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■ 第五章:兆しの手触り

 戸を開けた瞬間、空気の質がわずかに違っていた。


 冷たいわけでも、生暖かいわけでもない。皮膚に触れては離れる、その往復のリズムが妙に整わない。吹いているはずの風が、どこかでほどけ、また別の向きから縫い直されるような感触。


 視線を上げると、雲の縁が引き延ばされたまま、形を結びきれずに滞っている。流れているのに、進んでいない。そんな矛盾した印象だけが残る。


 通りに出ると、人の足取りがわずかに鈍い。立ち止まって空を見上げる者、スマートフォンを掲げる者、何か言いかけて言葉を飲み込む者。結論には至らないが、同じ違和を共有している気配が、通りのあちこちに滲んでいる。


 直人の足は、自然と港の方角を選んでいた。


 海に近づくにつれて、音が重くなる。岸壁に触れる水の衝き方が、いつもより一拍遅れ、あるいは早すぎる。規則がほどけ、間が詰まり、また抜ける。耳が先に違和を拾う。


 防波堤の端に、数人の漁師が集まっていた。網や箱に手をかけたまま、視線は海面に釘付けになっている。誰かが水平線を指し、別の誰かが頷く。言葉は短く、断片的だが、長年の経験に裏打ちされた確信だけが、沈黙の中でやり取りされている。


「今朝、ここまで来てる」


 ひとりが岸壁の目印を指でなぞる。濡れた跡が、いつもの位置よりわずかに上に残っている。


「潮回りじゃ説明つかねえな」


 別の声が低く応じる。測るまでもなく、身体で覚えた高さがずれている。


 直人は少し離れた位置で、そのやり取りを聞いていた。外から見れば些細な差にすぎない。だが、彼らの表情は軽くない。誤差で片付ける類のものではない、と告げている。


 ポケットの中で、短く震えが走る。


 画面に浮かぶ名前を見て、直人はその場を離れた。雑音から少し距離を取り、通話に応じる。


「今、どこ」


 前置きのない声。必要な要素だけを残した調子。


「港の近く」


「そのまま聞いて」


 呼吸を挟まず、要点だけが重ねられていく。


「潮、上がり方が変わってる。現場の人、気づいてるはず」


 さっき見た光景が、そのまま裏づけになる。


「風も、層ごとにずれてる。上と下が噛み合ってない」


 肌に残っていた感触に、名前が与えられる。


「原因は、ほぼ一つ」


 直人は答えを口にしない。言葉にする前に、もう形がある。


「月の引力」


 短く、しかし逃げ場のない提示。


「ニュースは?」


 問い返すと、わずかな間。


「“調査中”。断定できないから、そう言うしかない」


 画面の向こうで、何かを確認する気配。


「でも、データは揃ってきてる」


 音が消え、言葉だけが残る。


「ズレが増えてる。しかも、内側へ」


 内側。距離が縮まる方向。


 直人の視線が、無意識に空を探す。昼の淡い月が、昨日より輪郭を主張しているように見える。錯覚かどうかを確かめる術はない。ただ、そう感じてしまう。


「どのくらいで影響が広がる」


 声が、わずかに乾く。


「もう広がってる。さっきの潮と風が、その一部」


 言い切りに近い調子。躊躇がない。


「このまま進めば、振幅が上がる。沿岸は先にくる」


 港の濡れ跡が、頭に浮かぶ。


「気圧も崩れる。天気の読みが効かなくなる」


 雲の歪みが、別の意味を帯びる。


 続きの言葉を、直人は待たない。必要なところまで、すでに届いている。


「……時間は」


 問いの形を整えた途端、返答は短く落ちてきた。


「ある。でも長くはない」


 それだけで十分だった。


 通話が途切れ、周囲の音が戻る。人の気配、海の衝き、風の縫い目。どれも先ほどと同じはずなのに、意味合いだけが変わっている。


 港では、漁師たちが再び岸壁を測るように見つめている。言葉は少なく、動きは速い。判断はすでに下っているらしい。


 通りへ戻ると、日常は形を保ったまま流れている。笑い声も、足音も、買い物袋の擦れる音も、何ひとつ欠けていない。ただ、その上に薄く乗る不確かさが、消えずに残る。


 どう動くべきか。


 答えは見つからない。だが、問いだけははっきりした輪郭を持ちはじめている。


 直人は、ポケットの中の端末を握り直す。次に取るべき行動を決めるには、まだ材料が足りない。それでも、何もしないまま立ち尽くすには、すでに状況が動きすぎている。


 空へ視線を向ける。


 淡い円は、そこにある。昨日と同じ顔をして、しかし同じではない距離に。


 近づいている——その事実だけが、曖昧さを許さない。

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