第十二話 探偵事務所への小さな依頼
朝霧探偵事務所は、商店街から一本裏に入った通りにある。
二階建ての小さな建物。看板は控えめだが、商店街の誰もがこの事務所を知っている。迷子の猫、消えた看板、配達の行き違い。警察に届けるほどではないが、放っておくには気になる——そういう小さな困り事が、この事務所に集まってくる。
報酬は、たいてい野菜か菓子折りだった。
「代行、おはようございます! 今日もお綺麗ですね!」
通りに面した窓の下を、八百屋の若い店員が自転車で通り過ぎた。片手を上げて挨拶する。窓の内側で、葛城 二華が小さく会釈を返した。ロイヤルネイビーのタイトボブが、朝の光の中で品よく揺れる。同色のビジネススーツに、糊の利いた白いブラウス——その肩のラインが、会釈の動作でも一切崩れなかった。
「おはようございます」
代行。朝霧探偵事務所の実質的な運営者として、商店街の人々が二華に付けた呼び名だった。ときどき「所長」と呼ぶ者もいる。所長はじゅんなのだが、じゅんが外出していることが多いため、事務所の顔は自然と二華になった。
向かいのデスクで、真白・P・アイ(ましろ・ぱとりしあ・あい)がモニターを見ながら小さく息をついた。プラチナホワイトのストレートロングが、画面の青白い光を静かに受けている。純白のテーラードジャケットに、淡いグレーのタートルネック。胸元で幾何学的にカットされたシルバーのペンダントが、画面の光を面で受けて、静かに反射した。
「今朝の挨拶、七件目です。うち四件が二華さん宛、二件が二凛さん宛、一件が私宛。比率としては概ね安定しています」
「数えなくていいです、アイ」
「観測は習慣です。異常値が出たときに気づけなければ、分析官の意味がありません」
窓際の席で、美琴 二凛が湯呑を両手で包んでいた。桜色のハーフアップに朝の陽が透けて、エメラルドの瞳がやわらかく潤んでいる。アイボリーのフレアワンピースの丸襟と、ペールバイオレットのカフェ・タブリエの裾が、湯呑を覗き込むしぐさに合わせてやわらかく揺れた。耳たぶで、小さなパールが控えめに光る。事務所の最年少。おしとやかな物腰で、商店街では「りんちゃん」と呼ばれている。アイは「アイちゃん」。三人が商店街を歩くと、あちこちから声がかかり、サービスの名目で野菜やらお菓子やらを手にしているのが常だった。
「……今日、じゅんは午後から?」
二凛が、何気ない声で訊いた。じゅんの予定を確認するのは毎朝のことだったが、声の端にわずかな期待が混じるのも、毎朝のことだった。
「午前中は六花円舞曲。午後にこちらへ来られる予定です」
シルバーの細縁眼鏡を指先で軽く押し上げて、二華が答えた。じゅんのスケジュールは頭に入っている。デスクの隅で、薄型のタブレットが、画面を伏せたまま静かに置かれていた。
「じゃあ、お昼までに事務所を整えておくね」
二凛が立ち上がりかけたとき、事務所の引き戸が開いた。
*
「あの、代行さん、ちょっといいかしら」
入ってきたのは、商店街の喫茶店「珈琲 さえずり」の店主、宮沢 節子だった。六十代半ば。エプロンの上からカーディガンを羽織り、手に小さな紙袋を持っている。
「宮沢さん、おはようございます。どうぞ、お掛けください」
二華が来客用のソファを示した。二凛がすぐにお茶の準備に立つ。アイはモニターから視線を外し、来客の方に体を向けた。
宮沢が紙袋の中から取り出したのは、革の手帳だった。手のひらに収まるほどの大きさ。使い込まれた茶色の革に、金色の留め具が付いている。
「昨日の閉店後、テーブルの下に落ちてたの。お客さんの忘れ物だと思うんだけど」
二華が手帳を受け取り、表紙を確認した。名前の刻印はない。
「中を拝見しても?」
「ええ、お願い。私もちょっとだけ見たんだけど、名前がどこにもなくて」
二華が手帳を開いた。週間スケジュールの形式。小さな文字が丁寧に並んでいる。日付ごとに予定が書き込まれ、人名はすべてイニシャルで記されていた。
明日の欄に、目が止まった。
『14:00 Y.Sさん ——ご挨拶。よろしくお願いします、を忘れない!』
