表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
六花円舞曲(りっかワルツ) ~六つの花に慕われた兄の、季節をめぐる日常~  作者: りょーさん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/16

第八話 計算の外

 前夜のうちに、策は完成していた。


 月詠つくよはベッドの中で、天井の間接照明を見つめながら手順を反芻した。

 第一段階。朝食後、じゅんに「お茶の専門店に行きたいのですが、ひとりでは荷物が」と申し出る。第二段階。駅前の商店街を経由し、茶葉と茶器を吟味する。第三段階。帰り道に甘味処で休憩。ここが本丸。二人きりの時間、約四十分。

 完璧だった。曜日も確認した。姉たちの予定も把握した。美空は午前中に生徒会の書類整理。夏凪はベルとの打ち合わせ。深雪は商店街の反対方向の市場へ買い出し。陽花は部活動の自主練。氷華は——動かない。休日の氷華は毛布から出ない。


 月詠は枕元の扇子に指を添え、微笑んだ。策士の微笑み。計算された角度。


 あの昆布茶の一件は、帰宅時刻の読み違いだった。今回の変数は姉妹の動向のみ。すべて洗い出した。死角はない。


 ——はずだった。



 その前日——土曜の放課後。パソコン研究会の部室で、月詠はスマートフォンの画面を閉じた。


「景乃さん、明日の件ですけれど」


 九条くじょう 景乃かげのが端末から顔を上げた。眼鏡の奥の瞳は、画面の光を映して淡く揺れている。高等部二年。学年は上だが、月詠に従い、月詠もまた信頼を寄せている。


「はい、月詠さん」


「明日は少し、外出しますの。兄さまと。連絡は夕方以降にしてくださいまし」


 景乃の指が端末の上で止まった。一拍。


「承知しました。……お出かけですか」


 声は平坦だった。けれど、視線が月詠の表情を一瞬だけ読んだ。月詠はそれに気づかなかった。策の全容を語る必要はない。不在の時間帯だけ伝えればよい。


 隣で、東雲しののめ あきらが手元のペンを回す指を止めた。科学部の部長。景乃と同学年で、この部室に顔を出すことが多い。


「月詠さん、天候は確認されましたか。明日の午後、降水確率が上がるようです」


「まあ、晶さん。ありがとうございます。折りたたみ傘を入れておきますわ」


 月詠が去った後、部室に沈黙が落ちた。

 晶が景乃を見た。景乃は端末に視線を戻していた。指が、静かに画面を滑っている。宛先は月詠ではなかった。



 日曜日の朝。計画通りに事は運んだ。


「兄さま、先日の昆布茶のこと、覚えていらっしゃいますか」


「ああ。美味しかったよ」


「新しい茶葉を見に行きたいのですが——荷物が多くなりそうで」


 じゅんが靴を履いた。「付き合うよ」。その一言を引き出すまでに、月詠は三通りの台詞を用意していた。使ったのは最も自然な一つだけだった。


 玄関を出る。春の風が、姫カットの髪を揺らした。じゅんの歩幅は、いつもより少しだけ狭い。月詠に合わせている。その気遣いが、胸の奥で小さく跳ねた。摺り足に近い歩き方が、休日の陽射しの中ではどこか浮世離れして見えた。


