第十一話 聖カレイド学園七不思議
昼休みの放送室は、すずだけの城だった。
柚木 すず(ゆずき すず)は、回転椅子に深く腰かけて天井を見上げていた。机の上には、明日の校内放送の原稿用紙が白いまま広がっている。ペンは転がったまま。指先でくるくる回していたが、それも飽きた。
ネタがない。
先週の放送で「奇跡の六花」の話題を出してから、反響はあった。ありすぎた。放課後、夏凪さんが直接来てくれたのだ。「余計なことを言わないで」。あの声、あの距離。黒耀の崇拝者として、正直、心臓が止まるかと思った。憧れの人に名指しで声をかけてもらえる生徒が、この学園に何人いるだろう。
——とはいえ、同じ路線は使えない。別の角度が要る。
すずは取材ノートを開いた。B5のリングノート。表紙に太いマーカーで「すずメモ ぜったい見ないで」と書いてある。ページをめくる。先週のインタビューメモ、校内行事のスケジュール、食堂の新メニュー情報。どれも一回分の放送にはなるが、すずの心を跳ねさせるものではなかった。
指がペンを取った。ノートの新しいページに、大きく書いた。
──聖カレイド学園の不思議な話、集めてみる。
理由はない。強いて言えば、この学園にいると、ときどき空気が変わる瞬間がある。それが何なのか、言葉にできたことはない。けれど放送委員の勘が言っている。この学園には、まだ誰もまとめていない「何か」がある。
すずは椅子から立ち上がった。ノートをスカートのポケットに突っ込み、放送室の鍵を閉めた。
*
最初に向かったのは、図書室だった。
昼休みの図書室は静かで、窓から差す春の光が書架の背表紙をやわらかく照らしていた。カウンター横の閲覧席に、一ノ瀬 小春が座っていた。文芸部の一年生。開いた文庫本の上に、視線が止まっている。
「小春ちゃん」
小さく手を振ると、小春が顔を上げた。ふんわりとした笑顔。
「すずちゃん、ごきげんよう。明日の放送の準備ですか?」
「それがネタ探し中なの。——ねえ、小春ちゃん、文芸部でなにか不思議な話ってない?」
小春が小首を傾げた。
「不思議な話……」
「怪談っぽいのでも、なんか変だなって話でも」
小春の視線が、図書室の奥——文芸部の活動に使われている一角へ向いた。書架が並ぶ通路の、突き当たりの窓際。部誌の原稿を書くとき、深雪がいつも座る場所だった。
「……あのですね、すずちゃん」
声が少しだけ小さくなった。
「文芸部の活動スペースの近くを通ると、ときどき——ひんやりするんです」
「ひんやり?」
「はい。冷たい風が吹いたわけでもないのに、すうっと涼しくなる瞬間があって。窓は閉まっているし、空調の吹き出し口も近くにないんです。他の部員も気づいていて、『図書室の冷気』って呼んでます」
すずはノートを開いた。ペンが走る。
──ひとつめ。文芸部の近くで冷気を感じる。窓も空調も関係なし。
「怖くはないんです」と小春が付け足した。「でも、あの場所に来ると、空気がちょっとだけ——澄むような感じがして。静かで、清潔で、少しだけ身が引き締まるような冷たさなんです」
すずはペンを止めた。目が光った。
「小春ちゃん、もうちょっと付き合ってくれない? 他にも集めたいの」
小春は文庫本にしおりを挟んで、静かに立ち上がった。
「面白そうですね。ご一緒します」
*
図書室を出て、渡り廊下を歩いた。中庭を抜け、本館の昇降口へ向かう。
昇降口の前で、中等部の女子生徒が友人と話しているのが聞こえた。
「——ねえ聞いて、このあいだ、またあの人がいたの」
「あの人って、校門のところの?」
「そう。すっごい綺麗なお姉さん。黒髪の長い。近づけない雰囲気で、思わず道を変えたの。そしたら変えた先にも同じ人がいて。またびっくりして別の道に行ったら、またいるの。どこに曲がっても、必ず先にいる」
