■ 第一章:いつもの光
休日の昼は、時間の流れがゆるい。
相沢直人は、改札を抜けてすぐのベンチに腰掛けながら、スマホの画面をぼんやり眺めていた。通知は来ていない。見るものもない。それでも、何かをしている体裁を保つにはちょうどいい。
視線を上げる。
人が流れている。
家族連れ、カップル、ひとりで歩く人。
特別なことは何も起きていない、普通の街の午後。
「……まだかな」
小さく呟く。
待ち合わせは、いつも同じ場所。
いつも同じ時間。
遅れることも、早く来ることもほとんどない。
だからこそ、ほんの数分のズレがやけに長く感じる。
そのとき、背後から声。
「直人」
振り返る。
美咲が立っていた。
白いシャツに、薄いカーディガン。肩にかけたトートバッグが、仕事帰りの名残を残している。
「お疲れ」
「うん。ちょっとだけ長引いた」
そう言って、隣に座る。
ほんの少しだけ距離が近い。
それが当たり前になっている。
「今日も天文台?」
「うん。昼間は観測ないんだけど、データ整理とか」
「そんなもんか」
「そんなもん」
短い会話。
でも、途切れない。
沈黙も含めて、自然に流れる。
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駅前を離れて、商店街へ向かう。
アーケードの下は、外より少しだけ涼しい。
パン屋の前まで来ると、焼きたての匂いがふわっと流れてくる。
「……寄る?」
直人が言う。
美咲は即答する。
「寄る」
ガラス戸を押す。
小さなベルが鳴る。
中は、少しだけ温かい。
オーブンの熱と、人の気配。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から声。
長谷川だった。
エプロン姿で、いつものように立っている。
「お、来たか」
「久しぶり」
直人が言うと、長谷川は少しだけ笑う。
「昨日も来ただろ」
「それは俺じゃなくて腹だ」
「都合いいな」
軽い応酬。
慣れている。
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店内には、パンが並んでいる。
クロワッサン、食パン、惣菜パン。
どれも見慣れたもの。
だけど、焼き上がりの時間が少し違うだけで、選ぶ気分が変わる。
「今日、これいいよ」
長谷川がトングで指す。
「新しいやつ?」
「ちょっとだけ改良した」
「毎回言ってない?」
「言ってる。でも今回はほんと」
美咲が横から覗き込む。
「これ、チーズ?」
「そう。中にちょっとハーブ入れてる」
「じゃあそれにする」
迷いがない。
直人は、横で別のパンを取る。
「俺これ」
「結局いつものだな」
「変える理由がない」
「飽きないのかよ」
「飽きたら変える」
長谷川が、呆れたように笑う。
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会計を済ませて、店の外へ。
近くの公園まで歩く。
ベンチに座る。
袋を開ける。
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パンを一口。
まだ温かい。
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「……うまいな」
直人が言う。
「でしょ」
美咲も頷く。
口元に、ほんの少しだけ笑み。
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風が吹く。
木の葉が揺れる。
遠くで子どもの声。
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普通の午後。
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「今日、月見えるかな」
美咲が言う。
パンを持ったまま、空を見る。
昼の空に、月はまだ見えない。
「夜なら見えるだろ」
「うん……まあ」
少しだけ、言葉が止まる。
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「どうした」
直人が聞く。
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美咲は、少しだけ考えてから言う。
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「なんかね、ちょっと変なんだよね」
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「何が」
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「月の動き」
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直人は、パンを持ったまま首を傾げる。
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「ズレてるってこと?」
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「うーん……ズレてるっていうか」
言葉を探すように、視線が空を泳ぐ。
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「微妙に、合わない感じ」
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「合わない?」
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「予測と観測が、ほんのちょっとだけ」
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ほんのちょっと。
それは、普通なら誤差で済むレベルだ。
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「機械の問題じゃなくて?」
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「それも疑った。でも違うっぽい」
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美咲は、そこで言葉を切る。
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深刻な顔ではない。
ただ、気にしている程度。
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「まあ、たぶん大したことじゃないと思う」
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そう言って、パンをもう一口。
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直人も、それ以上は聞かない。
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専門の話は、聞いても分からない。
でも、彼女が気にしているなら、どこかで意味がある。
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ただ、それが何かは——
まだ分からない。
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空を見上げる。
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青い。
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何もない。
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静かな、普通の空。
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その下で、三人は何も知らないまま、いつもの時間を過ごしている。
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まだ、何も起きていない。
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少なくとも、そう見えていた。




