第四十四話 知っていて、識らない
8月、夏休み。
月詠は扇子を手に、IT研究会の部屋に入った。
九条 景乃が端末に向かっていた。艶のある黒髪が内巻きに揃い、黒縁の眼鏡がモニターの光を映している。ブレザーのボタンは規律通りに留められ、小柄な体に高等部のストリング・プリズムタイが一ミリの緩みもなく結ばれていた。
窓際の椅子に、東雲 晶がいた。制服の上に白衣を羽織り、万年筆を握って手元のノートに何かを書いている。白衣の襟元から覗くタイが、景乃と同じペールバイオレットだった。
「月詠さん」
景乃が端末から顔を上げた。眼鏡の奥のバイオレットの瞳が、月詠を捉えた。
「お待たせしました、景乃さん」
月詠が扇子を胸元で閉じ、景乃の隣の椅子を引いた。スノーホワイトのケープの裾が、椅子の背もたれに静かに垂れた。
景乃は端末に視線を戻しかけて、止めた。
「いつか伺おうと思っていたのですが」
「どうされましたの」
「月詠さんは、いつもケープを纏っておられますね。深雪さんへの憧れでしょうか」
ケープは、聖カレイド学園の格式を象る装い。入学式、卒業式、式典——一年のうち数えるほどしか纏う機会はない。毎日、纏うのは、深雪や「白亜の聖域」の一部の生徒たちだけだった。
「ふふふ。おわかりかと思っていましたが」
「……演出、ですね」
景乃の声は平坦だった。
「大事ですわ、ミステリアスな印象」
月詠は扇子で口元を隠し、微笑んだ。
「聖域の信徒だと、一部では思われているかもしれません」
景乃は端末に視線を戻した。
「えっ」
月詠は、まさかそんなはずは……、と呟きながら、鞄からタブレットを取り出した。
*
三人の作業が始まった。
月影の定期業務——学園内情報の棚卸しだった。各ファンクラブの動向、校内の人物関係の更新、九月の行事予定との照合。月詠が構想し、景乃が動かし、晶が補完する。月詠が景乃を誘い、月影を築いてから、この作業は月に一度行われている。
どのファンクラブにも属さず、特技を持つ者、その者たちは月影と噂される。学園内では、幹部である御庭番の景乃と晶だけが知られており、異能集団の噂が、月影の輪郭だった。月影に所属することを誇りとする者たちが、学園の隅々に溶け込んでいる。表だって特技を見せず普通を装う者の方が多い。
この部屋に足を踏み入れるのは三人だけだった。
棚卸しの項目を一つ処理し終えた合間に、月詠が扇子を開いた。
「そういえば景乃さん。先日の件ですが」
「先日の件、とは」
「教えていただいたあのポーズ……密かに楽しんでいた、なんてことは」
景乃の指が端末の上で一拍止まった。
「多くの方に対しては、望まれる効果が生じると思われます。ただ、今回は……。ですので、効果は保証しかねると」
月詠が小さく笑った。扇子の向こうで、目が細くなった。
「あら。兄さまには成功率が低いと承知していたみたいですわ」
窓際で、晶の万年筆が一瞬だけ速く動いた。
月詠はそれ以上追わなかった。
作業に戻りかけた月詠が、ふと窓際に目を向けた。
「晶さん。最近、科学部の活動はどうですの」
晶の万年筆が止まった。顔を上げない。
「観測は順調です」
「そう。……観測の内容、教えていただいたことがありませんわね」
「まだ研究中ですので」
晶の声は静かだった。万年筆がノートの上に戻り、何事もなかったように動き始めた。月詠は、その横顔を一瞬だけ見つめて、次の項目に移った。
*
作業が進む中、景乃の端末に通信が入った。
テキストベースの短い報告。景乃の指が画面を滑り、処理していく。月詠は手元のタブレットを操作しながら、視界の端で景乃の画面を見た。
上級会員である隠密たちのコードネームが流れる。ミスト、エコー、ファントム、トレーサー、マジシャン、マルチ、スマイル。定期報告の画面が次々に切り替わった。最後に、コンダクター。一般会員である忍30人を束ねる者。
「有効に機能しています」
景乃が短く呟き、端末の通信画面を閉じた。日常の一場面だった。
月詠が扇子の先で、自分のタブレットを軽く叩いた。
「二学期になったら、初等部をのぞくのもよいですわね。車椅子を押しながら、スマイルを愛でたいですわ」
「……迷惑にならないとよいのですが」
月詠は扇子で口元を隠した。満更でもない顔だった。
棚卸しの次の項目に移る。月詠がタブレットの画面をスクロールし、
「景乃さん、先月の体育祭準備委員の——」
景乃の端末には、すでに該当のデータが開かれていた。
月詠は、再び口を開いた。
「……こちらを確認しますわ。九月の行事予定と、生徒会の——」
言い終える前に、景乃の指が画面を切り替えていた。九月の行事予定と生徒会の資料が、端末の上に並んでいる。
月詠の手の中で、扇子が静かに閉じた。
*
作業が一段落した。
晶が万年筆を置き、ノートを閉じた。
「景乃さん。次回の分析対象、追加しておきました」
「確認します」
短いやりとりだけだった。晶が白衣のポケットに万年筆を収め、「お先に」と立ち上がった。
月詠もケープの裾を整え、扇子を胸元に戻した。鞄に手を伸ばしかけて——足が止まった。
「景乃さん」
景乃が端末から顔を上げた。
「あなたの技術は……どこで身につけたのかしら」
声は穏やかだった。問い詰める調子はない。ただ、扇子を持つ手が、いつもより静かだった。
景乃の瞬きが、一つだけ遅れた。
「——晶さんや隠密の皆さんに比べると、私のIT技能など子供の遊びのようなものです。精進いたします」
声は平坦だった。表情も変わらない。
月詠は、一拍の間を置いた。扇子をゆっくり開いた。
「そう」
微笑んだ。扇子を口元に当て、何事もなかったように鞄を手に取った。
「では、また来週。——景乃さん、晶さん」
部屋を出た。廊下の窓から、夏の陽が低く差し込んでいる。月詠の摺り足が、磨かれた石材を静かに踏んでいった。
ケープの裾が、歩幅に合わせて揺れた。
——景乃さんは、わたくしが見出した方、ですのに。
「知っていて、識らないのでしょうか……」
小さく声が漏れた。足は止まらなかった。扇子は閉じたまま、胸元にあった。
月詠が去った部屋で、景乃は端末に視線を戻した。
画面の光が、黒縁の眼鏡に映っている。
指が、静かにキーを一つだけ叩いた。




