第七話 百倍の笑顔
夜の廊下を、スリッパがぱたぱたと走った。
今日、新しい技が成功した。三週間、放課後の体育館で練習した技。バトンを高く投げ上げ、三回転させてからキャッチする。指先の角度、手首のしなり、視線の高さ——全部を揃えて、初めてバトンは手のひらに戻ってくる。
三度目の挑戦で、銀色の棒が掌に吸い付くように収まった。嬉しくて、体育館の天井に向かって叫んだ。
でも、一番に見せたい人は、あそこにいなかった。
陽花は自室のドアの前で立ち止まった。振り返る。階段の方を見る。リビングにはまだ灯りがついている。じゅんはソファで書類を読んでいるはず。隣には、たぶんひょかたんがいる。毛布ごと。
——明日、練習を見に来て。
たった一言。それだけ言えばいい。
明日の放課後に、あの技をもう一度やる。
足が動いた。考えるより先に。階段を三段飛ばして降り、リビングの扉を開けた。
じゅんがソファの真ん中で書類に目を落としていた。左隣に氷華。毛布の中から薄い目がこちらを向いた。
陽花の手が、じゅんの袖を掴んでいた。言葉より先だった。指が動くのが先で、口が開くのが後だった。
「あのね、お兄ちゃん」
声が上擦った。早口になった。止まらなかった。
「明日、バトンの練習があるの。放課後。体育館。新しい技ができたの、今日初めて成功したの、すごく難しかったんだけどバトンがちゃんと手に戻ってきて、それで、あの——」
息が切れた。頬が熱い。袖を掴む手が、かすかに震えている。
「——見に来てほしいの」
最後だけ、声が小さくなった。
じゅんが書類をテーブルに置いた。陽花の方に体ごと向き直った。
「行くよ。陽花が見てほしいって言うなら、行かない理由がない」
陽花の指が、袖の上でぎゅっと締まった。生地が軋んだ。嬉しいときに力が入る。
「——ほんと? お仕事、大丈夫?」
「大丈夫。明日の午後は空けられる」
空けられる。たぶん、最初から空いていたわけではない。陽花はそこまで考えなかった。考える前に、顔がくしゃっと笑っていた。
「えへへ——ありがとう、お兄ちゃん!」
氷華が毛布の中から、じっとこちらを見ていた。何も言わなかった。ただ、じゅんの袖の反対側を、少しだけ強く掴み直した。
自室に戻った。布団に飛び込んだ。枕に顔を埋めて、足をばたばたさせた。大きなひまわりのぬいぐるみを抱きしめて、目を閉じた。
「——明日、がんばる」
頬が緩んだまま戻らなかった。
翌日の放課後。聖カレイド学園体育館。
陽花は三時五十分にはフロアに立っていた。後輩たちを迎え、柔軟体操の号令をかける。声は大きく、指示は的確だった。リーダーの顔だった。
後輩の一人がキャッチのタイミングを掴めずにいた。陽花が隣に立ち、手首の角度を見せた。「こう。ここで力を抜くの」。バトンが軽やかに回り、掌に落ちた。
四時二十分。体育館の入口に、人影が立った。
陽花は気づいた。背中で感じた。
——振り向かなかった。
今はリーダーだ。後輩たちが見ている。バトンを握る手に、少しだけ力がこもった。
入口の横では、体育教諭の朝日 陽太がじゅんに歩み寄っていた。
「朝霧さん。陽花ちゃん、今日すごくはりきってますよ」
穏やかな声だった。大柄な体に似合わない、人懐こい笑み。
「そうみたいですね」
じゅんが体育館の中を見た。陽花は後輩に手本を見せている。
四時半。新技の練習に入った。
陽花がフロアの中央に立った。息を整える。バトンを右手に構えた。周囲の音が遠くなった。後輩たちの視線、体育館の照明、窓から差す春の夕陽——全部が、指先の一点に集まっていく。
投げた。
バトンが弧を描いた。照明の光を切り裂くように回転する。一回転、二回転、三回転。銀色の線が空中に残像を残した。
落ちてくる。
掌を開いた。待った。バトンの重さが手の中に戻った。指が閉じた。冷たい金属の感触。完璧だった。
振り向いた。
体育館の壁際に、いつの間にか人が増えていた。練習を覗きに来た他の部の生徒たち。陽花が笑って、手を振った。大きく。満面の笑みで。ギャラリーから歓声が上がった。
それから——じゅんの方を向いた。
じゅんの目が、まっすぐこちらを見ていた。
——笑った。