「え、それ怖くない……?」
「結局、目的地にたどり着けなかったの。ぐるぐる回って、気づいたら元の場所に戻ってた」
すずの足が止まった。小春と目が合った。
「ごめんなさい、今の話、もう少し聞いていいですか? 放送委員の柚木です」
中等部の生徒は目を丸くしたが、すずの笑顔にすぐほぐれた。
「私だけじゃないんです。同じ体験をした子が他にもいて。道を変えても変えても、その人が先にいるんです。近寄りがたい美人で、声なんてかけられなくて——でも」
少し声を落とした。
「ときどき、何かを訴えるような目をしてることがあるんです。怒ってるんじゃなくて、もっと切実な——何か伝えたいことがあるみたいな」
すずはノートに書いた。
──ふたつめ。校門付近に近寄りがたい美女が立っている。道を変えても、変えた先に必ずいる。目的地にたどり着けず、元の場所に戻される。何かを訴えるような目。
「ありがとうございます!」
中等部の生徒が去ったあと、すずは小春に小声で言った。
「……ねえ小春ちゃん。それって、その綺麗な人も迷ってたりしない?」
「えっ……あ。道を聞きたかったけど声をかけられなくて、追いかけていたら相手も逃げて……」
二人は顔を見合わせた。真相はわからない。でも、ノートには「不思議」として書いた。
すずはノートの端に星印を描いた。二つ目。まだ足りない。
*
三つ目は、探しに行く必要がなかった。すずが自分で持っていた。
放送室に戻る廊下を歩きながら、すずは小春に話した。
「——あのね、これは私の話なんだけど」
声のトーンが、少しだけ落ちた。
「先月の木曜日。放課後、忘れ物を取りに放送室に戻ったの。鍵は閉まってた。私が朝、施錠したまま。合鍵は職員室の金庫にしかないから、昼休み以降は誰も入ってないはずだった」
小春が隣で、静かに聞いていた。
「鍵を開けて中に入ったら——数秒だけ、スピーカーから音楽が聞こえたの」
「音楽、ですか」
「うん。聞いたことのない曲だった。クラシックでもポップスでもなくて、なんだろう……電子音みたいな、でも綺麗な音の連なり。本当に数秒で止まったの。機材を確認したけど、電源は切れてた。再生履歴にも録音記録にも何も残ってなかった」
すずの指先が、無意識にスカートの鍵を握っていた。
「正直、あれだけはちょっと怖かった。自分のテリトリーで起きたことだから」
小春が小さく息を吸った。
「……すずちゃん、鳥肌が立ってます」
「立ってるのわかってる。でも書く」
ノートを開いた。指先がわずかに震えている。それでもペンは走った。
──みっつめ。施錠された放送室から、数秒間だけ音楽が流れた。機材に異常なし。記録なし。
*
生徒会室の前を通りかかったのは、五時間目が始まる少し前だった。
廊下の角を曲がったところで、書類の束を抱えた榊原 真緒とすれ違った。生徒会会計。高等部二年。まじめそうな顔立ちに、少しだけ疲れの色が乗っている。
「真緒先輩、お疲れさまです」
「あ、柚木さん。こんにちは」
「先輩、ひとつ聞いてもいいですか。生徒会で何か不思議なこと、ないですか」
真緒が足を止めた。書類の束を抱え直しながら、少し考える顔をした。
「不思議なこと……。うーん、怪談とは違うんですけど」
「なんでも」
「生徒会に楯突いた人が、なぜか最後には協力者になるんです」
すずと小春が、同時に首を傾げた。
「行事の方針に反対した部長さんとか、予算配分に不満を出した委員長とか。最初はかなり強く抵抗するんですけど、気づいたら一番積極的に動いてくれてるんです。毎回。例外なく」
「それは——会長の説得が上手いってことじゃ」
