第四十五話 ありがとうでいいんだね
玄関の扉が三回、開いた。
最初は夏凪だった。サングラスを髪の上に載せ、ヒールの音を立てて出ていく。ベルの車がすでに門の前にいた。靴を履きながら、一瞬だけ廊下の奥に目を向けた。
二番目は美空だった。鞄を制服の肩にかけ、靴を履き替えながら振り返った。「陽花、夏休みもあとわずかよ」。それだけ言って出ていった。
三番目は月詠だった。扇子を畳んだまま、摺り足で玄関に立った。「それでは、行ってまいりますわ」。
陽花はリビングの入口に立って、三つの背中を見送っていた。
三人分の靴音が消えた。玄関の鍵が閉まった。蝉の声だけが残った。
リビングに戻った。足音が少しだけ速くなった。
じゅんがソファでタブレットを見ていた。チャコールグレーのTシャツ。エアコンの風がカーテンの裾を揺らしている。夏休みの午前十時。
陽花は、じゅんの正面に立った。
両手をスカートの横で握った。握って、開いて、また握った。
「お兄ちゃん」
「ん」
「あのね……」
声が小さくなった。いつもの陽花ではなかった。
「……実は、宿題が」
「うん」
「ぜんぜん、終わってない」
俯いた。金色のツインテールが肩の前に垂れた。
「らんらんには、何回も言われてたんだけど……やるやるって言って……でも、らんらんには言えなくて、怒られるし……お兄ちゃんにも言えなくて……」
指先が白くなっていた。
じゅんはタブレットをテーブルに置いた。
「全部?」
「……ドリルは、ちょっとだけ」
「ちょっと」
「三ページ」
じゅんは笑った。怒らなかった。
「終わったら、遊びに行けるね」
陽花の顔が上がった。
「——ほんと?」
「ほんと。だから、今日やろうか」
「どこ行くの!?」
「終わってからのお楽しみ」
陽花の目が輝いた。全身が動いた。自室に向かって走り、積み上げたまま手をつけていないワークブックの束を両腕で抱えて戻ってきた。束の上に鉛筆ケースが載っている。バランスが危うい。
「今日ぜんぶやる!」
テーブルにワークブックが並んだ。数学、理科、英語、国語の問題集。そして——文庫本が一冊。表紙は淡い水色で、白い花が描かれている。夏休みの初めに深雪が「陽花に合いそうな本ですよ」と渡してくれたものだった。栞は十二ページに挟まったままだった。
*
ダイニングのテーブルで、数学から始めた。
じゅんが対面の椅子を引いて座った。タブレットを脇に置き、陽花のワークブックに目を向けた。
「ここ、符号」
「え? ……あ、ほんとだ!」
鉛筆が走る音がダイニングに響いた。陽花は取りかかると速い。解き始めれば勘は悪くない。
十一時。氷華が階段を降りてきた。
キャミソールに薄手のカーディガン。文庫本を一冊、手にしていた。ダイニングのテーブルを一瞥した。じゅんの隣の椅子を、音もなく引いた。
文庫本を開いた。
陽花が顔を上げた。
「ひょかたん、宿題?」
「終わってる」
「えっ、いつ?」
「初日」
陽花の口が開いたまま閉じなかった。三秒後、「すごい……」と呟いて、ドリルに戻った。
氷華はページを繰った。進まなかった。視線の端が、テーブルの方に向いている。
陽花が英語に移った。関係代名詞の問題で、勢いよく書いた手が止まった。首を傾げている。
氷華がじゅんを見てうなづき、椅子を立った。テーブルの反対側に回って、プリントを覗き込んだ。白い指が、三問目の"which"を指した。何も言わなかった。指を離して、じゅんの隣に戻った。
陽花が三問目を見直した。
「ひょかたん、今の、教えてくれたの?」
