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六花円舞曲(りっかワルツ) ~六つの花に慕われた兄の、季節をめぐる日常~  作者: りょーさん


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第十三話 さくら、ひとひら、君に

 朝食の席で、陽花が立ち上がった。


「お花見しよう!」


 窓の向こうに、庭の桜が見えていた。六花円舞曲の庭に一本だけある染井吉野。三年前、この家に越してきた春に、すでに咲いていた。今年もまた、枝の先まで淡い色が満ちている。


 美空がスマートフォンの天気予報を確認した。


「今日は終日晴れ。最高気温十九度。風速二メートル。——花見日和ですね」


「美空、もう段取り始めてるでしょう」


 夏凪がコーヒーカップを口元に運びながら言った。美空の指がすでに画面をスクロールしている。レジャーシートの在庫、紙皿の枚数、飲み物の買い出しリスト。聞いてから動いたのではない。陽花が立ち上がる気配で、もう動き始めていた。


「仕切り、助かるよ」


 じゅんが言った。短く、さりげなく。美空の指が一瞬だけ止まった。


「……当然です。こういうことは、私がやらないと」


 深雪がキッチンに消えた。声だけが届いた。


「お弁当は任せてください。一時間ほどいただきます」


 月詠は紅茶を飲みながら、扇子の陰で何かを考えていた。唇がかすかに動いている。言葉を選んでいるのではない。紡いでいるのだ。


 氷華は、窓際の椅子に座ったまま動かなかった。毛布を膝に載せ、庭の桜を見ている。他の五人が動き始めた気配を、背中で聞いていた。



          *



 昼前。庭の桜の下に、レジャーシートが敷かれた。


 美空が配置を仕切り、陽花がクッションを運び、夏凪がテーブル代わりの木箱を置いた。深雪の重箱が三段、中央に鎮座している。


 席順の争いは、今日も決着がつかなかった。じゅんが桜の幹を背にして座り、その両隣を六つの視線が射抜く。


 最初に動いたのは陽花だった。じゅんの右側に滑り込む。速い。だが、左側にはすでに氷華がいた。毛布ごと。いつ移動したのか、誰も見ていなかった。


「……氷華姉さん、いつからそこに」


 美空の問いに、氷華は答えなかった。じゅんの袖を掴んだまま、桜を見上げている。


 夏凪は一人掛けの折り畳み椅子を持ち出し、少し離れた位置に座った。じゅんが何も言わず、ポットからコーヒーを注ぎ、夏凪のそばに置いた。夏凪は、三分後に手を伸ばした。


 月詠がじゅんの斜め前に正座した。膝の上に、薄い冊子が載っている。


 深雪が重箱の蓋を開けた。彩りの整った花見弁当。卵焼き、煮物、桜餅、稲荷寿司。全員分が均等に——ただし、じゅんの取り皿にだけ、卵焼きが一切れ多い。


 じゅんは何も言わず、一口食べた。箸を置いた。


「うまい」


 一言。深雪の手が、取り箸の上でほんの一瞬だけ止まった。


「……ありがとうございます」


 声は穏やかだった。いつもの深雪だった。ただ、次の一切れを取り分ける手が、少しだけ丁寧になった。



 花びらが風に乗って流れてきた。


 陽花が桜の下を走り回っていた。金色のツインテールが春の光に跳ねる。枝の間をくぐり、花吹雪の中を駆け抜け、笑い声が庭に響いている。


「陽花、頭」


 じゅんが笑って手を伸ばした。金色の髪に、花びらが五、六枚ついている。一枚をそっと取ってやった。


「えっ——どこ? まだある?」


「まだある。じっとして」


 陽花が目を閉じて動きを止めた。じゅんの指先が髪に触れるたびに、閉じた目の奥で、睫毛が小さく震えていた。



 月詠が、冊子を閉じた。


 姿勢を正し、扇子を胸の前に構えた。視線がじゅんに向く。


「兄さま。一首、詠ませていただいてもよろしくて?」


 じゅんが頷いた。


 月詠が、声を落とした。


「——舞ふ花の ゆくへは風に まかせども ひとひらだけは 君にとまらむ」


 庭の空気が、一瞬だけ変わった。


 舞う花の行く先は風に任せよう。けれど、ひとひらだけは——あなたのもとに降りよう。桜の歌に聞こえる。花見の席にふさわしい一首に聞こえる。けれど宛先は、一つしかなかった。


