第五話 六つの花、もう一つの顔
鍵が回る音を、この家は聞き逃さない。
午後五時半。春の日はまだ傾ききっていない。玄関ドアが開く前に、廊下の奥から地響きが来た。
「お兄ちゃーーん!!」
陽花だった。
スリッパが廊下を叩く音は二歩分しかなかった。三歩目で跳んでいる。じゅんが鍵を抜いた右手を下ろすより早く、小柄な全力が正面から衝突した。
じゅんの体が、一瞬だけ浮いた。靴が玄関のタイルから数ミリ離れ、背中のリュックが壁に触れて止まった。陽花の腕がじゅんの胴にしがみついている。締め上げている、と言うべきかもしれない。この体のどこにそんな力があるのか、三年経っても慣れない。
「陽花、肋骨」
「えへへ、おかえりなさい!」
聞いていない。満面の笑みがじゅんの胸元に押し当てられている。黄金色のツインテールが揺れるたびに、柑橘系のシャンプーの匂いが広がった。見上げてくるオレンジの瞳が、夕方の光を受けてまぶしい。腕の力は緩まない。
「陽花! 廊下を走らない!」
美空の声が、リビングの方から飛んできた。スリッパの音が近づいてくる。走ってはいない。けれど、歩幅が明らかに大きい。角を曲がって姿を現した美空は、ダークブラウンの髪を手で整え、服のリボンを直す仕草で呼吸を整えてから、眼鏡越しに琥珀色の瞳でじゅんの方を向いた。
「おかえりなさい、兄さん」
声が、さっきの叱責と別人のように柔らかかった。
「ただいま。今日は依頼が早く片づいた」
「そうですか。——陽花、いつまでしがみついているの。兄さんが靴を脱げないでしょう」
美空が陽花の肩に手を置いた。陽花が「もうちょっと」と粘る。美空が「今すぐ」と譲らない。三秒の攻防の末、陽花がようやく腕を解いた。名残惜しそうに、じゅんのシャツの裾を指先だけで掴んでいる。
靴を脱ぎ、リュックを下ろしかけたところで、美空が両手を差し出した。
「荷物、預かります。上着も」
有無を言わせない手際だった。リュックを受け取って脇に置き、スリッパを揃える。向きは完璧で、左右の間隔まで均等。上着をたたむ手が、一瞬だけ止まった。
「……兄さん、手を洗ったら、リビングへどうぞ。お茶の用意ができていますから」
「お茶?」
「ええ。月詠が——」
言いかけて、美空が口を閉じた。何かを飲み込むような間があった。
「……淹れています」
リビングに入ると、月詠がテーブルの前に座っていた。艶やかな黒髪の姫カットが、背筋の伸びた姿勢に沿って微動だにしない。
湯呑が二つ。急須が一つ。茶托の位置まで整えられている。月詠の正面にじゅんの席。自然にそうなったような配置だが、湯呑の絵柄の正面がじゅんの側を向き、右手で取りやすい角度に茶托ごと揃えてあった。
「あら、兄さま。おかえりなさいませ。お茶を淹れていたところですの」
月詠が微笑んだ。深い紫の瞳が、計算された角度でじゅんを捉える。完璧な笑み。
——のはずだった。
じゅんが席に着き、湯呑を手に取った瞬間、月詠の笑みが固まった。
湯呑の中身は、薄い緑ではなかった。琥珀がかった、わずかにとろみのある液体。立ち上る香りは、茶葉のそれではない。磯の気配を帯びた、上品で重い旨味。
——昆布茶。
月詠は高級な宇治の煎茶を用意していた。帰宅時刻から逆算し、蒸らし時間まで設計した完璧な段取りだった。しかしじゅんの帰りが予定より早かった。慌ててキッチンの棚に手を伸ばし、似たような容器を掴んだ。深雪が料理に使う、刻み利尻昆布の高級茶。急須に入れて湯を注ぐまで、茶葉との違いに気づかなかった。
月詠の顔から、血の気が引いた。
唇が微かに動く。取り繕うための言葉を探している。しかし、言い訳の構造を組み上げるより早く——