氷華は文庫本に目を落としたまま、何も言わなかった。
じゅんが少し笑った。
陽花が鉛筆を指の間で回しながら、じゅんの顔を見た。
「お兄ちゃん、お仕事は?」
「葛城さんたちがいるから大丈夫だよ」
陽花の手が止まった。鉛筆が回らなくなった。
「……ごめんね、お兄ちゃん」
声が小さかった。さっきまで元気よく消しゴムをかけていた手が、膝の上に降りていた。
「ありがとうの方が、うれしいかな」
陽花の唇が震えた。泣くほどではない。でも、笑顔にもならなかった。その間にある、名前のない表情が浮かんでいた。
「——ありがとう、お兄ちゃん」
じゅんが微笑んだ。陽花が鼻を一度すすって、鉛筆を握り直した。次の問題を解く字が、少しだけ丁寧になっていた。
正午が近づく頃、キッチンから深雪が現れた。エプロン姿。盆の上に冷やし素麺と天ぷらが載っている。
「お昼にしましょう」
ワークブックを端に寄せ、四人分の器が並んだ。深雪の冷やし素麺は、つゆの温度まで整えてあった。氷が一つずつ、等間隔に浮いている。
「頑張っていますね、陽花」
「うん! 問題集はもうすぐ終わるの。でも——」
陽花の視線が、テーブルの端の文庫本に向いた。栞は十二ページから動いていない。
「読書感想文が」
深雪が微笑んだ。穏やかだった。
「午後、お手伝いしましょうか。思ったことを話してくれたら、それを文章にするのは、お手伝いできますから」
「ゆきりん! ほんと!?」
「ええ。——あの本、陽花に読んでほしくて」
陽花が素麺をすする手を止めた。深雪の顔を見た。
「がんばって読む!」
深雪がじゅんのグラスに麦茶を注ぎ足した。氷華は黙って天ぷらをひとつ取った。
*
午後。
リビングに移った。
陽花がソファに座り、文庫本を開いた。十三ページから。じゅんがソファの反対側でタブレットを操作している。氷華はじゅんの隣に座り、文庫本を膝に載せていた。
深雪はダイニングに残り、自分の文庫本を読んでいた。
リビングは静かだった。エアコンの低い音と、ページを繰る音と、蝉の声。
陽花は丁寧に読んでいた。唇が微かに動いている。物語に入り込むと、ページを繰る手が止まることがあった。時おり首を傾け、ダイニングの方へ声を飛ばした。「ゆきりん、ここの意味——」。深雪がリビングに来て、同じ行を指で追いながら、言い換えて説明した。陽花が「あ、そういうことか!」と顔を上げる。深雪が微笑んで、ダイニングに戻る。
三時を過ぎた頃、陽花が文庫本を持ったまま、じゅんの隣に移動してきた。
「お兄ちゃんの隣、ここのほうが涼しいから」
じゅんは何も言わなかった。少しだけ体をずらした。
陽花がページを繰る速度が、少しずつ遅くなった。
本を持つ指の力が緩んだ。頭がじゅんの肩に傾いた。
金色のツインテールが、じゅんの腕に散った。文庫本が胸の上に伏せたまま残っている。
寝息が聞こえた。小さく、規則正しく。
じゅんはタブレットを膝の横に置いた。陽花の頭が肩から滑って、膝の上に落ちた。じゅんは、額にかかった前髪を、一本、横に流した。指先が金色の髪に触れて、離れた。
ソファの反対側で、氷華の文庫本が膝の上に伏せてあった。銀色の睫毛が閉じている。いつの間にか、同じように眠っていた。
深雪がダイニングから音を立てずに現れた。薄手のブランケットを三枚、腕に掛けていた。
最初に陽花にかけた。肩から腰まで、端を丁寧に折り込んだ。次に氷華にかけた。氷華の文庫本を、栞を挟んでからサイドテーブルに置いた。
深雪の手が止まった。
じゅんの手が、陽花の前髪を流したまま、膝の上に降りている。その指先を、深雪は見ていた。
