表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
六花円舞曲(りっかワルツ) ~六つの花に慕われた兄の、季節をめぐる日常~  作者: りょーさん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

15/15

第十四話 長女の散歩

 ベルが端末を閉じた。


「夏凪さん、本日は以上です」


 カフェの窓際の席。空になったカップが二つ。来月の撮影スケジュールの確認と、雑誌の取材依頼の選別。一時間半の打ち合わせが終わった。


 一拍。端末がバッグに収まる。ベルの肩の角度が、ほんのわずかに変わった。マネージャーの空気が解け、隣に座る友人の距離に戻る。


「夏凪、この後の予定は」


「地下の食品売り場に寄るわ。……家の珈琲豆が切れそうだっただから」


 じゅんが飲む豆だった。深煎り、苦味が強く、香りが重い。深雪が管理しているが、夏凪も銘柄を知っている。知っていて当然だ。長女なのだから。


「デパートは南口を出て左手ね」


「わかってるわ」


 カフェを出た。南口を出た。左に曲がった——はずだった。



 夏凪は足を止めた。


 見覚えのある角。見覚えのある自動販売機。見覚えのある桜並木。見覚えのある——門柱。


 六花円舞曲の、門の前だった。


 デパートは駅の反対側にある。南口を左に曲がれば着くはずの場所から、正反対の方角へ歩き続け、住宅街を抜け、自宅の門前にたどり着いていた。途中で一度も迷った自覚がない。いつもなら迷う。角を一つ曲がるたびにスマートフォンの地図を睨み、青い矢印と格闘するのが常だった。なのに今日は、足が止まらなかった。何も考えていないうちに——体が勝手に、この場所を選んでいた。


「……なんで、ここにいるのよ」


 答える者はいない。春の風が、黒髪をゆるく攫っただけだった。


 家に入るべきだった。朝霧家のルールでは、帰宅したら帰宅した人間として振る舞う。玄関前で待ち伏せはしない。じゅんの帰りは早い日で四時、遅い日は六時を過ぎる。ルートも日によって違う。電車の日もあれば、車の日もあり、どこかに寄って歩いてくることもある。待ち伏せが成立しない不確定さの中で、全員が公平に「おかえり」を言う。それがこの家のルールだった。


