■ 第七章:迫る水際
眠りは浅く、夢と現実の境目が曖昧なまま、意識だけが沈んでいた。
その均衡を破ったのは、耳元で震える電子音だった。
反射的に手を伸ばし、掴んだまま通話を開く。
「……直人、起きて」
美咲の声が、いつもより速い。
まだ覚醒しきらない頭の奥に、その調子だけが先に届く。
言葉の意味よりも、焦りの質が先に伝わってくる。
「今、何時……」
「六時。いいから聞いて」
間を置かずに続く。
「もうすぐ来る」
寝ぼけた思考が、一瞬で押し流される。
「何が」
問い返す声に、かすかな硬さが混じる。
「月」
短い。
だが、十分すぎる。
直人は上体を起こした。
視界の端で、カーテン越しの光が揺れる。
「……昨日の話か」
「昨日より進んでる」
言葉が重なる。
「潮位の変化、加速してる。観測の間隔が追いつかない」
機械越しでも分かるほど、呼吸が浅い。
「防波堤、もうすぐ越える」
その一文で、状況の輪郭が急に具体性を帯びる。
「港、今どうなってる」
「人が集まり始めてる。見に来てる人も多い」
わずかな間。
「直人、来れる?」
問いの形をしているが、実質的には確認に近い。
「……行く」
通話を切ると同時に、身体が動き出す。
顔を洗う余裕はない。上着を掴み、玄関を抜ける。
外気が頬に触れる。
昨日よりも、明らかに重い。
風の流れが、一定の方向を保てない。
押される感覚と、引き戻される感覚が交互に重なる。
足を速める。
街は、すでに静かではなかった。
通りのあちこちで、人が同じ方向を向いている。
スマートフォンを掲げる者、走り出す者、立ち尽くす者。
言葉が交差する。
「やばくない?」
「ニュース出てた?」
「とにかく見に行こう」
断片的な会話が、同じ一点へ収束していく。
港。
その二文字が、空気の中で共有されている。
直人も、その流れに乗る。
曲がり角を抜けた先で、音が変わる。
水の気配が、近い。
低く、重い圧が、地面を通して伝わってくる。
港に着いたときには、すでに人で溢れていた。
岸壁の縁に、何重にも人の列ができている。
誰もが同じ方向を見ている。
海。
直人は人の隙間を縫うように前へ出る。
視界が開けた瞬間、言葉が出なくなる。
水面の高さが、明らかに違う。
防波堤の外側で留まっているはずの海が、内側へ押し寄せる寸前まで来ている。
岸壁のコンクリートに残る目印を、すでに越えている。
さらに、その上昇が止まっていない。
じわじわと、しかし確実に。
目で追える速度で、近づいてくる。
誰かが叫ぶ。
「おい、これマジで上がってるぞ!」
別の声が重なる。
「さっきより来てるって!」
騒ぎは広がるが、まだ逃げる動きにはなっていない。
事態の深刻さが、感覚に追いついていない。
直人は、その場に立ち尽くす。
昨日までの海とは、別のものに見える。
押し寄せてくる、というより——
引き寄せられている。
不自然な力で、こちら側へ。
そのとき、視界の端に見覚えのある姿が映る。
人混みの少し外れ。
岸壁から距離を取った位置に、すみれが立っていた。
制服姿のまま、腕を組み、海を見ている。
周囲の騒ぎから、一歩引いた場所。
「……すみれ」
呼びかけると、ゆっくりと視線がこちらに向く。
相変わらず、気怠そうな表情。
「あー。昨日の人」
軽く手を上げる。
この状況で、その温度差が妙に現実感を与える。
「見てた?」
直人が海を顎で示す。
「まあね」
短く返る。
「予想より早い」
その言葉に、直人は息を詰める。
「これ、どこまで来る」
問いかける声が、わずかに掠れる。
すみれは、海から目を離さないまま答える。
「防波堤は越える」
断言に近い調子。
「その先は、地形と時間次第」
周囲の騒ぎとは別の次元で、言葉が落ちてくる。
「……逃げた方がいいか」
直人の問いに、すみれは少しだけ視線を動かす。
人混みの向こう、押し寄せる水。
その間を測るように。
「そろそろね」
曖昧だが、否定ではない。
その一言で十分だった。
直人は、もう一度海を見る。
水位は、確実に上がり続けている。
そして——
止まる気配がない。
世界が、目に見える形で動き始めていた。




