第十話 奇跡の六花
放課後の廊下は、まだ明るかった。
柚木 すず(ゆずき すず)は、放送室の鍵を制服のポケットで弄びながら、廊下を歩いていた。高等部一年、放送委員。明日の校内放送の原稿は、まだ白紙だった。
ネタがない。
いや、正確には、ネタはある。この学園にはありすぎるほどある。問題は、どれを切り取るかだった。
聖カレイド学園には、六つの花が咲いている。
朝霧家の六姉妹。転入は三年前。それなのに——あるいはそれだから——彼女たちの存在は今なお色褪せない。すずが中等部一年の春、六人が学園の門をくぐった日のざわめきを、今でも覚えている。長女の夏凪は卒業したが、学園の空気はすでに塗り替えられていた。学園のカリスマだった夏凪、ここで生徒会長になった美空、文芸部のマドンナと呼ばれる深雪、近づきがたい儚さの氷華、太陽のような陽花、深窓の令嬢然とした月詠。「奇跡の六花」。誰が言い始めたのかはわからないが、もう誰もが使っている。
そして六花のまわりには、花を愛でる人々がいる。
ファンクラブ。この学園では、その存在はもはや日常の一部だった。すず自身も、そのひとつに名を連ねている。「黒耀のランウェイ」——夏凪のファンクラブ。一般会員である崇拝者。中等部二年の秋、雑誌の特集で夏凪のグラビアを見たのが始まりだった。だがすずにとって夏凪は、雑誌よりも先に「この学園の廊下を歩いていた人」だった。あの黒髪が、渡り廊下の光を受けて揺れていた午後のことを、すずはまだ正確に思い出せる。
中庭を抜け、渡り廊下に出た。窓の向こうに、桜の若葉が揺れている。春の風が制服の裾をかすかに持ち上げた。
声が聞こえたのは、渡り廊下の角を曲がった先だった。
「——ねえねえ、今朝の美空さん見た? ファイル五冊くらい抱えて階段上がってくの。ぜったい寝てないっしょ」
「やば〜。かっこいいけど心配なんだけど」
「ゆきりん、すごかった。図書室の前で後輩に本薦めてて、まじで光差してた。聖女すぎん……?」
中庭に面したベンチに、三人の女子生徒が座っていた。中心にいるのは、ミルクティーベージュの髪をゆるく巻いた少女。カーディガンを萌え袖気味に羽織り、爪にはラベンダーのジェルネイルが光っている。
鳳凰寺 奏音。高等部二年。ネイルアート同好会会長。
「ひょかたんも今日もやばかった〜。朝、昇降口で靴箱の前に立ってるだけなのに、半径二メートル誰も近づけないの。まじ尊い。尊すぎて写真撮れない。それがまた尊い。無理」
奏音がスマートフォンを胸に抱えて天を仰いだ。仲間たちが笑う。すずは足を止めかけたが、奏音の視界に入る前に通り過ぎた。ネタとしては使えるが、奏音の話は長くなる。明日までに原稿を仕上げなければならない。
歩きながら、すずはメモ帳に走り書きした。「六花の周辺、今日も平常運転」。
茶道部の部室は、渡り廊下を挟んだ東棟の一階にある。
通りがけに、襖が薄く開いているのが見えた。畳の上に正座した二つの影。茶を点てる所作が、すずの足を止めた。
龍崎 椿。高等部二年、茶道部部長。背筋の伸びた所作は、同じ制服を着ていても別の空気をまとっている。向かいに座る部員に、静かに話していた。
「——美空さんは、よく頑張っていらっしゃいます。玲先輩の後を継いで、まだ半月。あの方の真面目さは、生徒会の財産ですわ」
声は柔らかく、品がある。茶碗を回す手つきに、一切の乱れがない。すずは襖の影から数秒だけ耳を傾け、また歩き出した。
メモ帳に追記。「椿先輩、美空さんを語る。静かだけど熱い」。
廊下を歩きながら、すずは頭の中で原稿を組み立てていた。六花の話題は鉄板だ。ファンクラブの動向も面白い。「秩序の請負人」は生徒会を中心に動いているし、「陽だまりの里」は体育館のあたりでいつも元気な声が聞こえる。「月影」は名前こそ知られているが、何をしている集団なのか誰もよくわかっていない。異能集団だと囁く声もある。