 だから、入ればいい。いつもはそうしている。迷って早く着いたら、何事もなかったように玄関を開けて、帰宅した人になる。


 なのに今日は、門柱に寄りかかったまま動けなかった。入れば「帰宅した人」になる。まだ、入りたくなかった。


 ——なぜ。


 スマートフォンを取り出した。画面には何も用事がない。ロック画面の時計だけが、午後五時を指していた。



「夏凪」


 声は、背後から来た。


 ベルだった。息が上がっていない。足音もなかった。いつからそこにいたのか、わからなかった。右手に紙袋を一つ。


「珈琲豆、買ってきたよ」


 紙袋を差し出した。中身は——じゅんが飲む銘柄。深煎り。二百グラムの袋が一つ。


「……私、まだ買ってないんだけど」


「うん。逆に歩いていったから、先にデパートへ回った」


 ベルの声は穏やかだった。責めてもいないし、笑ってもいない。


「夏凪が南口から左って言って、実際に左へ行った確率、直近一年で二割だよ」


 二割。反論の余地がなかった。


 夏凪は紙袋を受け取った。珈琲豆の重さが手のひらに確かだった。


「……ありがとう。ベル」


「最近、大変だったでしょう。撮影と課題が重なって」


 ベルの声が、少しだけ柔らかくなった。


「だから今日は、ちょっとしたご褒美」


「ご褒美?」


「うん」


 ベルが門の前の道を指した。住宅街を貫く一本道。六花円舞曲の前から駅へ向かう途中、商店街の手前で曲がる角がある。


「ねえ夏凪。今日のラッキーポイント、あの辺だと思わない? 散歩でもしたら、気分転換になるかも」


 ベルの目が、穏やかに笑っていた。占いの話をしているようで、まったく別のことを言っている。友人にしかわからない精度の誘導だった。


 夏凪は一拍だけ黙った。


 ベルが何を仕組んでいるのか、わからないふりをした。


「……散歩くらいなら」


 紙袋を持ち直した。ベルが示した方角に、足を向けた。


「じゃあ、また」


 ベルが背を向けた。足音は聞こえなかった。最後まで、余計なことは一言も言わなかった。



 一本道を、夏凪は歩いた。


 春の風が正面から吹いている。桜はもう葉桜に差しかかっていて、若葉が夕日に透けていた。紙袋の中で珈琲豆の袋がかすかに揺れる。


 ベルが示した方角。ラッキーポイント。散歩。——全部、建前だ。


 わかっている。この道の先に何があるか、知っている。


 足は止まらなかった。散歩をしているだけだ。建前は完璧に整っている。


 商店街の手前の角が見えてきた。


 角の向こうから、足音が聞こえた。革靴の音。聞き慣れた歩幅。一定のリズム。


 角を曲がった先に、じゅんが歩いていた。


 夏凪は足を止めた。


「——夏凪?」


 スタジオの帰りに迷った日と、同じ声だった。あの日は、じゅんが「偶然」を装った。今日は——


「偶然ね。散歩してたの」


 夏凪の声は平静だった。完璧に。


 ——ただ、手の中の紙袋を、少しだけ体の後ろに隠した。


「珈琲豆か?」


 見ていた。


「……在庫が切れそうだったから」


「そうか」


 じゅんが半歩先に出た。夏凪がその半歩後ろについた。あの日の帰り道と同じ距離。ただ、あの日は電車の中だった。今日は、春の風の中を並んで歩いている。


 どちらも急がなかった。家に着けば二人の時間は終わる。それを、互いに知っている。知っていて、歩幅を変えない。


 門が近づいてきた。



          *



 鍵が回る音を、この家は聞き逃さない。


 玄関のドアが開いた瞬間、階段の上から地響きが来た。


「お兄ちゃーーん!!」


 陽花だった。廊下を叩く音は二歩分しかなかった。三歩目で跳んでいる。じゅんが鞄を置くより先に、小柄な全力が正面から激突した。


「おかえりおかえりおかえり!」


「陽花、肋骨が——」


「えへへ、待ってた!」


 氷華が、いつの間にかリビングのドアの陰に立っていた。毛布を羽織ったまま、じゅんの方を見ている。


「……おかえり」


「ただいま、氷華」


 美空が二階から降りてきた。制服のリボンは外しているが、姿勢は崩れていない。


「兄さん、おかえりなさい。——陽花、いい加減に離れなさい」


 ダイニングの席にはすでに湯呑が二つ並んでいた。急須の位置、茶托の角度。完璧なセッティング。月詠は三階にずっといたはずなのに——いつ仕込んだのか。


 深雪がキッチンの入口に立っていた。エプロンの紐を結び直す動作で、さりげなく様子を窺っている。


「兄さん、夕食はあと一時間ほどです。先にお茶をどうぞ」


 六つの花が、夕方の玄関を埋めていく。いつもの光景だった。


 夏凪は玄関の壁に背を預けて、その光景を見ていた。じゅんと並んで帰ってきた。一番に「おかえりなさい」は言えなかった——陽花の突撃が速すぎた。けれど、一緒に門をくぐった。それは、陽花にも氷華にも誰にもできなかったことだ。



「——ねえ、なぎなぎ」


 陽花がじゅんの腕にぶら下がったまま、夏凪を見た。


「なぎなぎ、お兄ちゃんと一緒に帰ってきたよね? 窓から見えたよ! 二人で門のところ歩いてた!」


 空気が、変わった。


 夏凪の背筋が伸びた。


「……たまたまよ。散歩してたら会っただけ」


「えー! でもすごい! なぎなぎ、前にも門の前にいるの見たことあるけど、いっつも一人で家に入ってたじゃん。今日はお兄ちゃんと一緒だったんだ!」


「陽花」


 美空が短く制した。慣れた手つきだった。


 夏凪は腕を組んだ。


「……打ち合わせが早く終わって散歩してただけ。それだけよ」


 月詠が三階から降りてきた。階段の上から、すべてを聞いていたような微笑みを浮かべている。


「あら、夏凪姉さま。兄さまと並んで門をくぐるとは、珍しいことですわね」


「月詠」


 夏凪の声に、刃が混じった。月詠が口を閉じた。だが微笑みは消えなかった。


 氷華が毛布の中から一言だけ呟いた。


「……なぎ姉の勝ち」


 それだけだった。次は自分だ、と無言で宣言していた。



 深雪がキッチンから出てきた。


「姉さん、珈琲豆、いただけますか。明日の朝に使いますね」


 夏凪の紙袋が、深雪の手に渡った。深雪が袋を開け、銘柄を確認して微かに頷いた。正しい豆だった。


 ——深雪の指が、紙袋の取っ手に触れたまま止まった。


 珈琲豆の深煎りの香りの奥に、もう一つ、かすかな香りが残っている。柑橘系の、けれど甘さを帯びた芳香。ベルガモット。それから微かな煙のような余韻。珈琲豆の紙袋にあるべき匂いではなかった。