一拍。
視線が長かった。微笑みは崩れなかった。
三枚目を、じゅんの膝にかけた。陽花の体を覆うブランケットの脇に、もう一枚。
深雪はエプロンの裾を整え、ダイニングに戻った。
*
陽花が目を覚ましたのは、四時を過ぎた頃だった。
最初に見えたのは、天井の木目だった。それから、じゅんの顔。
「——あ」
飛び起きた。膝の上から転がるように起き上がり、頬が赤くなった。
「ね、寝ちゃった……!」
「一時間くらい」
「うそ! 宿題! 読書感想文!」
テーブルに戻ろうとした陽花の手に、じゅんが文庫本を差し出した。開いたままだったページに、栞が挟んであった。
「続き、読めるよ」
陽花はソファに戻り、残りのページを読んだ。じゅんの隣で、今度は眠らなかった。時おり目を擦りながら、ページを繰った。
読み終えた。文庫本を胸に抱えて、ダイニングへ走った。
深雪が椅子で待っていた。原稿用紙が二枚、机に置いてあった。
「焦らなくていいですよ。思ったことを、そのまま話してみて」
陽花が話した。言葉は整っていなかった。でも、主人公が好きだったこと、途中で泣きそうになったこと、最後のページで笑ったことを、全部話した。深雪が頷きながら、陽花の言葉を拾い上げて、一緒に原稿用紙に並べていった。
じゅんがソファから立ち上がった。財布をポケットに入れ、玄関に向かった。ダイニングで並んで原稿用紙に向かう二つの背中を見て、何も言わずに出ていった。
五時十五分。
陽花がペンを置いた。
原稿用紙二枚の最後のマスを埋めて、両手を高く上げた。
「終わったーーーー! ゆきりん、ありがとう」
声がリビングまで響いた。ソファの端で氷華が薄く目を開けた。
玄関が開いた。じゅんが戻ってきた。手にコンビニの袋を提げている。
「お疲れさま、陽花」
「お兄ちゃん、終わったよ!ぜんぶ終わった!」
じゅんが袋からアイスクリームを出した。四つ。
「ご褒美」
陽花の顔がくしゃっと崩れた。嬉しさが全力で溢れていた。
「ひょかたんの分もある! ゆきりんも!」
氷華がソファから立ち上がり、ダイニングに来た。じゅんの隣の椅子に座り、差し出されたアイスを受け取った。深雪がスプーンを四本持ってきた。
四人で、アイスクリームを食べた。陽花がスプーンを振りながら話した。本の感想の続きを。深雪が相槌を打った。氷華は黙って食べていた。じゅんが窓の外を見た。蝉の声が、少しだけ弱くなっていた。
じゅんがタブレットを手に取り、立ち上がった。
「少し葛城さんに確認があるから、みんなはゆっくりしてて」
陽花の目が、見開かれた。
今日ずっと、ここにいてくれた。教えてくれた。膝で寝かせてくれた。アイスまで買ってきてくれた。そのあいだ、ずっと、お仕事があったのに。
朝のことを、もう一度思い出した。「ありがとうの方が、うれしいかな」。
「——お兄ちゃん。ありがとう、とってもとってもありがとう」
二度目の「ありがとう」は、朝より少しだけ、まっすぐだった。
じゅんが微笑んで、階段を上がっていった。
ソファの端で、氷華が薄い目を開けた。じゅんの背中を見て、
「……待ってる」
小さな声だった。じゅんの足音は、もう二階に届いていた。
*
玄関の扉が開いた。
月詠が帰ってきた。白いブラウスに藍色のスカート。扇子を手にしたまま、リビングを見渡した。
「ただいま戻りましたわ」
リビングには、陽花と氷華と深雪がいた。ダイニングのテーブルにはワークブックの束と原稿用紙が積まれている。達成の残り香が漂っていた。