「それだけなら不思議じゃないんですけどね」真緒が苦笑した。「反対していた人に誰かが会いに行ったとか、何か話し合いがあったとか、そういう過程が見えないんです。ある日突然、空気が変わってる。しかも、変わった後の方がみんな楽しそうで」
真緒の目が、少しだけ遠くなった。
「最初は偶然かと思ったんです。でも一年間会計をやっていて、一度も例外がなかった。会長の力だけなのか、それとも……」
言葉が途切れた。真緒自身にも、その先がわからないようだった。
すずはノートに書きながら、ふと手を止めた。
「——そういえば先輩、この学園って大きな事故とか事件とか、ありましたっけ」
真緒が目を瞬いた。
「……ないですね。私が入学してからは一度も。それどころか、先輩たちに聞いても、記憶にないって」
「ですよね」
小春が隣で小さく頷いた。「確かに、不思議なくらい……」
三人の間に、一瞬だけ静かな空白が落ちた。
真緒が先に笑った。「でも、居心地はいいんですよね、この学園」
「それは間違いないです」すずもつられて笑った。
──よっつめ。生徒会に楯突いた者は、必ず最も強い協力者になる。過程は見えない。例外なし。
その下に、小さく書き足した。
──(メモ:この学園、大きな事故が一度もない?)
深掘りはしなかった。今日はネタ探しの日だ。真緒に礼を言い、小春と一緒に廊下を歩き出した。
*
五つ目は、寮生の間で静かに語られている話だった。
放課後、すずは聖カレイド寮の入り口付近で、知り合いの寮生をつかまえた。
「深夜——二時か三時くらいかな。廊下に、気配だけが通るの」
寮生の声は、怖がっているというより、不思議がっている響きだった。
「足音はしないの。でも、誰かがそこにいる感じがふわって近づいて、通り過ぎていく。それで——これが一番不思議なんだけど」
寮生が、少しだけ声を落とした。
「通り過ぎた後に、ゆっくりした声で『おやすみなさい』って聞こえるの。ささやくみたいに。優しくて、温かくて」
「怖くなかった?」
「それが、全然。なんて言うんだろう——安心して、そのまますうっと寝ちゃうの。翌朝、夢だったのかなって思うんだけど、同じ体験をした子が何人もいて」
小春がすずの腕を小さく掴んだ。
「……不思議ですね。怖い話のはずなのに、温かい」
──いつつめ。寮の廊下を、姿のない気配が通る。深夜。通り過ぎた後に「おやすみなさい」のささやき声。聞いた者は安心して眠りにつく。
*
六つ目は、体育館に向かう渡り廊下で拾った。
部活動に向かう一年生の男子二人が話していた。
「今日もやばかった。体育館行く途中でめちゃくちゃ元気出た」
「わかる。なんか体育館の近くって、空気違くない? 疲れてても行くとシャキッとするっていうか」
「テスト前とか、わざわざ体育館の横を通ってから自習室行くやつもいるらしいよ」
「え、それもうパワースポットじゃん」
すずはノートを広げたまま、小走りで二人に追いついた。
「ごめんなさい、放送委員です。今の話、もうちょっと詳しく!」
二人の話を総合すると、体育館の周辺に来ると、沈んでいた気持ちや疲れた体が嘘のように軽くなる、という体験をした生徒が少なからずいるらしい。体育の授業があるからテンションが上がるだけだろう、という解釈もあるが、授業のない日でも同じだという声が複数あった。
──むっつめ。体育館の近くに行くと、沈んだ心と疲れた体が嘘のように軽くなる。授業の有無を問わない。
すずはペンを止めて、ノートを見返した。六つ。あと一つで——いや、まだ「七つ」を目指しているわけではなかった。ただ集めているだけだ。でも、六つ並んだ文字列を見ていると、心臓の奥が小さく跳ねた。