「飲みたいものがよくわかったね」
じゅんが一口飲んで、言った。穏やかに。
「今日は風が冷たかったから、昆布茶がちょうどいい」
月詠の瞳が、一拍、揺れた。
蒼白だった頬に、別の色が差した。驚きと、安堵と、それから——名前をつけるには早すぎる何かが、睫毛の影に滲んだ。
「え……と、当然ですわ。兄さまの体調を見れば、今日は温かいものが最適だと——」
声が、ほんの少しだけ上擦っていた。策士の仮面が、辛うじて元に戻る。けれど湯呑を持つ指先が震えていた。
キッチンの奥から、深雪の声が静かに届いた。
「兄さん、夕食はあと少しですよ」
声は穏やかだった。棚の昆布茶の位置がずれていることに、気づいていないはずがなかった。
ソファの端では、氷華がすでにじゅんの定位置の左隣を確保していた。L字ソファの三人掛け、じゅんがいつも座る真ん中のすぐ横。毛布にくるまったまま微動だにしない。いつからいたのかもわからない。じゅんがリビングに入ったとき、視線だけがこちらを追った。それだけで十分だった。
そして——二階の階段を、足音が降りてきた。
夏凪だった。
髪を下ろしている。私服に着替えている。部屋着ではなく、少しだけ整えた格好だった。さりげない。しかし、じゅんより少し前に帰ったばかりの人間の速度ではなかった。
「別に急いだわけじゃないから。たまたま着替えてただけ」
誰にともなく言い、テレビとじゅんの間にある一人掛けのソファに腰を下ろした。テレビを見るふりをすれば、視界の端にじゅんが入る。距離は取る。けれど視線の通りやすい位置を、長女は本能で選んでいた。
陽花がじゅんの右隣に座ろうとして、氷華の無言の圧に二秒だけ怯み、それでも座った。じゅんの右腕に、陽花の肩が触れている。左腕には氷華の毛布が触れている。
「お兄ちゃん、今日ね、バトンの新しい技ができたの! こう、くるって回して——」
「陽花、室内でバトンの真似はしないの」
美空が釘を刺す。陽花が「えー」と唇を尖らせた。
月詠はL字の角の席で、二杯目の昆布茶を淹れていた。今度は意図的に。じゅんの湯呑が空になるタイミングを、目の端で計っていた。一度失敗しても修正する。そこが月詠だった。
六つの花が、夕方のリビングを埋めていく。朝とは違う色で。朝が「始まり」の騒がしさなら、夕方は「帰ってきた」安堵の騒がしさだった。声の高さも、距離の詰め方も、少しだけ甘い。一日分の我慢が、玄関の鍵の音で解けている。
じゅんは昆布茶の二杯目を受け取りながら、ソファに深く背を預けた。左右から体温が伝わってくる。L字の角では月詠が策を練り直し、一人掛けでは夏凪がテレビに目を向けたまま視線だけを寄越し、キッチンでは深雪の包丁が正確なリズムを刻んでいる。
美空だけが立ったまま、全員を見渡していた。仕切る側の視線で。けれど、その目の端に、柔らかさがあった。全員が揃っている。それを確認して、ようやく美空も腰を下ろした。
じゅんがポケットの中で、スマートフォンが短く震えたのを感じた。
画面には触れなかった。ポケットの上から、親指で通知を消す動作だけをした。
月詠の視線が、一瞬だけじゅんの右手に向いた。
ポケットの中のスマートフォン。光らなかった画面。消された通知。
月詠は、何も言わなかった。微笑みを崩さず、湯呑に口をつけた。昆布茶の味は、二杯目の方が美味しかった。
春の夕暮れが、横の窓の向こうで静かに沈んでいく。庭の桜が夕日に染まっている。六つの花に囲まれた帰り道の終わりに、じゅんはまだ名前を見ていないメッセージのことを、頭の隅に置いたまま目を閉じた。
——今日も、賑やかな家だ。
リビングに、夕食の匂いが広がり始めた。




