■ 第二章:合わない夜
夜の港は、昼よりも広く感じる。
人の数が減るだけで、同じ場所でも距離が伸びたみたいになる。
音も少ない。波の音と、時々通る車の音だけが、ゆっくりと流れている。
相沢直人は、防波堤の端に腰を下ろしながら、足元の暗い海を見ていた。
昼間と同じ海のはずなのに、夜になると別物に見える。
黒い。
深い。
どこまで続いているのか、境界が分からない。
「寒くない?」
隣で、美咲が言う。
「まあ、ちょっとは」
「一応持ってきた」
そう言って、バッグから薄い上着を取り出す。
差し出される前に、直人は軽く手を振る。
「いいよ。大丈夫」
「そう言って風邪ひくやつ」
「ひかない」
「毎回言ってる」
やり取りは、昼間と同じ調子だ。
ただ、声が少しだけ落ち着いている。
夜だからか、場所のせいか。
⸻
しばらく、二人とも黙る。
波が、防波堤に当たる。
一定のリズム。
だが、どこか微妙にズレている気がする。
気のせいかもしれない。
⸻
「……やっぱり変なんだよね」
美咲が、ぽつりと言う。
⸻
昼間と同じ言葉。
でも、今は少しだけ重みが違う。
⸻
「月?」
直人が聞く。
⸻
「うん」
美咲は、海の向こうを見たまま頷く。
⸻
空には、月が出ている。
満ちても欠けてもいない、半端な形。
いつもと同じに見える。
⸻
「どの辺が?」
⸻
「説明しづらいんだけど……」
美咲は、少し考えてから言う。
⸻
「位置と時間が、合ってない」
⸻
「どれくらいズレてる」
⸻
「ほんの少し。でも、それが気持ち悪い」
⸻
“ほんの少し”。
それは日常を壊すには小さすぎる。
でも、無視するには引っかかる。
⸻
直人は、空を見上げる。
正直、違いは分からない。
ただの月だ。
⸻
「俺には普通に見えるな」
⸻
「うん、見た目はね」
美咲は苦笑する。
⸻
「だから余計に気になるの」
⸻
そのとき。
⸻
少し離れた場所に、人影が見えた。
⸻
防波堤の端。
街灯の光が届かない、暗い位置。
⸻
誰かが立っている。
⸻
「……あれ」
直人が顎で示す。
⸻
美咲も、そちらを見る。
⸻
「ああ……あの子」
⸻
「知ってるの?」
⸻
「何回か見たことある」
⸻
よく来る場所だ。
顔を覚えている程度には、同じ人間が繰り返し現れる。
⸻
その影は、動かない。
ただ、海を見ている。
⸻
いや——
⸻
海だけじゃない。
⸻
視線は、海と空の間を行き来している。
⸻
「……あんな時間に、一人か」
直人が言う。
⸻
「高校生くらいだよね」
⸻
「たぶん」
⸻
少しの沈黙。
⸻
波の音が続く。
⸻
「……声かける?」
美咲が言う。
⸻
直人は、少しだけ考える。
⸻
理由はない。
ただ、この時間に、この場所で、一人で立っている。
それが少し引っかかる。
⸻
「まあ、一応」
⸻
二人で立ち上がる。
⸻
足音を立てないように、ゆっくり近づく。
⸻
距離が縮まる。
⸻
その子は、振り返らない。
⸻
気づいていないのか、気づいていて無視しているのか。
⸻
横に並ぶくらいの位置で、美咲が声をかけた。
⸻
「ねえ」
⸻
その瞬間。
⸻
少女が、ゆっくりと振り向いた。
⸻
高校生くらい。
長い髪が、風で少し揺れる。
⸻
目が合う。
⸻
少し驚いたような表情。
だが、すぐに落ち着く。
⸻
「……こんばんは」
小さく言う。
⸻
「こんな時間に一人?大丈夫?」
美咲が優しく聞く。
⸻
少女は、少しだけ間を置いてから頷く。
⸻
「大丈夫です」
⸻
その声は落ち着いている。
だが、どこか集中が途切れていない。
⸻
「よく来るの?」
⸻
「はい」
⸻
短い答え。
⸻
そして、また海の方を見る。
⸻
「……なんか、見てるの?」
直人が聞く。
⸻
少女は、少しだけ首を傾ける。
⸻
「見てるというか……」
⸻
言葉を選ぶ。
⸻
「合ってるか、見てる」
⸻
⸻
その一言で、美咲の表情が変わった。
⸻
⸻
「……何が?」
⸻
⸻
少女は、空を見る。
⸻
月を見る。
⸻
そして——
⸻
「ズレてる気がするんです」
⸻
⸻
静かな声。
⸻
⸻
美咲と、完全に同じ内容。
⸻
⸻
直人は、二人を見る。
⸻
空気が、少しだけ変わる。
⸻
⸻
「どの辺が?」
美咲が一歩前に出る。
⸻
⸻
少女は、迷わない。
⸻
「時間と、位置」
⸻
⸻
同じ言葉。
⸻
⸻
「ほんの少しだけ」
⸻
⸻
完全に一致する。
⸻
⸻
美咲は、息を止めたように黙る。
⸻
⸻
直人は、理解する。
⸻
⸻
これは偶然じゃない。
⸻
⸻
少なくとも——
⸻
一人の勘違いではない。
⸻
⸻
「……名前、聞いていい?」
美咲が静かに言う。
⸻
⸻
「すみれです」
⸻
⸻
少女は答える。
⸻
⸻
その名前が、波の音の中に溶ける。
⸻
⸻
空には、月がある。
⸻
何も変わらないように見える。
⸻
⸻
だが——
⸻
⸻
少しだけ、合っていない。
⸻
⸻
それを感じている人間が、もう一人いた。
⸻
⸻
それだけで、世界は少し変わる。




