第六話 会長の背中
校門をくぐる手前で、じゅんはポケットに触れた。
スマートフォンの角が、指先に当たる。あの連絡は確認した。左手には紙袋。春の午後の陽射しが、校舎の白壁を温めていた。
受付で来校者記帳を済ませ、校長室へ向かう。年度初めの挨拶は十分ほどで終わった。九条校長は「じゅん君、今年もよろしく」と柔和に笑い、じゅんは丁寧に礼をして廊下に出た。
すれ違いざまに、細い目の男性教諭が足を止めた。
成瀬 正義。音楽教諭、生徒会顧問。穏やかな微笑みのまま軽く会釈を交わし、そのまますれ違った。
放課後の生徒会室は、紙に埋もれていた。
美空は椅子に縫い止められていた。右手にペン、左手に出し物変更届の束。机の端にはタイムテーブルの第三稿が広がり、その下から会場レイアウトの第四稿が顔を覗かせている。
新入生歓迎会まで、あと五日。
四月の会長就任から、まだ二週間。最初の大仕事だった。各部活・同好会のステージ発表と展示ブースの合同イベント。参加団体は三十を超える。今日だけで、追加ステージの申請、展示ブースの位置変更の要望、体育館の転換時間を確認する電話が二本。授業の合間に捌ききれなかった連絡が、放課後の机に積まれていた。
「会長、出し物変更届の集計、終わりました」
西園寺 茜がファイルを差し出した。筆頭書記。涼しい目元に淀みはなく、手際に迷いがない。
「ありがとう、茜さん。……私が確認するから、置いておいて」
受け取り、手元に引き寄せた。茜の集計は正確だ。わかっている。けれど会長が目を通していない書類を現場に出すわけにはいかない。会長が確認する。会長が判断する。そうでなければ、この椅子に座る意味がない。
玲先輩なら、この量を三十分で片づけていた。西園寺 玲。茜の姉の前会長。三期。あの人が積み上げたものを、今、美空が引き継いでいる。やり方は叩き込まれた。けれど同じ速度では回せない。その隙間が、日ごとに広がっている。
「美空さん、少しお休みになられては」
龍崎 椿が、湯気の立つ湯呑を茶托ごと静かに差し出した。繁忙期には、こうして手伝いに来てくれる。所作に迷いがない。茶道部部長の手だった。
「ありがとう、椿さん。あと少しだけ」
向かいの席で、榊原 真緒がファイルを綴じる手を止めた。生徒会会計。今年度の新任で、まだ美空との距離を測っている。
「……会長、すごいなぁ」
小さな声。美空は聞こえなかったふりをして、ペンを走らせた。
五時を回った頃、美空は席を立った。
体育館の使用時間帯を事務棟で確認する必要がある。右腕に変更届のファイル、左手にタイムテーブルの第三稿。リボンが少しずれていた。前髪が額に貼りついていた。
管理棟への渡り廊下を抜け、角を曲がった。
「——美空?」
足が止まった。
じゅんが立っていた。片手に紙袋。もう片方の手がこちらに向かって小さく上がる。春の西日が廊下の窓から流れ込み、じゅんの背に長い影を引いていた。
「挨拶まわりのついでに寄った。校長先生と話してきたよ」
穏やかだった。保護者の声だった。
美空の腕の中で、ファイルがわずかに傾いた。体の力の配り方が、一瞬だけ狂った。すぐに抱え直す。
「兄さん、来なくていいのに」
声は出た。会長の声だった。けれどリボンのずれは直せなかった。前髪が乱れ、腕いっぱいの書類を抱えた姿。見せたくなかった。この人にだけは。
「六人分の差し入れ。他のみんなには帰ってから渡すけど、美空の分は先に」
紙袋の中にはいくつかの小袋が見えた。じゅんがその一つを選んで取り出す。美空、と小さく書かれたメモが挟んであった。受け取る。指先が触れた一瞬を、美空は何でもないことにした。
「……ありがとうございます」
その声が、会長ではなく妹の声になっていた。
じゅんは生徒会室には入らなかった。廊下の窓際に寄りかかって、少しだけ話を聞いた。歓迎会の準備のこと。参加団体が多いこと。タイムテーブルが三度変わったこと。美空は報告するように話した。仕切る側の声。整理された言葉。じゅんは黙って頷いていた。
「ちゃんとやれてるじゃないか」
短かった。何気なかった。ただ、それだけの言葉のはずだった。
美空の喉の奥が、つかえた。目を伏せる。伏せたまま、呼吸を一つ整えた。
——ちゃんとやれている。兄さんにそう見えているなら、それでいい。
顔を上げたときには、会長の顔に戻っていた。
じゅんが背を向けかけたところで、声が落ちてきた。
「美空、たまには頼れよ」
足音が遠ざかる。
「……兄さんには、弱いところを見せたくないんです」
小さかった。届いたかどうかはわからない。
六時半、今日の解散時間。茜がファイルを閉じ、椿が湯呑を片づけ始めた。真緒が「会長、お疲れさまです」と声をかける。
三人の足音がドアの向こうに消え、生徒会室が静かになった。
じゅんから受け取った小袋を開けた。
いつもじゅんが選ぶ店のクッキー。見慣れた紙箱。きっと他の姉妹の分も同じものだろう。
その下に、小さな瓶が一本入っていた。
栄養ドリンク。
美空の指が、瓶の上で止まった。
きっと、他の姉妹の分には入っていない。
——知っていた。
挨拶まわりの「ついで」ではない。兄さんは、知っていて来た。美空がぎりぎりだと。六人分の焼き菓子は建前で、この一本だけが本音だった。
目の奥が熱い。泣くわけにはいかない。会長は、泣かない。
瓶の蓋を開けた。一口飲んだ。甘かった。それだけのことが、喉の奥を少しだけ緩ませた。
ペンを持ち直した。タイムテーブルの第四稿に取りかかる。書類はまだ残っている。
七時半。美空は生徒会室の灯りを消した。
鞄に荷物を詰め、廊下に出る。窓の外はもう暗い。春の夜気が、渡り廊下を流れてきた。
校門を出た。
街灯の下に、見慣れた車が一台停まっていた。
エンジンはかかっていない。運転席の窓が少しだけ開いている。じゅんが本を読んでいた。美空に気づいて、顔を上げた。
「遅くなると思ったから」
それだけだった。偶然ではなかった。挨拶まわりの「ついで」でもなかった。五時に差し入れを渡して帰ったはずの人が、二時間半、ここで待っていた。
美空の足が、止まった。鞄を持つ手が、きつく握られた。
「……兄さんは、いつもそう。だから、私は……」
続かなかった。
今ならまだ、歩ける。会長の顔のまま、ひとりで帰れる。
そう思ったのに、開いた助手席のドアが、あまりにも自然で、あまりにもいつも通りだった。
じゅんは何も訊かなかった。ただ、待っていた。
美空は黙って乗り込んだ。シートベルトを締めるとき、手が少しだけ震えていた。窓の外に、学園の灯りが遠ざかっていく。
車内は静かだった。美空はまっすぐ前を見ていた。
会長の背中しか見せなかった。ただ一人を除いて。