けれど今日は、少しだけ違う角度で切りたかった。六花の「中」ではなく、六花の「外」にいる人のこと。
朝霧家には、兄がいる。
六姉妹の義兄で、探偵事務所の所長。そして——この学園の非常勤講師でもある。理科系の科目と、初等部の総合学習を受け持っているらしい。すずの学年では担当がないが、廊下で見かけたことは何度かあった。ジャケット姿で、静かな足取り。そばを通ると、女子がひそかにざわつく。
不思議なことに、じゅん先生のファンクラブを作ろうという話は、学年や部活のあちこちで何度も浮上しては、気づけば立ち消えになっていた。誰かが止めているらしい——そんな噂だけが、どこからともなく流れてくる。
教壇での顔は、生徒たちも知っている。でも——六花に囲まれたお家での『お兄様』としての顔は、誰も見たことがない。妹が六人もいて、全員がこれほどの華を持っているのなら——その中心に座る兄は、家ではどんな顔をしているのだろう。
単純な好奇心だった。悪意はない。放送委員の嗅覚が、そこに「みんなが聞きたい話」の匂いを嗅ぎつけただけだ。
明日の放送、これでいこう。すずはメモ帳を閉じ、鞄に入れた。
翌日、十二時十分。チャイムの余韻が廊下に溶けた。
すずはマイクの前に座った。原稿は手書きのメモ一枚。放送委員のヘッドセットを耳にかけ、スイッチを入れた。
「皆さん、ごきげんよう。お昼の放送の時間です。放送委員の柚木すずがお届けします」
声は明るい。聞く人の耳にするりと入る話し方を、すずは一年生ながら身につけていた。
「今日も聖カレイドは春爛漫ですね。中庭の桜にも増して、学園の六花は咲き誇っています。生徒会長の美空さんは今朝も早くから準備に走り回っていましたし、文芸部では深雪さんの新しい企画が始まるとか。それから——」
すずはメモをちらりと見た。書いてあるわけではない。頭の中で組み立てた一文が、唇から滑り出した。
「——ところで、じゅん先生って、お家ではどんなお兄様なんでしょう。六人の素敵な妹さんに囲まれて、どんな毎日を過ごしてるのか——ちょっと気になりませんか?」
軽い。無邪気。放送室の空気が、すずの笑顔でほんのり華やぐ。
「もし情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、放送室までどうぞ。柚木すずが責任を持ってお届けします。——それでは、素敵なお昼休みを」
スイッチを切った。ヘッドセットを外す。自分でも、いい放送だったと思った。
すずが知らなかったことが、一つだけあった。
放送室の三十メートル先、管理棟へ向かう廊下の角で、春の私服姿の若い女性が足を止めていた。
朝霧 夏凪。大学の午前が終わり、学園に寄ったのは今年度のイベントスケジュールの確認のためだった。夏凪が来賓やゲストとして参加しうる行事がいくつかある。美空との打ち合わせは昼休みに入れてあった。その後、ベルに詳細を任せるつもりだった。
天井のスピーカーを見上げたまま、夏凪は動かなかった。
『じゅん先生って、お家ではどんなお兄様なんでしょう——』
その声が、耳の中で繰り返されていた。制服ではない自分の姿が、廊下の窓ガラスにうっすらと映っている。私服。大学生。もうこの廊下を毎日歩く人間ではない。
夏凪の顎がわずかに上がった。紙袋を持つ手に、力が入る。
じゅんの、家の中の顔を、気軽に引き出そうとしている。それが学園中に流れた。聞いた生徒が興味を持ち、調べ、噂が広がる。——その先にあるものが、夏凪には見えていた。教壇での顔の向こうを覗こうとする目が増える。家族の外側から、手が伸びてくる。
——そういうのは、許さない。
放課後。