 順調だった。駅前の茶葉専門店まで、あと二つ角を曲がれば着く。月詠は扇子を胸元で開きかけた。



「あ、お兄ちゃん! つくつくも一緒だ!」


 角の向こうから、オレンジ色の声が飛んできた。


 陽花だった。ジャージ姿。タオルを首にかけ、リストバンドが汗を吸っている。自主練の帰りらしい。——自主練は学園の体育館のはずだった。なぜ、ここに。


「おっはよー! ねえねえ、どこ行くの? 私も行く!」


 月詠の背筋が、ほんのわずかに丸くなった。完璧に伸びていた姿勢が、一瞬だけ崩れた。扇子を閉じ、微笑みを貼り直すまでに、二秒かかった。


「あら、陽花さん。奇遇ですわね。——申し訳ありませんが、茶葉の選定は繊細な作業ですので」


「えー、じゃあ終わったら合流しよ!」


 じゅんが陽花の頭を軽く撫で、「またあとでな」と送り出した。月詠はルートを変更した。裏通りを迂回すれば、専門店には辿り着ける。



 辿り着けなかった。


 二本目の角で、夏凪が立っていた。ショーウィンドウの前。黒髪が春風に揺れている。片手にコーヒーのカップ。視線がこちらを捉えた瞬間、その目がわずかに鋭くなった。


「……奇遇ね。ベルとの打ち合わせが早く終わって、散歩していただけよ」


 嘘が下手だった。散歩にしては、こちらを待ち構えるような立ち位置だった。


 月詠は二度目の迂回を選んだ。三本目の路地に入ったとき、前方の花屋の影に、見覚えのある銀色の髪が揺れた気がした。——氷華。休日は毛布から出ないはずの。


 月詠の足が止まった。


 三人。三方向。偶然が三つ重なることを、策士は信じない。


 指先がスマートフォンに触れた。画面を開く。位置情報の共有設定。じゅんが全員に持たせた安全用のGPS。姉妹同士でも位置が確認できる仕組みになっている。


 ——切っていなかった。


 月詠のGPSは、出発してからずっと、六人全員に向けて現在地を発信し続けていた。


 姉妹たちの予定を洗い出し、行動範囲を計算し、時間帯ごとの動線まで設計した。なのに、自分のポケットの中の小さな信号を、一つだけ止め忘れていた。


 策の全容が、一瞬で瓦解した。


 では、誰が仕掛けたのか。陽花も夏凪も、自力でここまで精密に動けない。指揮官がいる。姉妹を配置し、GPSを辿り、最適な迎撃点を割り出した誰かが。


 美空の顔が浮かんだ。それから、もうひとつ別の顔も。けれど月詠は、その先を考えることをやめた。


 月詠は静かに扇子を閉じた。


「……兄さま。申し訳ありません。今日は、戻りましょう」


「そうだね。お茶は、また今度にしよう」


 じゅんの声は穏やかだった。責めも、からかいもしなかった。月詠にはそれが、いっそう堪えた。



 六花円舞曲りっかワルツに戻ると、リビングに全員が揃っていた。美空がダイニングで書類を広げている。視線が月詠に触れた。一瞬。それだけで十分だった。


 月詠は何も言わず、階段を上がった。自室のドアを閉め、ベッドの端に座った。


 手には何もなかった。茶葉も、茶器も、甘味処の包みも。策のために空けた鞄が、空のまま足元に置かれていた。間接照明が、和モダンの部屋を静かに照らしている。昨夜、この光の中で策を完成させた。完璧だと思った。


 完璧では、なかった。


 夕食の時間に、月詠は降りてこなかった。体調を崩したわけではない。食欲がないわけでもない。ただ、あの食卓で、五人の姉と向かい合う顔がなかった。


 階下から、陽花の声が一度だけ聞こえた。「つくつく~、ごはん——」。誰かが短く答えて、静かになった。それきり、誰も呼びに来なかった。



 食器の音が遠のいて間もなく、月詠の部屋のドアが鳴った。


 ノックではなかった。ドアの向こうから、声だけが届いた。


「月詠。屋上に来ないか」


 じゅんの声だった。


「少し、見せたいものがある」


 月詠は扇子を持つ手を止め、ドアを開けた。じゅんの手に、大きな紙袋が一つ。中身は見えなかった。



 屋上の空気は、夜になって冷えていた。


 春の星が、低い位置からまばらに光っている。街の灯りに負けて、一等星しか見えない。それでも、昼間の喧騒とは別の世界だった。


 じゅんが紙袋を開けた。


 中から出てきたのは、ポットと、小さな急須と、二つの湯呑と、銀色の缶。それから、小さな紙箱。缶のラベルに、月詠の目が止まる。——知覧の、手摘みの新茶。月詠が以前「いつか取り寄せたい」と呟いた銘柄。紙箱を開けると、和三盆の干菓子が並んでいた。花の形を模したもの。


「昆布茶のお礼」


 じゅんが言った。


「あのとき、月詠が淹れてくれたから。」


 ポットの湯を急須に注ぐ。じゅんの手つきは丁寧だったが、茶の作法には素人の指だった。月詠が黙って見ていられたのは、三秒だった。


「兄さま、蒸らしは四十秒ですわ。湯温も、もう少し——」


 気づけば、急須の横に膝をついていた。じゅんの手に自分の手を添え、傾きを直している。指先が触れた。屋上の夜気が、その一点だけ温かかった。


 二つの湯呑に、薄い緑が注がれた。


 並んで座った。手すりに背を預け、膝の上で湯呑を包む。新茶の湯気が、夜風に流されて消えていく。和三盆の甘さが、口の中で静かに溶けた。


「……兄さま、この茶葉は」


「先週、知り合いに頼んで取り寄せてもらった」


 先週。


 今日の策が失敗する前から、じゅんはこの茶葉を用意していた。


 月詠は湯呑に目を落とした。緑が、星の光を映している。


「頑張らなくても、月詠が居てくれるだけで嬉しいよ」


 吐息が、一拍遅れた。吸うべきところで吸えず、吐くべきところで止まった。呼吸のリズムが、一瞬だけ崩れた。


 星が滲んだ。滲んだのは、湯気のせいだ。そういうことにした。


「……茶葉の買い足しがしたかっただけですわ」


 言いかけて、月詠の右手が髪に触れた。頭の上を、さりげなく押さえる。照れ隠しの仕草のように見えた。


 ——兄さま、それは反則ですわ。


 声にしたのか、しなかったのか。湯呑を口に運ぶ動作で、唇が隠れた。新茶は、完璧な温度だった。月詠が直した傾きと、じゅんが選んだ茶葉が、ひとつの味になっていた。


 しばらく、どちらも喋らなかった。


 春の夜風が、屋上のフェンスを鳴らしている。一等星がひとつ、ゆっくりと傾いていく。月詠の肩が、じゅんの腕からほんの数センチのところにあった。近づきも離れもしなかった。策士の距離ではなく、親愛の距離だった。



 自室に戻った月詠は、ドアを閉め、灯りをつけなかった。


 間接照明だけが、和モダンの部屋をぼんやりと浮かび上がらせている。昨夜と同じ光。けれど、部屋の空気が違った。


 ベッドの端に座り、空の鞄を見た。それから、手のひらを見た。急須の温度が、まだ指先に残っていた。じゅんの手に触れた箇所だけが、ほんの少し温かい。


 睫毛が、静かに伏せられた。


 策は失敗した。茶葉は買えなかった。甘味処にも辿り着けなかった。設計した四十分の二人きりの時間は、姉妹たちの包囲網により叶わなかった。


 けれど。


 屋上で飲んだ一杯の新茶が、策のどれよりも近かった。


 月詠は枕元の扇子に手を伸ばし——伸ばしかけて、やめた。代わりに、毛布を引き寄せて、膝を抱えた。策士の仮面は、もう戻さなかった。


 間接照明が、月詠の横顔をやわらかく照らしていた。唇の端が、計算ではない角度で、ほんの少しだけ上がっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