感嘆符の横に、小さな星のマークが三つ描かれている。
「……大事な約束ですね」
二華が静かに言った。感嘆符と星マーク。予定を記すだけでなく、自分への念押しまで書き込んでいる。明日のこの約束が、持ち主にとってどれほど重いか、書き方が語っていた。
宮沢が頷いた。
「ねえ、それが気になって。若い子だった気がするのよ。昨日の夕方、窓際の席にいたお客さん。顔ははっきり覚えてないんだけど……困ってるかもしれないでしょう?」
「警察に届けることもできますが」
「そうなのよね。でも、明日の約束に間に合うかしら。届けて、受理されて、持ち主が問い合わせて——となると」
「遅くなる可能性が高いです」
二華が手帳を閉じ、宮沢の目を見た。
「お引き受けします。本日中に持ち主を特定し、お届けします」
迷いのない声だった。所長が不在でも、この事務所は動く。動かす。それが、じゅんから預かった場所を守るということだと、二華は理解していた。
宮沢の表情がほぐれた。
「ありがとう、代行さん。やっぱりここに持ってきてよかった」
二凛がお茶を運んできた。宮沢の前に緑茶を置き、隣に腰を下ろした。
「宮沢さん、少しだけ聞いてもいいですか?」
「ええ、もちろん」
二凛の声は柔らかかった。聞き取りというより、近所のおしゃべりの延長のような空気を作る。
「昨日の夕方って、何時くらいでしたか?」
「五時過ぎだったかしら。閉店前の最後のお客さんだったの」
「おひとりでしたか?」
「そう。ひとりで来て、ホットココアを頼んで。窓の外をぼんやり見てたわ」
「ぼんやり……疲れてる感じでしたか? それとも、考え事をしてるような?」
宮沢が少し首を傾げた。
「考え事、かしら。でも暗い感じじゃなかったの。なんていうのかな——これから何かが始まる前の、ちょっと緊張してるような。ほら、新しいことを始めるときって、ああいう顔になるでしょう」
二凛が小さく頷いた。
「……わかります。ドキドキしてるけど、嫌じゃない顔」
「そうそう、そういう感じ! 若い子だったのは確かよ。学生さんかしらね」
二凛は宮沢の言葉を受け止めながら、視線だけを二華に向けた。二華が微かに頷いた。——情報は揃った、という合図だった。
宮沢がお茶を飲み終え、「じゃあ、お願いね」と立ち上がった。紙袋の中には、焼き菓子の包みが残されていた。事務所への手土産。いつものことだった。
「あ、そうだ。もし持ち主が見つかったら、その子にも少し分けてあげてちょうだいね」
宮沢がそう言い添えて、引き戸を閉めた。
*
宮沢が帰ったあと、二華が手帳をデスクの中央に置いた。
「整理します。依頼の概要——喫茶店に置き忘れられた革の手帳。名前の記載なし。明日の午後二時に重要な約束があり、本日中の返却が望ましい。宮沢さんの証言では、持ち主は若い女性、昨日の夕方五時過ぎに単独来店」
二華が手帳を開き、ページをゆっくりめくった。
「予定欄の構成を見ます。月曜から金曜に予定が集中しており、土日はほぼ空白。平日の午前中に固定枠があり——これは授業でしょう。学生であることは、ほぼ確定です」
アイが席を立ち、二華の隣に来た。手帳を覗き込む。
「二華さん、少し見せてください」
アイの視線が、文字そのものに向いた。予定の内容ではなく、書き方を見ている。
「筆記具はボールペン。インクの太さから〇・三八ミリ、黒。文字は小さいですが崩れていない。一画ずつ丁寧に書いています。速記の癖がないので、書くこと自体を苦にしていない人です」
「社会人より学生寄りの書き方、ということですか」
「はい。加えて、時間の記法が二十四時間表記ではなく十二時間表記です。午前・午後を『AM』『PM』と書いている。ビジネス手帳の慣習に染まっていません」
アイがページをさらにめくった。指先が、あるページで止まった。
「ここ。欄外のメモです。『シフト希望:火・木・土』と書かれています。その下に小さく、店名と思われるメモ——『Miel』」
「ミエル?」
「フランス語で蜂蜜です。看板のロゴが蜂のモチーフでした」
二華の目が細くなった。
「花屋の隣の洋菓子店ですね。先月、新しいスタッフ募集の張り紙が出ていました」
