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■ 第四章:落ちてくるということ

 “落ちてくる”という言葉が、頭から離れなかった。


 相沢直人は、商店街を抜けて、あてもなく歩いていた。

 人の流れに紛れていれば、考えずに済むと思ったが、むしろ逆だった。


 歩いている間も、同じ言葉が繰り返される。


 月が、落ちてくる。


 現実感のない響きだ。

 だが、冗談として流せる軽さもない。


 美咲の声を思い出す。


 落ち着いていて、余計な感情が削ぎ落とされた声。

 あの話し方は、思いつきや勘で何かを言うときのものではない。


 観測して、確かめて、それでも言わざるを得ないときの声音だった。


 足を止める。


 空を見上げる。


 昼の月は、やはり薄い。

 輪郭が溶けるように、空に混じっている。


 あれが、落ちてくる。


 想像しようとして、やめた。


 スケールが違いすぎる。


 もし本当にそんなことが起きるなら——


 地球はどうなる。


 海は。

 地面は。

 人間は。


 思考が途中で途切れる。


 答えを持っていない問いを、無理に広げる必要はなかった。


 ただ一つ分かるのは、どうにかなる種類の話ではない、ということだけだ。


 歩き出す。


 方向は決めていない。

 足が勝手に動く。


 気がつくと、住宅街の外れに出ていた。


 見覚えのある通り。


 昨夜、港へ向かう途中に通った道だ。


 その先に、人影がある。


 制服。


 足を止めるまでもなく、誰か分かった。


「……すみれ」


 呼びかけると、少女はゆっくり振り向いた。


 長い髪を軽くかき上げる。

 眠たそうな目。


「あー。昨日の……」


 気怠そうな声。


 昨日よりも、距離が近い。


 妙に砕けた調子だ。


「学校帰りか」


「まあ、そんな感じ」


 肩をすくめるように答える。


 敬語ではない。

 年相応と言えばそれまでだが、初対面の距離感ではない。


 それが逆に自然で、違和感がない。


「ちょっといいか」


 すみれは、面倒くさそうに目を細めたが、拒む様子はない。


「なに」


 短く返る。


 直人は、少しだけ言葉を選ぶ。


「昨日の話、覚えてるよな。月のズレ」


「ああ、あれね」


 軽い返事。


 だが、視線はすでに空へ向いている。


「今日、美咲から連絡があってさ」


 その名前が出た瞬間、すみれの表情がわずかに変わる。


 ほんの少しだけ、意識が向いたような。


「……美咲さん?」


 言い方が変わる。


 さっきまでの気怠さが、わずかに整う。


 呼び方に、はっきりとした敬意が混じる。


「あの人、天文台の人でしょ」


「ああ」


「ちゃんと見てる人だ」


 短いが、評価は明確だった。


 直人は続ける。


「観測し直したらしい。ズレてるって、はっきり」


「だろうね」


 即答だった。


 迷いがない。


「で、そのズレが……内側らしい」


 言いながら、自分でも言葉の重さを確かめる。


 内側。つまり——


「近づいてる」


 すみれが、言葉を引き取る。


 同じ結論。


 直人は頷く。


「このままだと、落ちる可能性があるって」


 少しの沈黙。


 すみれは空を見上げたまま、目を細める。


「……美咲さんがそう言うなら、ほぼ確定かな」


 あっさりとした口調。


 だが、その内容は重い。


 直人は、息を吐く。


「実際、どれくらいやばいんだ」


 問いは直線的だった。


 遠回しにしても意味がない。


 すみれは、少しだけ首を傾ける。


 考えているというより、どこから話すか選んでいるような間。


「月ってさ、ただ浮いてるわけじゃないじゃん」


 ゆっくりと言葉を置いていく。


「地球と引っ張り合って、バランス取ってる」


「引力だろ」


「そう。で、そのバランスが崩れたらどうなると思う」


 直人は答えない。


 答えは分かっているが、言葉にするのを躊躇う。


「近づけば、引っ張る力は強くなる」


 すみれの声は、淡々としている。


「潮の動き、変わる。今でもちょっとズレてるはず」


 昨夜の波音が、頭に蘇る。


 規則的で、どこか噛み合わないリズム。


「あれが大きくなったら?」


 すみれは続ける。


「海が暴れる。沿岸はほぼ終わり」


 短く、断定的に。


「それだけじゃない。地殻も引っ張られる」


 直人は、思わず足元を見る。


 何も変わらない地面。


 だが、それが前提である保証はない。


「最悪、崩れる」


 すみれの視線が、地面から空へ戻る。


「で、最後は——」


 そこで言葉を切る。


 続きは、言わなくても分かる。


 落ちる。


 衝突する。


 その先は、想像の外だ。


 直人は、黙ったまま空を見上げる。


 昼の月は、やはり変わらない。


 何も起きていないように見える。


 それが、逆に怖い。


「……どうにかならないのか」


 ぽつりと漏れる。


 現実的じゃないと分かっている。


 それでも、聞かずにはいられなかった。


 すみれは、少しだけ笑った。


 優しくも、突き放すでもない、曖昧な笑い。


「無理だよ」


 即答だった。


「スケールが違う」


 言い切る。


「人間がどうこうできる話じゃない」


 その言葉には、感情がほとんどない。


 ただ、事実として置かれている。


 直人は、何も返せなかった。


 分かっている。


 それでも、認めたくないだけだ。


 風が吹く。


 昼間の空気は暖かいはずなのに、どこか冷たく感じる。


 すみれが、少しだけ視線を落とす。


「でもさ」


 珍しく、言葉を続ける。


 直人が顔を上げる。


「全部が終わる前に、できることはあるかもね」


 その言葉は小さい。


 はっきりとはしない。


 だが、完全な否定でもない。


「……何ができる」


 直人が聞く。


 すみれは、少しだけ考えてから答える。


「それは、まだ分かんない」


 肩をすくめる。


 そして、また空を見る。


 会話は、そこで途切れた。


 結論は出ない。


 出るはずもない。


 それでも、ひとつだけ確かなことがある。


 月は、そこにある。


 そして——


 近づいている。


 ゆっくりと、確実に。

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