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六花円舞曲(りっかワルツ) ~六つの花に慕われた兄の、季節をめぐる日常~  作者: りょーさん


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第九話 六時三十分は私のもの

 六時二十分。じゅんはキッチンの端でコーヒーを淹れていた。


 湯が落ちる音。豆の香り。隣では深雪の包丁が、朝を刻んでいる。とん、とん、とん。この家で、じゅんより早くキッチンに立つ人間は一人しかいない。声は交わさない。朝のこの十分間だけは、いつもそうだ。


 朝霧家には、いくつかのルールがある。


 美空が主導し、姉妹全員の合意を取りつけながら、少しずつ形になってきたものだ。三年の暮らしの中で、一つずつ、積み上がってきた。


 その中の一つ。六時半まで、ダイニングに入らない。


 兄のコーヒータイムを邪魔しない。抜け駆けしない。全員が守っている。六時半を過ぎれば何でもありだが、それまでの静けさは、じゅんのものだ。


 ただし、全員の合意が取れなかったルールもある。


 席順だ。


 美空は何度か提案した。曜日ごとのローテーション。五十音順。くじ引き。どれも否決された。全員が「隣」を譲る気がなかった。結果、席順だけがルール化されないまま、毎朝の争奪戦として残っている。



 六時二十八分。


 二階の廊下を、スリッパが忍び足で進む気配が三つ。三階から、何かを引きずる音が一つ。誰も声を出さない。出せば六時半前に動いていたことが全員にばれる。


 六時二十九分。階段の踊り場に足音が集まり始めた。階段の上下で、複数の息が止まっている。


 深雪が包丁を置き、エプロンの紐を結び直した。六人分の配膳の準備に入る。戦場の幕が、もうすぐ上がる。


 時計の秒針が、十二を指した。



 六時三十分。


 最初にダイニングに現れたのは——誰でもなかった。


 じゅんがカップを持ってダイニングの席に移ったとき、右隣の椅子に毛布が置いてあった。畳んだ状態ではない。座面を包むように、丸く盛り上がっている。


 毛布が、動いた。


 銀がかった髪が、隙間からわずかに覗いた。


 氷華だった。


「……おはよう」


 じゅんの声に、毛布の中から薄い目がこちらを向いた。


「……おはよう。……六時半、過ぎた」


 過ぎていた。いま。たった今。しかし、この毛布がいつからここにあったのかは、誰にもわからない。深雪がキッチンで仕込みをしている間に、気配を消して階段を降り、音もなくダイニングの椅子に収まった。深雪ですら気づかなかった。


 コーヒータイムは邪魔していない。ダイニングには、六時半より前には入っていない。——おそらく。立証も反証も不可能だった。



 六時三十分三十秒。堰が切れた。


 三階から陽花が飛び降りるように階段を駆け下り、二階の踊り場で美空の「走らないの!」を追い抜き、一階の廊下を全力で滑り込んだ。着地の衝撃でテーブルの食器がかたかたと鳴る。


「お兄ちゃんおはよう!! 隣!!」


 左隣の椅子に、弾丸のように座った。右を見た。毛布と目が合った。


「えっ、ひょかたん!? いつからいるの!?」

「……六時半から」


 嘘ではなかった。嘘とも言い切れなかった。


 美空が息を整えながらダイニングに入り、状況を一瞬で把握した。右隣は氷華。左隣は陽花。両方、埋まっている。


「氷華姉さん、六時半より前から——」

「……過ぎてから、座った」

「証拠は」

「……ない。でも、そう」


 美空の眉がぴくりと動いた。追及の材料がなかった。それに、席順はルール化できていない。違反を問う根拠がそもそもない。


 美空は眼鏡の位置を直した。直しながら、別の方向から攻めた。


「……私、ここ二週間、一度も兄さんの隣に座れていないんですけど」


 声が、会長のものではなかった。唇がわずかに尖っている。美空自身がそれに気づいて、すぐに視線を逸らした。


 そこへ月詠がダイニングの入口に立った。手には小さなメモ帳。深夜二時まで練り上げた「席順ルール化草案」。席順が合意に至っていない——その隙を突き、自分に有利な運用案を論理武装して持ち込む計画だった。起床時刻、移動ルート、過去二週間の着席データ、言い訳の分岐まで完璧に設計されていた。ただし、二時まで起きていた代償で、今朝の目覚ましを三度止めている。到着は六時三十五分。予定より五分遅い。完璧な草案は、草案を練る時間に敗北していた。


「あら、皆さまおはようございます。席順について、本日、新しい提案がございまして——」

「全員の合意が必要ね。今ここで採決する?」


 美空が振り返った。月詠のメモ帳に視線を落とす。


「……六人全員の賛成が条件よ。一人でも反対したら成立しない。それがこの家のルール」


 月詠は全員の顔を見渡した。氷華は毛布の中から微動だにしない。陽花は椅子の上でにこにこしている。月詠の提案に賛成する理由が、この二人にあるはずがなかった。


 メモ帳が、静かに閉じられた。


「……本日は、提案を見送りますわ」



夏凪はダイニングに入った瞬間、隣席が両方埋まっていることを確認し、一拍の沈黙の後、正面の椅子を引いた。


「……正面でいいわ。兄さんの顔が一番よく見える席だもの」


 堂々としていた。ただし、よく見ると目の下にうっすらと隈がある。妹たちの動きが気になって、いつもより三十分も早く起きていた。六時半の解禁まで、自室で正座して時計を睨んでいた。長女の矜持は、姉妹の競争から自由ではいられない。