月詠の視線が、ソファの空席を捉えた。
「兄さまは?」
「お部屋。お仕事だって」
「そうですの。——それにしても、陽花さん。今日は一日、家にいたようですけれど」
扇子が開いた。口元が隠れた。
「まさか、兄さまを一人占めですの?」
陽花は首を横に振った。
「三人占めだよ。ひょかたんと、ゆきりんと」
悪気はなかった。事実を報告しただけだった。
月詠の扇子が、止まった。
「……三人」
「うん! お兄ちゃんが宿題みてくれて、ひょかたんが英語教えてくれて、ゆきりんが読書感想文手伝ってくれたの。お昼は冷やし素麺で、午後はみんなでお昼寝して——」
「お昼寝」
「お兄ちゃんの膝で寝ちゃった。えへへ」
嬉しかったから、隠すことも思いつかなかった。
「……景乃さんのところに、行かなければよかったかしら」
声に本気が滲んでいた。
玄関が、もう一度開いた。
夏凪と美空が、ほぼ同時に帰ってきた。夏凪はサングラスを額に上げたまま。美空は鞄を肩にかけ直している。
「ただいま——」
リビングの空気が、妙だった。月詠が一人掛けの椅子に座り、扇子を膝の上に置いて天井を見ている。
「何かあったの?」
夏凪が聞いた。
月詠が振り返った。唇の端に、薄い笑みが残っていた。
「夏凪姉さま、美空姉さま。今日、陽花さんは一日じゅう兄さまのおそばにいらしたそうですわ。氷華姉さまと深雪姉さまもご一緒で。お膝でお昼寝まで」
夏凪の腕が組まれた。サングラスが額から少しずれた。
美空の眼鏡がずり落ちかけた。直す手が、途中で止まった。
「——陽花。宿題は」
美空の声が、低かった。
「終わったよ! 全部!」
陽花が両手を広げた。満面の笑みで。
美空の口が開いて、閉じた。終わっているなら、何も言えなかった。
夏凪は腕を組んだまま、窓の方に顔を向けた。
「……別に。私は仕事だったし」
氷華がソファの端から、薄い目で見ていた。
深雪がキッチンから顔を出した。
「皆さん、おかえりなさい。もう少しで夕飯の支度ができますよ」
微笑んでいた。いつもの、穏やかな微笑みだった。
*
じゅんが階段を降りてきたのは、六人が揃った直後だった。リビングの空気が妙に張り詰めていた。月詠が扇子を膝に置き、夏凪が腕を組み、美空が眼鏡を直している。陽花だけが笑っていた。
夕食の席は賑やかだった。
六姉妹が揃い、深雪の夏野菜の炊き合わせと味噌汁が並んだ。月詠が「明日こそは」と扇子の陰で呟き、夏凪が麦茶を注ぎながら何も言わず、美空が陽花の原稿用紙を手に取って「……ちゃんと書けてる」と小さく言った。氷華はじゅんの隣で、黙って味噌汁を飲んでいた。
じゅんが陽花を見た。
「明日、行くかい」
陽花が椅子の上で跳ねた。
「行く行く!」
月詠の箸が、静かに止まった。
「兄さま。明日はどちらへ?」
「これから決めるよ」
「お供しますわ。……今日のような不覚は、二度と」
夏凪が麦茶のグラスを置いた。
「……別に、私も暇だし」
美空が眼鏡を押し上げた。
「私も行きます。誰かが仕切らないと大変なことになりますから」
氷華は何も言わなかった。じゅんの袖に、指が一本触れていた。
深雪が微笑んだ。
「お弁当、作りましょうか」
陽花が全員の顔を見渡した。口が大きく開いた。
「みんなで行くの!? やったー!」
椅子から立ち上がりかけて、美空に「座りなさい」と引き戻された。
じゅんが笑った。
「行き先は陽花が決めていいよ。頑張ったからね」
テーブルの上で、七人分の麦茶の氷が溶けていた。
窓の外では、蝉が最後の力で鳴いていた。夏休みは、あと少しだけ残っている。