すずは放送室の片づけを終え、鍵を職員室に返しに行く途中だった。
渡り廊下の曲がり角で、人影が立っていた。
黒髪のストレート。私服。春のブラウスに、品のよいスカート。カーディガンを肩にかけ、ヒールの先には中庭の砂がうっすらと乗っている。腕を組み、制服の生徒たちの間にあって、その存在だけが明らかに異質だった。
すずの足が止まった。
知っている。この人を知っている。中等部の頃から見ていた横顔。雑誌で何度も確かめた輪郭。「黒耀のランウェイ」の会報で追いかけた背中。
「あなたが、柚木すず?」
声は静かだった。低かった。昼の放送で聞いた自分の声がどれほど軽かったか、すずは今、この声と並べて初めて知った。
「昼の放送。聞いたわ」
夏凪の視線が、すずを正面から捉えた。
「じゅん先生がお家でどんなお兄様か、だっけ。——余計なことを放送で流さないで」
声のトーンが、ほんのわずかに沈んだ。本人さえ気づかないほど小さな変化だった。言葉は制止。けれどその奥にあるものを、すずは聞き取れなかった。聞き取れるはずもなかった。すずの耳は今、まったく別の音で満たされていたからだ。
心臓が、跳ねた。
「——夏凪先輩!?」
声が、裏返りかけた。すずの目が大きく開き、両手が胸の前で重なった。鍵を握ったまま、体が半歩前に出ている。
「本物の——夏凪先輩ですよね!? あの、「黒耀」のアドーアの柚木です! 中等部の頃からずっと先輩のファンで、雑誌の春号の十二カット全部保存してて——」
夏凪が、一瞬、瞬きをした。
牽制の空気が、行き場を失った。構えた手が、相手の無防備な笑顔に受け止められて、振り下ろす先がなくなっていた。
「……あなた、人の話を聞いてる?」
「聞いてます! 聞いてます聞いてます! 余計なこと言うなって、はい、気をつけます! でも——先輩が私に直接——」
すずの瞳がきらきらと光っていた。牽制の言葉すら、この子にとっては推しとの対話だった。夏凪はかける言葉を見失い、腕を組み直した。
「……ほんとに反省してるの?」
「してます! でもあの、先輩、今日はどうしてこちらに? 先輩が歩いてた渡り廊下、中等部の時よく見てました。今の中等部は学園生の頃の先輩を知らない子が多いですけど、高等部のみんなはまだ夏凪先輩の話しますよ。この前なんか奏音先輩が——」
すずは、止まらなかった。
夏凪への憧れが、放送委員の饒舌と結びついて、堰が切れたように学園の話を語り始めた。六花のこと。ファンクラブのこと。朝の昇降口の風景。体育館から聞こえる応援の声。茶道部の前を通ると漂うお茶の匂い。すずが毎日見ている聖カレイドの空気が、ひとつひとつ言葉になって夏凪の前に並べられていった。
夏凪は何も言わなかった。
腕を組んだまま、渡り廊下の窓に背を預けて、すずの話を聞いていた。制服を着た後輩が、制服のない自分に学園を語っている。その構図がどういう意味を持つのか、夏凪には痛いほどわかっていた。ここはもう、自分が毎日いる場所ではない。けれどこの子の口から聞こえてくる景色は、まだ鮮やかに動いている。
すずがひとしきり話し終えたとき、夏凪は小さく息をついた。
「……あなた、よく喋るのね」
「すみません、放送委員の癖で……! あの、先輩。何かあったらいつでも放送室に来てください。お昼は絶対います!」
すずが両手を前に出した。放送委員の名刺代わりのつもりだった。差し出された笑顔に、夏凪は一拍だけ間を置いた。
「……覚えておくわ」
それだけ言って、紙袋を持ち直し、すずに背を向けた。
「帰るわ。——門はどっちだったかしら」
独り言のように呟いた。視線は渡り廊下の先を向いているが、その先は管理棟であって門ではない。すずは一瞬だけ首を傾げ、すぐに笑顔になった。
「ご案内します! こっちです、先輩!」