「Patisserie Miel。商店街の東寄りです」
アイが自分のデスクに戻らず、そのまま続けた。
「補足します。シフトの書き方が直近の週にしかないことから、アルバイトを始めて間もないと推定されます。手帳全体を通じて、一か月ほど前から予定の密度が上がっています。生活の変化——転居、進学、あるいは新しい環境への適応期と一致します」
「聖カレイド学園の新学期は四月です」
「時期が合います」
二凛が、二人のやり取りを聞きながら口を開いた。
「……宮沢さんが言ってた。『新しいことを始める前の顔』って。アルバイトを始めたばかりで、明日の予定も——たぶん、お店の誰かにちゃんとご挨拶したい、っていうことだよね。『よろしくお願いします、を忘れない!』って自分に言い聞かせてるくらいだから」
二凛の声が、少しだけ温度を持った。
「この子、すごく真面目な子だと思う」
アイの視線が二凛に向いた。一拍。
「同意します。メモの粒度と感嘆符の使い方が、丁寧さと不安の同居を示しています。——デジタルであれば即座にわかりますが」
アイが、わずかに口の端を上げた。
「たまには手書きの文字から人を読むのも、悪くありません」
二華が手帳を閉じた。
「方針を確認します。Patisserie Mielに連絡を取り、新しくアルバイトを始めた学生がいるか確認する。該当者がいれば、手帳の特徴を伝えて本人確認を取る。——二凛さん、お店への連絡をお願いできますか」
「うん。任せて」
「アイ、念のため、手帳に記載された他の予定から裏付けを取れますか。学園の行事日程との照合で十分です」
「了解しました。公開情報で照合します」
*
答えが出るまでに、三十分もかからなかった。
二凛がPatisserie Mielに電話をかけた。応対したのは店長で、「ああ、あの子ね」とすぐに心当たりがあった。
「先月から来てくれてる子で、聖カレイドの生徒さん。礼儀正しくて、とても真面目な子よ。——手帳? ああ、昨日も帰り際に何か探してたわ。見つからなくて、ちょっと焦ってた」
二凛が受話器を押さえ、二華に目配せした。二華が頷く。
「お名前を伺ってもいいですか? ご本人に確認を取りたいので」
「藤村 結衣さん。高等部の一年生だって言ってたわ」
同時に、アイが手帳の予定と聖カレイド学園の公開行事カレンダーを照合していた。
「体育祭準備委員会の日程、中間試験の期間、いずれも手帳の予定と一致します。聖カレイド学園高等部の在校生であることは確実です」
二華が時計を見た。午前十一時二十分。
「店長さんに、手帳をお預かりしていることをお伝えしてください。受け渡し方法は、ご本人の都合に合わせます」
二凛が電話を続けた。店長が藤村に連絡を取り、折り返しの電話が来たのは十分後だった。
「あの——朝霧探偵事務所さんですか。藤村です。手帳、見つかったんですか……!」
声が震えていた。安堵と、それを隠しきれない若さと。
「はい、喫茶店のさえずりさんから預かっています。いつでもお渡しできますよ」
「あの、今日のお昼過ぎに伺ってもいいですか。」
「大丈夫ですよ。大切な手帳ですから、見つかってよかったですね。」
二凛の声は、姉が妹に話すような温かさだった。電話の向こうで、小さく鼻をすする音が聞こえた。
電話を切った二凛が、息をついた。
「……泣いてた。ほっとして」
「依頼完了です」
二華が静かに言った。
*
午後一時。藤村 結衣が事務所を訪ねてきた。
聖カレイド学園の制服を着た、小柄な少女だった。肩の下まである髪を一つに結び、事務所の入り口で深々と頭を下げた。
「本当に、ありがとうございます。昨日からずっと探していて——」
二華が手帳を差し出した。藤村が両手で受け取り、胸に抱えた。
「明日の予定、大切なものでしたね」
二華の声は穏やかだった。藤村が顔を上げ、少し驚いたように二華を見た。
「はい。新しいバイト先で、先輩にちゃんとご挨拶したくて。明日、初めてシフトが一緒になるんです」
「よい一日になるといいですね」
藤村が頷いた。目がうっすらと赤い。二凛が紙袋を差し出した。
