表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/7

■ 第一章:いつもの光

 休日の昼は、時間の流れがゆるい。


 相沢直人は、改札を抜けてすぐのベンチに腰掛けながら、スマホの画面をぼんやり眺めていた。通知は来ていない。見るものもない。それでも、何かをしている体裁を保つにはちょうどいい。


 視線を上げる。


 人が流れている。

 家族連れ、カップル、ひとりで歩く人。

 特別なことは何も起きていない、普通の街の午後。


「……まだかな」


 小さく呟く。


 待ち合わせは、いつも同じ場所。

 いつも同じ時間。

 遅れることも、早く来ることもほとんどない。


 だからこそ、ほんの数分のズレがやけに長く感じる。


 そのとき、背後から声。


「直人」


 振り返る。


 美咲が立っていた。


 白いシャツに、薄いカーディガン。肩にかけたトートバッグが、仕事帰りの名残を残している。


「お疲れ」


「うん。ちょっとだけ長引いた」


 そう言って、隣に座る。


 ほんの少しだけ距離が近い。


 それが当たり前になっている。


「今日も天文台?」


「うん。昼間は観測ないんだけど、データ整理とか」


「そんなもんか」


「そんなもん」


 短い会話。


 でも、途切れない。


 沈黙も含めて、自然に流れる。



 駅前を離れて、商店街へ向かう。


 アーケードの下は、外より少しだけ涼しい。


 パン屋の前まで来ると、焼きたての匂いがふわっと流れてくる。


「……寄る?」


 直人が言う。


 美咲は即答する。


「寄る」


 ガラス戸を押す。


 小さなベルが鳴る。


 中は、少しだけ温かい。


 オーブンの熱と、人の気配。


「いらっしゃい」


 カウンターの奥から声。


 長谷川だった。


 エプロン姿で、いつものように立っている。


「お、来たか」


「久しぶり」


 直人が言うと、長谷川は少しだけ笑う。


「昨日も来ただろ」


「それは俺じゃなくて腹だ」


「都合いいな」


 軽い応酬。


 慣れている。



 店内には、パンが並んでいる。


 クロワッサン、食パン、惣菜パン。

 どれも見慣れたもの。


 だけど、焼き上がりの時間が少し違うだけで、選ぶ気分が変わる。


「今日、これいいよ」


 長谷川がトングで指す。


「新しいやつ?」


「ちょっとだけ改良した」


「毎回言ってない?」


「言ってる。でも今回はほんと」


 美咲が横から覗き込む。


「これ、チーズ?」


「そう。中にちょっとハーブ入れてる」


「じゃあそれにする」


 迷いがない。


 直人は、横で別のパンを取る。


「俺これ」


「結局いつものだな」


「変える理由がない」


「飽きないのかよ」


「飽きたら変える」


 長谷川が、呆れたように笑う。



 会計を済ませて、店の外へ。


 近くの公園まで歩く。


 ベンチに座る。


 袋を開ける。



 パンを一口。


 まだ温かい。



「……うまいな」


 直人が言う。


「でしょ」


 美咲も頷く。


 口元に、ほんの少しだけ笑み。



 風が吹く。


 木の葉が揺れる。


 遠くで子どもの声。



 普通の午後。



「今日、月見えるかな」


 美咲が言う。


 パンを持ったまま、空を見る。


 昼の空に、月はまだ見えない。


「夜なら見えるだろ」


「うん……まあ」


 少しだけ、言葉が止まる。



「どうした」


 直人が聞く。



 美咲は、少しだけ考えてから言う。



「なんかね、ちょっと変なんだよね」



「何が」



「月の動き」



 直人は、パンを持ったまま首を傾げる。



「ズレてるってこと?」



「うーん……ズレてるっていうか」


 言葉を探すように、視線が空を泳ぐ。



「微妙に、合わない感じ」



「合わない?」



「予測と観測が、ほんのちょっとだけ」



 ほんのちょっと。


 それは、普通なら誤差で済むレベルだ。



「機械の問題じゃなくて?」



「それも疑った。でも違うっぽい」



 美咲は、そこで言葉を切る。



 深刻な顔ではない。


 ただ、気にしている程度。



「まあ、たぶん大したことじゃないと思う」



 そう言って、パンをもう一口。



 直人も、それ以上は聞かない。



 専門の話は、聞いても分からない。


 でも、彼女が気にしているなら、どこかで意味がある。



 ただ、それが何かは——


 まだ分からない。



 空を見上げる。



 青い。



 何もない。



 静かな、普通の空。



 その下で、三人は何も知らないまま、いつもの時間を過ごしている。



 まだ、何も起きていない。



 少なくとも、そう見えていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