すずが半歩先に出て歩き始めた。夏凪はその背中に続いた。歩幅を合わせているのか、合わせてもらっているのか。長女のプライドは、どちらとも言わなかった。
校門まで、すずは学園の話をやめなかった。桜並木のこと、購買のパンの人気ランキング、来月の行事。夏凪は一言も返さなかったが、足は止めなかった。
門の前で、すずが立ち止まった。
「先輩、またいつでも来てくださいね」
夏凪は振り返らなかった。片手を小さく上げて、門を出た。
すずは鍵を胸に押し当てたまま、しばらく動けなかった。
六花円舞曲のリビングに、夕方の光が差し込んでいた。
夏凪がソファの一人掛けに座り、テレビのリモコンを手の中で弄んでいた。画面はついていない。視線が、窓の外を向いている。妹たちの足音は、まだ聞こえない。
玄関のドアが開いた。
じゅんが帰ってきた。革靴を脱ぎ、鞄をダイニングの椅子にかける。リビングに入り、夏凪の姿を見て、少しだけ眉を上げた。
「夏凪。今日、学園に行ったのかい」
訊いたのではなかった。確認だった。夏凪の手にイベントスケジュールの冊子が載っていた。聖カレイド学園の校章が表紙に刷られている。
「……イベントの確認よ。ベルに任せる前に、自分で見ておきたかっただけ」
「そうか」
じゅんはキッチンに入り、コーヒーを淹れ始めた。豆を挽く音が、静かなリビングに響く。
「誰かと話してきたんだ」
夏凪の指が、リモコンの上で止まった。
「……なんでわかるの」
「イベントの確認だけなら、帰ってきてすぐ冊子を片づけてる。それがまだ膝の上にある。何か考え事をしてる顔だ」
コーヒーの香りが、キッチンからリビングへゆっくりと流れてきた。じゅんが二つのカップを持って戻り、一つを夏凪のそばに置いた。
「放送委員の子よ。一年生。『黒耀』のアドーアだって」
「へえ」
「余計な放送をしたから、言いに行っただけ」
「余計な放送?」
「……なんでもない」
夏凪はカップに手を伸ばした。コーヒーの表面に、夕日が細い線を引いている。
じゅんがソファに腰を下ろした。夏凪の正面ではなく、L字の角。少しだけ距離のある席。視線が交わりすぎず、けれど声は届く距離。
「その子、夏凪に会えて嬉しかったんだろうな」
「……は?」
「卒業しても後輩に慕われてるのは、夏凪がそれだけのものを残してきたからだよ」
夏凪の肩が、一瞬だけ強張った。
カップを持ち上げかけた手が、途中で止まる。背筋を伸ばそうとした体が、伸ばしきれなかった。カリスマの姿勢を保とうとして、その下にある別のものが邪魔をしていた。
独占欲で動いた。じゅんの名前が広がることを止めたかった。けれど後輩の無邪気さに毒気を抜かれ、学園の話を聞いているうちに、自分がもうあの場所にいないことを思い知った。——その全部を、じゅんは見透かしていない。見透かしていないのに、いちばん柔らかい場所に、指を置いた。
慕われている。
夏凪はその言葉を、コーヒーと一緒に飲み下した。苦い。熱い。けれど、手放せなかった。
「……別に、そんなつもりで学園に行ったんじゃないから」
声はいつも通りだった。長女の声だった。
けれど肩の力が、ほんの少しだけ抜けていた。
じゅんはそれ以上何も言わなかった。コーヒーを一口飲み、窓の外に目をやった。夕日が、庭の若葉を橙色に染めている。
リビングに、夕方の静けさが降りた。妹たちが帰ってくるまで、まだ少しだけ時間がある。長女と兄だけの、短い午後だった。
夏凪はカップを両手で包んだ。窓ガラスに、私服の自分がうっすらと映っている。制服ではない。もう着ることはない。
——けれど、あの子は覚えていた。
夏凪が歩いた廊下を。夏凪が残したものを。
リモコンを置いた。テレビはつけなかった。コーヒーの湯気が、夕方の光の中でゆっくりと消えていった。