「これ、さえずりの宮沢さんから。『見つかったら、分けてあげてね』って預かってたの」
紙袋の中には、焼き菓子が二つ。宮沢が帰り際に「もし持ち主が見つかったら」と置いていったものを、二凛が丁寧に包み直していた。藤村が紙袋を覗き込み、また少し目を潤ませた。
「ありがとう、ございます……」
藤村が帰ったあと、事務所に静けさが戻った。
二凛が窓から、制服の背中が商店街の角を曲がるのを見送っていた。
「……真面目な子だったね」
「ええ」
二華がタブレットの記録を閉じた。アイはモニターに向き直っていたが、画面にはまだ学園の行事カレンダーが開いたままだった。
*
夕方。事務所の引き戸が開き、じゅんが入ってきた。
「お疲れさま。今日は何かあった?」
三人の顔を見て、穏やかに笑う。いつもの帰り方だった。
「商店街の喫茶店から、忘れ物の持ち主探しを依頼されました。午前中に解決しています」
じゅんがタブレットの画面に目を通す。簡潔にまとめられたレポート。
「手帳か。名前もないのに、よく見つけたね」
「三人の合わせ技です」
「概要を聞いていい?」
二華が経緯を説明した。手帳の予定構成から学生と判断したこと。アイが筆跡とメモの粒度から人物像を推定したこと。二凛が宮沢さんの証言から感情情報を引き出し、人物の輪郭を補ったこと。三つの情報が交差した地点に、洋菓子店の名前があったこと。
じゅんは黙って聞いていた。
聞き終えたあと、何も言わず、二華の肩にそっと手を置いた。
二華の指先が、一瞬だけ止まった。タブレットを持っていた手から、わずかに力が抜けた。
——言葉はなかった。手が肩に触れたとき、今日の仕事が認められたことが、指先を通じて伝わった。
じゅんは手を離し、アイの方を向いた。
「アイ。調査力は前から知っていたけど、今日のは少し違うな」
「と、言いますと」
「手書きの文字から、書いた人間の性格と生活を読んだ。データベースじゃなく、紙の上の痕跡から。——それは洞察だよ」
アイの指が、キーボードの上で止まった。画面を見たまま、瞬きが一回だけ多くなった。
「……デジタルであればすぐに終わる作業でした。アナログでは五分です」
「その五分に、価値がある」
アイは答えなかった。モニターの光が、表情を読みにくくしていた。ただ、キーボードに戻った指先が、最初の一打をなかなか押せなかった。
——デジタルでもアナログでも、同じことをしている。情報を読み、構造を見抜き、答えを出す。いつもと同じ作業のはずだった。なのに、この人はそこに別の名前を付けてくれた。洞察、と。そして、それを見ていた。
じゅんが最後に、二凛の前に立った。
「二凛。宮沢さんからの聞き取り、すごくよかったと思う」
「……え? 私、普通に話してただけだよ」
「普通に話すから、相手が安心して思い出せる。あの焼き菓子を藤村さんに渡したのも、二凛だろう」
二凛の頬が、わずかに染まった。視線がじゅんから逸れた。
「……宮沢さんに頼まれただけで。べつに、私が気を利かせたとか、そういうのじゃ——」
言いかけて、声が尻すぼみになった。じゅんの前では、いつもそうだ。
「だって、あの子、泣いてたから。宮沢さんも喜ぶかなって……」
「そういうところだよ」
じゅんが笑った。二凛は視線を落とし、自分の湯呑を両手で包んだ。
「……じゅんが、そう言ってくれるなら」
声が小さくなる。
「もう少し、頑張れる」
——頑張る理由を、二凛は自分でもわかっていた。
窓の外では、商店街の灯りがひとつずつ点いていた。事務所の中に、じゅんが淹れたコーヒーの香りが広がる。三人への労いの合図だった。
二華はマグカップを受け取り、来週のスケジュールを開いた。アイはコーヒーを一口飲んで、「じゅん様、適温です」と短く言った。二凛は、じゅんの隣の椅子にそっと座った。指先が、じゅんの袖にそっと触れた。掴むというには弱い。でも、離さなかった。
明日、藤村結衣は洋菓子店の先輩に「よろしくお願いします」と言うだろう。小さな革の手帳は、ちゃんと持ち主のもとにある。
商店街の夕暮れは、今日もいつも通りだった。