「いい歌だな。今日みたいな日に、ぴったりだ」


 じゅんは、穏やかに言った。花見の歌として受け取った。——あるいは、そう受け取ったふりをした。


 月詠が扇子を開いた。


「……兄さまは意地が悪いですわ」


 声は涼やかだった。扇子の陰で、唇の端がほんの少しだけ持ち上がっていた。


「月詠、花見の席で兄さんを口説かないの」


 美空が取り皿を重ねながら、振り返りもせずに言った。月詠は扇子を閉じず、ただ微笑んだ。



 午後の日差しが傾き始めていた。


 陽花が芝の上で寝転がっている。美空が食器を片づけ始め、深雪が手伝いに立った。夏凪は椅子の上で目を閉じている。眠ってはいない。コーヒーカップが空のまま、指先に挟まれている。月詠は扇子を膝に置き、冊子に何か書き足していた。次の策か、今日の記録か。


 氷華は、じゅんの隣から動いていなかった。


 朝からずっと、同じ場所にいた。声を張らなかった。弁当を食べるとき「……おいしい」と小さく言い、陽花が桜の下を駆け回っているのを黙って見ていた。風が吹いて髪が揺れたとき、じゅんの方を一度だけ見て、すぐに桜に視線を戻した。


 ——順番は、最後でいい。


 誰よりも先に隣を取った。あとは、待つだけだった。



          *



 夕暮れが近づいていた。


 桜の色が変わる時間だった。昼間の白に近い淡さが、夕日を含んでほんのりと染まっている。風が止んだ。花びらが、音もなく垂直に落ちてくる。


 氷華の膝の上の毛布に、一枚の花びらが降りた。


 氷華はそれを指先でつまみ、手のひらに載せた。薄い花弁が、白い肌の上で夕日に透けている。


 隣のじゅんに、手を差し出した。


 掌を、上に向けて。指を、開いて。


 いつもなら袖を掴む手だった。引き寄せる手だった。離さない手だった。今日は違う。何も掴んでいない。花びら一枚だけを載せた手のひらを、ただ、差し出していた。


 じゅんが目を落とした。


 手のひらの花びらを見て——それから、視線が上がった。


 花びらの上ではなかった。氷華の顔を、見ていた。夕日を受けた銀がかった髪。透き通るような瞳。風が止んだ庭で、桜よりも静かに、そこにいる三女。


「桜が似合うな」


 氷華の呼吸が、浅くなった。


 吸うはずの空気が半分しか入ってこない。胸の奥で何かが詰まっている。苦しいのではない。こぼれそうなのだ。


 桜が似合う。桜を褒めたのではない。桜を背景にした自分を、見ている。そういう言い方をする人だった。三年間、隣にいた。隣にいて、見ていた。だから、わかる。


 ——知ってる。


 氷華は何も言わなかった。手のひらを引っ込めもしなかった。花びらが、夕風に攫われて飛んでいった。空になった手のひらが残った。


 じゅんが、その手にそっと手を重ねた。


 どちらも、何も言わなかった。夕暮れの庭に、手のひらの温度だけが残っていた。



          *



 部屋に戻り、着替えを済ませてからスマートフォンを開いた。


 通知が一件。


 差出人は二華だった。


『じゅんさん、今夜お時間があれば、事務所の近くの桜並木が見頃です。三人でお待ちしています。──葛城』


 じゅんは画面を見て、少しだけ笑った。

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