 六時四十分。じゅんが席に着き、全員が揃った。


 右に毛布の氷華。左に満面の笑みの陽花。正面に、敗北を呑み込んだ夏凪。深雪はキッチンとテーブルを往復し、配膳の順番という名の主導権を静かに握っている。



「……順番にしたらどうだ?」


 じゅんが言った。


 六つの視線が、一点に集まった。


「今日は私の番です」


 深雪が皿を置きながら微笑んだ。


「わたくしの提案をお聞きいただければ——」


 月詠がメモ帳に手をかけた。


「長女の私が——」


 夏凪がカップを置いた。


「だから、ここ二週間——」


 美空が口を開きかけた。


「ひまりが一番に座ったもん!」


 陽花が椅子の上で跳ねた。


「……ここ。動かない」


 氷華が毛布の中から、一言だけ返した。


 六通りの主張が、テーブルの上でぶつかった。じゅんは六人の顔を順に見て、静かに息をついた。


「……わかった。今日は、このままで」


 朝食が始まった。



 深雪の配膳は、いつも通りじゅんの皿が一回り豪華だった。夏凪が無言で自分の皿と見比べ、深雪が微笑みで受け流す。陽花がじゅんの卵焼きに箸を伸ばし、美空が「行儀が悪い!」と叱った。月詠がお茶を注ぎ足す口実でじゅんに近づき、氷華が毛布の隙間からそれを見ていた。


 いつもの朝だった。どこを切り取っても、全力の朝だった。



 七時。美空が席を立った。


 鞄はすでに玄関に置いてある。制服の襟を正し、スケジュール帳を確認する。生徒会の朝礼がある。新入生歓迎会の準備は、まだ終わっていない。


「先に行きます」


 美空はダイニングを振り返った。五人の姉妹とじゅんが、まだ食卓にいる。朝の光が、テーブルの上を温めている。


 じゅんが立ち上がり、玄関まで出た。美空が靴を履く。リボンが少しだけずれていた。じゅんが手を伸ばし、直した。美空の唇が、一瞬だけ動きを失った。


「……行ってきます」


「行ってらっしゃい。無理するなよ」


 美空は背を向けた。門まで歩く足音が、規律正しい。けれど、ほんの少しだけ、いつもよりゆっくりだった。


 振り返らないことが、美空の強さだった。



 七時二十分。残りの四人が玄関に並んだ。


 深雪が弁当箱を差し出した。じゅんの昼食用。手に渡す一瞬、指先が触れた。深雪はそれを何でもないことにした。


「二段目に、兄さんのお好きなものを入れてあります」

「ありがとう、深雪」


 氷華が立ち止まった。カーディガンの襟が内側に折れ込んでいる。じゅんが手を伸ばし、直した。


「寒くないか」

「……寒い。けど、行く」


 小さく頷いて、氷華が外へ出た。


 月詠が小さく手を振った。


 三人が、門へ歩き出した。


 陽花だけが、玄関に残っていた。


「お兄ちゃん」


 振り返った。じゅんが立っていた。


 今朝の喧騒が、頭の中を駆け抜けた。隣の席を取れた。朝食の間、ずっとじゅんの隣にいた。卵焼きを狙って美空に怒られた。月詠のメモ帳が文字で埋まっているのを見た。氷華の毛布が動かないことに笑った。全部、全部楽しかった。


 なのに、もう行かなきゃいけない。


「お兄ちゃん、今日もお仕事がんばってね……」


 声が、小さくなった。朝はあんなに大きな声で「おはよう」を叫んだのに。自分でも不思議だった。


 靴を履いた。ドアを開けた。門まで歩いた。


 門をくぐった。


 ——振り返った。


 玄関に、じゅんが立っていた。春の朝日が、その輪郭をやわらかく包んでいた。門の敷居を一つ越えただけなのに、じゅんがとても遠く見えた。


 陽花の体が、止まった。


 足も。手も。肩も。呼吸さえも。


 朝からずっと全力で走り続けていた体が、そのまま、凍りついたように動かなくなった。


 ——帰ったら、また隣に座れるかな。


 それだけが、頭の中にあった。


 じゅんが、手を振った。小さく。いつものように。


 三秒。


 陽花は動き出した。くるりと前を向いて、駆け出した。金色のツインテールが朝の光の中で跳ねた。三人の背中に追いつくように、いつもの全力で。



 玄関が、静かになった。


 四つの足音が通りの向こうに消えていく。最後まで聞こえたのは、陽花の声だった。遠くで「ゆきりん、待ってー!」と叫んでいる。


 リビングから、夏凪の声がした。


「……行ったわね」


 コーヒーカップを両手で包んで、窓の外を見ていた。


「ああ。行った」


 じゅんは玄関のドアを閉めた。テーブルに、朝の名残が散らばっていた。ずれた椅子。畳まれた毛布。陽花が置き忘れたバトンのキーホルダー。


 夏凪がコーヒーを啜った。


「……明日は、私が隣を取るから」


 声は静かだった。カップの縁を、指先がゆっくりなぞっていた。


 じゅんは小さく笑って、自分のコーヒーに手を伸ばした。


 リビングに、二人分の静けさが降りた。朝の喧騒が嘘のように、穏やかな時間だった。


 長女の朝は、ここからゆっくり始まる。

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