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■ 第三章:広がる違和感

 目を覚ましたとき、部屋の中に残っていたのは、夜の余韻だった。


 カーテンの隙間から差し込む光が、床の上に細く伸びている。

 時計を見ると、まだ昼には少し早い時間だった。


 昨夜の港の空気が、どこか身体に残っている。


 海の音。

 風の冷たさ。

 そして、あの会話。


 ——ズレてる気がするんです


 すみれの言葉が、ふと浮かぶ。


 考えすぎだ、と切り捨てるには、妙に引っかかる響きだった。



 顔を洗い、適当に身支度を整える。

 冷蔵庫の中は空に近い。朝食らしいものを用意する気も起きず、そのまま部屋を出た。


 外に出ると、いつも通りの街が広がっている。


 人が歩き、車が通り、店が開く。

 何一つ変わっていない。


 そう見える。



 商店街に入ると、焼きたての匂いが漂ってきた。


 自然と足がそちらに向く。


 ガラス戸を押すと、小さなベルが鳴る。


 店の中は、いつもと同じ温度だった。


「おう、珍しいな。こんな時間に」


 カウンターの奥から、長谷川の声が飛んでくる。


 エプロン姿のまま、手を動かしながらこちらを見る。


「起きたら何もなくてさ」


「そりゃ自分で食ったからだろ」


「人を獣みたいに言うな」


 軽口を交わしながら、棚に並ぶパンに目をやる。


 見慣れた並び。見慣れた色。


 その安心感に、少しだけ気が緩む。



 適当にいくつか選んで、カウンターに置く。


 長谷川が袋に詰めながら、ふと視線を外に向けた。


「昨日、月見たか?」


 唐突な話題だった。


「見たけど」


「でかくなかったか?」


 手の動きは止まらないまま、何気ない調子で続ける。


 だが、どこか引っかかる。


「気のせいだろ」


 直人は肩をすくめる。


「遠近感とか、雲とか」


「まあ、そういう話もあるけどな」


 長谷川は曖昧に笑う。


「なんか、変に感じたって客も何人かいた」


「へえ」


 それ以上、深くは追わない。


 パン屋で交わす話としては、それくらいの軽さがちょうどいい。



 会計を済ませて店を出る。


 紙袋から一つ取り出し、そのままかじる。


 まだ温かい。


 いつも通りの味。



 空を見上げる。


 昼の空に、月はほとんど見えない。


 薄く、かすかにあるだけだ。


 とても“異常”なんて言葉が当てはまるようには見えない。



 ポケットの中で、スマホが震えた。



 画面に表示された名前を見て、少しだけ足が止まる。



 美咲。



 通話を取る。


「もしもし」



 少しの無音。


 向こうの空気が、いつもと違う。



『直人、今いい?』



 声は落ち着いている。


 だが、余計な部分が削ぎ落ちている。



「どうした」



『昨日の話、覚えてる?』



 港での会話。


 月のズレ。



「ああ」



 短く返す。



『……気のせいじゃない』



 間を置かずに続く言葉。



 直人は、無意識に立ち止まっていた。



「どれくらい」



『観測データ、取り直した』



 呼吸の音が、少しだけ混じる。



『ズレてる。確実に』



 昨日よりも、はっきりしている。



「どっちに?」



 問いに対して、返事はすぐに来た。



『内側』



 その一言で、意味が変わる。



 外れるのではない。


 近づいている。



 直人は、空を見上げる。


 昼の薄い月。


 何も変わらないように見えるそれ。



「……で?」



 できるだけ平静を保って聞き返す。



 わずかな沈黙。



 そして——



『このまま行くと、落ちる可能性がある』



 言葉は静かだった。



 だが、意味は重い。



 現実味がない。


 けれど、冗談でもない。



 直人は、すぐには返事をしなかった。



 街は、変わらず動いている。


 人の流れも、音も、いつも通りだ。



 その中で、自分だけが立ち止まっているような感覚。



「……いつの話だ」



 ようやく出た言葉は、それだった。



『まだ断定はできない。でも——』



 美咲の声が、わずかに揺れる。



『時間の問題かもしれない』



 その一言で、十分だった。



 直人は、ゆっくりと息を吐く。



 さっきまでの“ただの違和感”が、形を持つ。



 昨日、港で感じたもの。

 すみれの言葉。

 長谷川の何気ない一言。



 全部が、一本に繋がる。



 空を見上げる。



 昼の月は、相変わらず薄い。



 何も変わっていないように見える。



 それでも——



 確実に、近づいている。

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