さっきとは違う笑みだった。ギャラリーに振った手は下がり、ツインテールだけが揺れていた。リーダーでも、みんなの陽花でもない。ただの十五歳の女の子が、兄を見つけて笑っていた。
体育館の外から、柔道着の大柄な中等部男子が覗いていた。龍崎 剛。後輩の一人に小声で「陽花ちゃんの練習日、見学者が多いんだよな」と呟いた。
練習が終わった。部員たちが器具を片づけ始める。
陽花が体育館の脇のベンチに駆け寄った。じゅんが座っていた。その足が、最後の三歩で跳ねた。走っているのに跳ねた。着地の衝撃でベンチが揺れた。
「どうだった? 見ててくれた? 新しい技! できたの!」
「ずっと見てた」
じゅんがタオルを差し出した。オレンジ色の、ひまわり柄。陽花がいつも使っているのと同じ柄だった。でも新しい。昨夜のうちに、じゅんが用意していた。
陽花が受け取り、顔を埋めた。少しだけ長く、タオルに顔を押し当てていた。
「——ありがと、お兄ちゃん」
タオルの向こうから、くぐもった声。
ベンチに並んで座った。陽花が今日の練習のことを矢継ぎ早に話す。全部、全力で。じゅんは黙って頷いていた。
「見に来てよかった」
じゅんが言った。静かだった。
陽花の口が半分開いたまま、閉じなかった。
嬉しいという感情が、いつもなら全速力で笑顔に変わる。今日も変わるはずだった。でも、この一言だけが——速すぎた。感情の回路が追いつかなかった。
一瞬、泣きそうな顔になった。
目の奥が熱くなって、鼻の奥がつんとして、唇が震えかけた。嬉しすぎると、こうなることを陽花はまだ知らなかった。
——見ててくれた。ちゃんと、見ててくれた。
すぐに、笑顔が追いついた。いつもの、満開の笑顔。
「えへへ、お兄ちゃんが見ててくれたから、百倍がんばれた!」
目の端に、光るものが一滴あった。
じゅんが手を伸ばし、陽花の頭にそっと触れた。撫でるのではなく、ただ、置いた。陽花が目を細めた。猫のように——いや、大きな犬のように、その手に身を寄せた。
六花円舞曲のリビング。夜。
夕食を終え、姉妹たちがそれぞれの時間を過ごしている。ソファにはじゅん、左隣に氷華。深雪がキッチンを片づけ、美空がダイニングで書類を広げ、夏凪が一人掛けで雑誌を開き、月詠がL字の角で紅茶を飲んでいる。
陽花がじゅんの右隣に座った。肩がじゅんの腕に触れる。
「えへへ、今日はありがとう、お兄ちゃん」
それだけ言って、じゅんの肩に頭を寄せた。リビングの灯りがぼんやり温かい。姉妹たちの気配が、遠くて近い。
話の続きをしようと思っていた。後輩のこと。明後日の部内発表会のこと。でも、じゅんの隣が心地よくて、言葉が急がなかった。
瞼が、少しずつ重くなった。
いつの間にか、陽花の体がじゅんの腕に傾いていた。金色のツインテールがじゅんの肩に散る。両手が腕を抱え込んでいる。その力が、眠りの中でも緩まない。じゅんの腕の筋が少し軋んだ。
満面の笑みだった。眠りながら、笑っていた。
夏凪が雑誌から目を上げた。口を開きかけた。——閉じた。
深雪がキッチンから戻り、リビングの光景を見た。手が一瞬伸びかけて、止まった。エプロンの裾を握り直した。
氷華が反対側から身を乗り出しかけて、足が止まった。毛布の中に沈み直した。
美空がペンを止めた。書類から顔を上げ、ソファの陽花を見た。眼鏡の奥の目が、何かを計算し——計算をやめた。
「……今回は、しょうがないわね」
小さかった。誰に向けたのかもわからない声だった。
月詠が紅茶のカップを口元に止めたまま、微笑んでいた。何か策を巡らせようとして——やめた。やめたことが、自分でも不思議そうだった。
誰も動けなかった。
陽花の寝顔が、リビングの空気を変えていた。怒りではない。悔しさでもない。ただ、この笑顔に手を出すことが、今夜はどうしてもできなかった。理由はわからない。わからないまま、六つの花は黙った。
じゅんが空いている左手で、テーブルの本を取った。開いた。しばらくこのままでいるつもりの姿勢だった。
陽花の寝息が、規則正しく聞こえている。
腕を抱える力は、緩まない。満面の笑みも、消えない。
春の夜の六花円舞曲に、静かな時間が流れていた。