「小春ちゃん、あと一か所だけ行きたいところがあるの」
*
屋上への扉は施錠されていた。すずは扉の前に腰を下ろし、取材ノートを膝に載せた。
この話は、先月の放送委員の集まりで先輩から聞いた。先輩自身が見たのではなく、去年の卒業生が見たという。その卒業生も、別の卒業生から聞いた。いつ始まった話かは、誰も知らない。
月の綺麗な夜。屋上に、銀色の影が見えることがある。
獣のような、けれど獣にしては優美すぎる輪郭。月光を浴びて、銀色に光る。目撃した者の証言は、不思議なほど一致しているという。
——怖くはなかった。
——むしろ、守られている気がした。
すずは施錠された扉を見上げた。今は昼で、月は出ていない。扉の向こう側を確かめる術はなかった。
「先輩の話だから、私は見てないんだけどね」
ペンを走らせた。
──ななつめ。月夜の屋上に、銀色の影。獣のような、優美な輪郭。目撃者は「守られている気がした」と口を揃える。
ペンを置いた。
ノートを見返した。一つ、二つ、三つ。四つ、五つ、六つ、七つ。指で数え直した。間違いない。七つだった。
「——七つある」
声に出して、初めて気づいた。
すずは屋上の扉の前に座ったまま、取材ノートを両手で持ち上げた。春の午後の光が、階段の窓から差し込んで、ノートの表紙を照らしていた。
「七不思議じゃん。——私、聖カレイド学園の七不思議、作っちゃったかも」
笑いが込み上げた。放送委員として走り回って、あちこちで話を聞いて、気づいたらノートに七つの不思議が並んでいた。誰もまとめたことのなかった不思議を、自分の足と耳が拾い集めた。それが誇らしくて、可笑しくて、少しだけ背中がぞわっとした。
小春は、すずの隣に静かに座っていた。一番目の冷気の話から、ずっと隣にいた。文芸部の活動スペースの冷たい空気を、校門の近寄りがたい美女を、放送室の得体の知れない音楽を、生徒会の不思議な力学を、寮のささやき声を、体育館の活力を、そして屋上の銀の影を——全部、一緒に聞いた。
小春は、ノートの文字をそっと覗き込んだ。七つの見出しが、すずの丸い字で並んでいる。
「七不思議、ちょっと怖いけど——」
言葉を選ぶように、一拍置いた。
「——素敵ですね」
声は静かだった。怖がっているのではなかった。不思議を不思議のまま、受け止めていた。この学園に満ちている、名前のつかない空気を、そのまま抱きしめるような響きだった。
すずは小春の顔を見た。穏やかで、柔らかくて、どこか——深雪先輩の横にいるときの、あの表情に似ていた。
「……うん。素敵だね」
階段の窓の向こうで、春の風が桜の若葉を揺らしていた。
*
翌朝。昼の校内放送の時間。
すずはマイクの前に座り、原稿に目を落とした。いつもより少しだけ背筋を伸ばして、深呼吸をひとつ。赤いランプが点灯した。
「——聖カレイド学園のみなさん、ごきげんよう。お昼の放送の時間です。放送委員の柚木すずがお届けします」
一拍。
「今日は、ちょっと特別なお話をします。昨日、校内を歩いていて気づいたんです。この学園には、みんなが薄々感じているけれど、誰もまとめたことのない『不思議』がたくさんあるって。集めてみたら——七つ、ありました」
すずの声が、放送室のマイクを通じて、校舎のすべての教室に流れていった。
「名付けて、『聖カレイド学園七不思議』。今日はそのすべてを、すずの取材ノートからお届けします——」
廊下で足を止めた生徒がいた。教室の窓際で耳を傾けた生徒がいた。昼食のパンを咥えたまま、天井のスピーカーを見上げた生徒がいた。
すずの声は、明るくて、少しだけ震えていて、それでもまっすぐだった。
七つの不思議が、言葉になって学園を巡っていった。




