■ 第六章:画面の向こう側
部屋に戻ると、外のざわめきが急に遠のいた。
靴を脱ぐ手つきが、どこか落ち着かない。
さっきまで耳にまとわりついていた波の重さや、風の縫い目の乱れが、室内では形を失っている。それでも、感触だけは消えずに残っていた。
テーブルにスマートフォンを置き、椅子に腰を下ろす。
画面を開いた瞬間、情報の流れが一気に押し寄せてくる。
ニュースサイト。速報欄。各局の見出し。
どれも似た調子だった。
月の見かけの変化。潮位のわずかな異常。風向の不安定。
いずれも「現在調査中」と付け足され、断定を避けた表現で整えられている。
気象庁の公式ページを開く。
観測データの更新はあるが、特記事項はない。注意喚起も出ていない。
NASAの発表にも変化は見当たらない。静かなまま、いつも通りの更新が続いている。
公的な場所には、結論がない。
その代わりに、別の場所が騒がしい。
SNSのタイムラインを流すと、月の写真が次々に現れる。
「でかくない?」という軽い言葉に混じって、「おかしい」「怖い」といった声が増えている。
断片的な不安が、ゆっくりと広がっていく。
直人は指を止めず、さらに深い層へ潜る。
匿名の掲示板。まとめサイト。動画配信。
そこには、はっきりとした言葉が並んでいた。
——終わる
——落ちてくる
——逃げろ
根拠のない断言。
煽るような言い回し。
だが、その一つひとつが、妙に現実と噛み合っている気がしてしまう。
さっき港で見た光景。
美咲の声。
すみれの言葉。
全部が頭の中で繋がる。
指先が、止まった。
画面を閉じる。
静寂が戻る。
だが、さっきまでよりも重い。
椅子に背を預け、天井を見上げる。
思考が、一つの方向へ傾いていく。
逃げる。
それしかないんじゃないか。
どうにもできないなら、せめて距離を取るしかない。
海から離れる。人の多い場所から離れる。
高い場所へ。安全そうな場所へ。
そう考えた瞬間、頭に浮かぶのは、美咲だった。
ポケットからスマートフォンを取り出す。
迷う時間は長くなかった。
発信。
数回のコールのあと、繋がる。
「……直人?」
向こうの声は、少しだけ疲れていた。
「今、いいか」
「うん、大丈夫」
短いやり取りのあと、直人は言葉を選ばずに切り出す。
「逃げよう」
沈黙が落ちる。
数秒。
それがやけに長い。
「……どこに」
落ち着いた声で返ってくる。
「どこでもいい。とにかく離れた方がいいだろ。海も、街も」
言いながら、自分でも曖昧だと分かる。
だが、それでも口にせずにはいられなかった。
「このままじゃ危ないんだろ」
美咲は、すぐには答えなかった。
呼吸の音だけが、かすかに届く。
「……私は無理」
静かな拒絶だった。
「観測、続けないといけない」
予想していた答え。
それでも、簡単には受け入れられない。
「今そんなこと言ってる場合かよ」
声が、少しだけ強くなる。
「データより命だろ」
「分かってる」
かぶせるように返る。
その一言に、迷いはない。
「でも、だからこそ続けないといけないの」
言葉が、少しずつ熱を帯びていく。
「何が起きてるのか、どこまで進んでるのか、それを知ってる人間がいなくなったら——」
途中で言葉を切る。
次の一文を選ぶための、わずかな間。
「本当に、何もできなくなる」
はっきりとした声音だった。
直人は、言い返せない。
理屈は分かる。
分かるが、納得は別だ。
「それでも……」
言葉が続かない。
代わりに、別の感情が浮かぶ。
「……最後くらい、一緒にいたい」
口にした瞬間、自分でも驚くほど率直だった。
取り繕う余地がない。
向こうで、息を呑む気配。
そして——
「直人」
名前を呼ばれる。
次の言葉は、鋭かった。
「ふざけないで」
抑えた声。
だが、はっきりと感情が乗っている。
「終わり前提で話さないで」
一拍置いて、さらに続く。
「まだ終わってないでしょ」
その一言に、直人は息を止めた。
「できることがあるかもしれないのに、最初から諦めるの?」
言葉が、真っ直ぐに刺さる。
強い。
でも、それだけじゃない。
焦りも、恐れも、その奥にある。
「私は、最後まで見る」
はっきりと言い切る。
「どうなるのか、どこまで行くのか」
短く息を吐く音。
「それが仕事だからじゃない」
一瞬の間。
「……私が、そうしたいから」
その言葉で、空気が変わる。
役目ではなく、意思。
直人は、何も言えなかった。
電話の向こうで、美咲が少しだけ声を落とす。
「直人も、考えて」
さっきまでの強さとは違う、静かな調子。
「逃げる以外に、何ができるか」
問いが残る。
答えは、まだない。
だが、考えるしかない。
通話が切れる。
部屋に、また静寂が戻る。
さっきと同じはずなのに、意味が変わっている。
直人は、ゆっくりと息を吐いた。
逃げるか、残るか。
それだけの話ではない。
その先に、何を選ぶのか。
視線を落とすと、消えた画面に自分の顔がぼんやり映る。
曖昧な輪郭。
まだ、何も決めていない顔だった。




