げた。
「契約成立ですね」
「お前、今の流れで契約言うな」
「仕事ですので」
「余韻が死ぬわ」
俺はため息を吐いた。
「で、ギンコ。俺、どのくらいで本調子に戻りそうなんや?」
「現在の反動と負傷を考えると、七日ほどは見た方がいいでしょう」
「七日か」
「最低でも、です。完全に馴染ませるならもっと欲しいところですが、現実的には七日が妥協点です」
「なら、七日後に出発やな」
俺がそう言った瞬間、エネの顔が強張った。
「七日後……ですか」
「ん?」
その声に、俺は引っかかりを覚えた。
「なんや。まずいんか?」
エネは唇を噛む。
「本音を申し上げれば、今すぐにでも出発して……頂きたいです」
「いや、俺この状態やで? さっきまで床で芋虫みたいになっとった男やで?」
「承知しております。ですが……聖域は、もう長くはもちません」
絞り出すような声。
エネの手が震えていた。
「西の森までは、ここから徒歩でどれほど急いでも一月以上かかります。道中も安全ではありません。屍獣も、屍化した魔物も、まだ多くいます」
「一月……」
俺は顔をしかめた。
「そんなに遠いんか」
「はい。私は単独で急ぎました。それでも、ここへ辿り着くまでに多くの時間を使いました」
「七日休んでから一月移動ってなると……」
「間に合わない可能性があります。もしかしたら……」
噛み締めるエネの唇から、わずかに血が滲んだ。
「おひいさまも、聖獣様も、民も……もう既に」
悲壮感が半端やないんやけど……。
「……」
空気が重くなる。
俺はギンコを見る。
「なんか手はないんか?」
「あります」
「あるんかい!」
ギンコは当然のように頷いた。
「ショップ機能の一つに、移動支援サービスがあります」
「移動支援?」
「はい。通称、異世界タクシーです」
「異世界タクシー」
俺は思わず復唱した。
「お前、今、異世界タクシーって言った?」
「言いました」
「この世界、ゾンビまみれの終末異世界やぞ」
「だからこそ需要があります」
「嫌な需要ばっかりやな、この世界!」
エネが困惑したように首を傾げる。
「あの……たくしー、とは?」
「有料の乗り物や」
「有料……」
エネが少し青ざめる。
金の話には敏感らしい。
ギンコが前足を振ると、目の前にメニューが浮かんだ。
【移動支援サービス】
【異世界タクシー・ゲットアウェイ☆またたび】
【距離・危険度に応じて料金変動】
【長距離移動対応】
【憩い空間あり】
「また、おかしい固有名詞が出てきたで」
「正式名称です」
「もっと安心できる名前なかったんか?」
「安心より実績を重視しています」
この地獄から逃げ出すって意味なら、大歓迎やけどな。
「異世界タクシーを使えば、善一郎様の体を休めながら西の森方面へ移動できます。徒歩一月以上の距離も、大幅に短縮可能です」
「どれくらいや?」
「道中の状況次第ですが、数日から一週間程度には圧縮できるでしょう」
エネの顔がぱっと明るくなった。
「それなら……!」
「ただし、有料です」
ギンコが冷静に言った。
エネの顔がまた曇った。
俺も嫌な予感がして、画面を見る。
「料金は?」
「目的地設定、西の大森林外縁部。危険地帯通過。防衛性能付き車両。休息設備あり。概算で――」
画面に数字が出る。
【概算移動費】
【50,000P】
【日本円換算】
【5,000,000円】
「五百万!?」
俺は叫んだ。
「タクシー代で五百万!? どんな遠距離メーターやねん!」
「荒野横断、危険地帯通過、防衛性能込みです。むしろ安いかと」
「異世界価格に殺される!」
「なお、追加の緊急防衛機能を使用した場合、別途加算されます」
「高速代みたいに言うな!」
俺は頭を抱えた。
一千万残ったと思ったら、いきなり五百万持っていかれる。
出発前から財布が半分死にかけとる。
「徒歩なら無料です」
「一月かかるんやろ」
「はい」
「エルフの国が間に合わんかもしれんのやろ」
「はい」
「……」
俺はエネを見た。
エネは何も言わない。
ただ、申し訳なさそうに俯き、長耳がこれでもかというくらい垂れとる。
その姿が、なんとも言えず胸に刺さった。
ああ、くそ。
こんなん、断りづらいやろ。
「……わかった。使うわ」
俺は呻くように言った。
「ゲットアウェイ☆またたび、使うわ」
エネが顔を上げる。
「よろしいのですか?」
「よろしいかどうかで言えば、財布的には全然よろしくない」
「……」
「でも、時間を金で買えるなら、買うしかないやろ」
俺はため息を吐く。
「それに、俺も休みながら移動できるんやろ?」
「はい」
ギンコが頷く。
「車内で横になれます。最低限の治療も可能です」
「なら決まりや。移動しながら休む」
「合理的な判断です」
「ほんまは七日間、布団で寝たかったけどな」
「布団も追加料金で用意できます」
「もう黙れ」
ギンコは前足でメニューを操作した。
【異世界タクシー・ゲットアウェイ☆またたびを手配します】
【目的地:西の大森林外縁部】
【概算料金:50,000P】
【呼び出しを確定しますか?】
俺は一瞬だけ迷った。
時間を金で買うってのは理解できるけど、五百万のタクシーってなんやねん。
ほんま、この世界狂っとるわ。
「……確定や」
「承知しました」
ギンコが前足で画面を押した。
【ゲットアウェイ☆またたびを呼び出しました】
教会の外から、唸るようなエンジン音が響いた。
最初は地鳴りかと思った。
だんだんと、腹の底を震わせるような重低音が近づいてくる。
「……なんや、この音」
「もうすぐ到着です」
「早すぎん?」
「即時配車が売りです」
俺たちは、教会を出て光の壁の外へ向かった。
エネも不安そうに後ろからついてくる。
外に出ると、朝の荒野に砂煙が上がっていた。
その向こうから、何かが近づいてくる。
馬車ではない。
獣でもない。
黒い鉄の塊。
分厚い装甲。
ごつい車輪。
前面には、何かを押し潰すためとしか思えない分厚い鉄板。
側面には、読めない文字と猫髑髏マーク。
それが、重々しい音を立てて、教会の前に停まった。
ぷしゅう、と白い蒸気が噴き出す。
俺は口を開けたまま固まった。
「……なあ、ギンコ」
「はい」
「これのどこがタクシーやねん!」
「安全性を重視した結果です」
エネが震える声で呟いた。
「鉄の……聖獣……?」
「違う」
「違います」
俺とギンコの声が、また重なった。
荒野の朝。
俺の次の出稼ぎ先へ向かうためのタクシーは、どう見ても厳つい装甲車だった。
ぎぃ、と重い運転席の扉が開く。
「待たせたな、ギンコ」
激渋な声と共に地に降り立ったのは、煙草をくわえ、軍装を身にまとった二足歩行の黒猫やった。