 深雪は何事もなかったように、紙袋を閉じた。


「……ありがとうございます」


 それだけだった。声のトーンは変わらなかった。珈琲の領域に触れた香りが誰のものかを、深雪は知っていた。そしてそのことを、誰にも言わなかった。


 場の空気を壊さない。長女の建前を守る。深雪はいつもそうだった。



 夏凪は腕組みを解かないまま、一人掛けのソファに向かおうとした。いつもの定位置。テレビとじゅんの間。


 ——足が、一瞬だけ迷った。


「夏凪姉さま、今日はこちらへ」


 月詠の声だった。じゅんの隣——L字ソファの三人掛け、じゅんの右隣を空けている。月詠自身は角の席に移っていた。


 夏凪が月詠を見た。月詠は微笑んでいるだけだった。


 ——ただ、その視線が一瞬だけ、夏凪の目の下に触れた。ここ数週間、大学の課題と撮影が重なって削れていた睡眠の痕。月詠はそれを見て、すぐに目を戻した。


「……何を企んでるの」


「何も。今日の夏凪姉さまへの、敬意ですわ」


 氷華がじゅんの左隣から動かない。動く気配もない。左は氷華の聖域だった。


 陽花が「えー! 私も隣がいい!」と声を上げたが、美空が「今日は譲りなさい」と制した。陽花が口を尖らせる。


 夏凪は三秒だけ迷って、一人掛けから方向を変えた。


 じゅんの右隣に、座った。


 拳一つ分の隙間。いつもの一人掛けからでは届かなかった距離が、ここにはない。じゅんの体温が、左腕のすぐ向こうにあった。


 月詠がL字の角で湯呑に口をつけた。視線を落としたまま、誰にも聞こえない声で呟いた。


「……この手、使えますわね」


 深雪がみんなのお茶と菓子を運んできた。月詠のセッティングに、深雪の菓子皿が加わる。


 騒がしくて、温かい夕方が始まった。



          *



 夕食が終わった。


 姉妹たちがそれぞれの夜へ散っていく。深雪が食器を洗い、美空が明日の予定を確認し、陽花が風呂へ駆けていき、月詠が三階へ上がった。氷華は最後までリビングに残っていたが、深雪に「お風呂を先に」と促されて、渋々毛布ごと移動した。


 リビングに、二人が残った。


 夏凪はソファの右隣から動いていなかった。じゅんがコーヒーを淹れに立ち、戻ってきて、同じ席に座った。二つのカップ。一つはじゅんの。もう一つは——夏凪のために淹れた。


 今日の豆ではない。まだ開封していない。明日の朝まで待つ。深雪がそう言った。だから今夜のコーヒーは、昨日までの残りだった。


「……ベルに、お礼言っておかないと」


 夏凪がカップに口をつけながら、呟いた。


「珈琲豆?」


「……そうよ」


 沈黙が落ちた。不快な沈黙ではなかった。コーヒーの香りが、夜のリビングに静かに広がっている。窓の外は暗くなり始めていて、ガラスに室内の灯りが映っている。二人分のシルエットが、並んで浮かんでいた。


「夏凪」


「何」


「夏凪と帰ると、やっぱり安心するな」


 首筋に、熱が走った。


 耳ではない。頬でもない。首の横、髪に隠れるか隠れないかの境目を、熱が一筋、駆け抜けた。心臓から押し上げられたものが、そこで行き場を失ったように留まっている。


 カップを持つ手は動かなかった。声も出なかった。


 夏凪と帰ると。安心する。


 スタジオの帰りに迷った日も、じゅんは同じようなことを言った。「二人で帰るの、久しぶりだな」と。あの日も今日も、じゅんは同じ場所に指を置く。長女として居て当然なのか。それとも——夏凪という個人が、隣にいることを言っているのか。「安心」は家族の言葉だ。兄が妹に向ける、当たり前の感情。なのに、その当たり前が、今の夏凪には鋭すぎた。


「……長女ですから、当然でしょう」


 声が出た。いつもの声だった。


 けれど、いつもより小さかった。


 じゅんはそれ以上何も言わなかった。コーヒーを一口飲んで、窓の外に目をやった。庭の若葉が、街灯の光をかすかに受けて揺れている。


 夏凪はカップを両手で包んだ。首筋の熱が引かない。髪で隠せる場所でよかった、と思った。耳なら気づかれていた。


 ——当然。当然のはずなのに、なぜこんなに胸が鳴るの。


 リビングに、夜の静けさが降りた。姉妹たちの足音が、二階から微かに聞こえている。風呂場で陽花の声がする。深雪の食器洗いの音が、規則正しいリズムを刻んでいる。


 その全部が、遠かった。


 じゅんの隣にいる。左腕の、拳一つ分の向こうに、じゅんの温度がある。いつもの一人掛けでは届かなかった距離。今日の報酬。


 夏凪はコーヒーを一口飲んだ。苦い。温かい。明日の朝は、今日の豆で淹れることになる。夏凪が迷ってここに着き、ベルが代わりに買い、深雪が明日の朝に開封する。手順を違えたのに、珈琲豆は正しく食卓に届く。


 この家は、いつもそうだ。


 夏凪はカップをテーブルに置いた。


 もう少しだけ、この距離にいたかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