第四十三話 鍵のかかる場所
午後の光が、白の社交室に落ちていた。
七月の「雪華の集い」まで、あと一時間。
運営責任者の御影 紗雪がテーブルの上の茶碗の位置を確かめていた。艶やかな黒髪のボブカットをアップスタイルにしている。クリスタルグレーの瞳が、茶器の間隔を検分していく。茶道部副部長であり、高等部一年にして「白亜の聖域」の幹部である使徒に抜擢されている。制服のブレザーにシワ一つなかった。
「篠宮さん、原稿はどうですか」
白瀬 聖が声をかけた。
篠宮 透は顔を上げなかった。席の端でCS八月号の原稿に赤ペンを走らせている。高等部二年の使徒であり、新聞部副部長。チャコールグレーの無造作な髪。眼鏡の奥のインクブルーが、行間から離れない。袖は肘まで捲り上げたままだった。
「あと二本。二段落目のインデントが揃っていない」
テーブルの反対側で、白石 結愛が自分で編んだレースのテーブルクロスを広げていた。高等部一年、手芸部。上級会員の信徒になって一月の顔が、緊張と嬉しさを同時に浮かべている。
「小春ちゃん、こっちの端、少しずれてない?」
一ノ瀬 小春が隣で端を直した。
「結愛ちゃん、もう少し声……」
「あ、ごめんごめん」
結愛が声を落とした。長くは持たなかった。
*
深雪が、白の社交室に入った。
紗雪の背筋がわずかに伸びた。信徒たちが姿勢を正した。透のペンが止まった。
白いケープ。銀髪。クリムゾンの瞳に、穏やかな微笑み。
窓際で、使徒の柊木 詩乃が百合の最後の一輪を直していた。高等部三年、園芸部部長、通称「花姫」。アッシュローズの髪を琥珀の髪留めでまとめた横顔が、深雪を認めて手を止める。白いケープの裾に、白糸の薔薇が揺れた。
「深雪様、お越しいただきありがとうございます」
「ごきげんよう、詩乃さん。いつもきれいなお花ですね。聖域が安定して活動できているのも詩乃さんのおかげです」
詩乃の瞳が潤み、声が出ない。
「ごきげんよう、紗雪さん。お誘いいただき、ありがとうございます。素敵な設えですね」
「恐縮です、深雪様」
紗雪が席を案内した。一年生の手に、迷いがなかった。
聖が、深雪の斜め向かいに座っていた。
「深雪、今月も来てくれてありがとう」
「こちらこそ、聖」
使徒の結城 琴音が白灯の間から戻ってきた。高等部二年、弓道部副部長、通称「弓姫」。車椅子の音は静かだった。ミストブルーのミディアムヘアが柔らかく揺れ、ケープを深く羽織ったまま、テーブルについた。
「ごきげんよう、琴音さん。皆さんの心のケアに尽力される姿を見聞きするたび、琴音さんはやっぱり琴音さんねと、嬉しい気持ちになります」
「そのお言葉だけで」
琴音は、ふわりと微笑んだ。
信徒以上の三十余名が揃った。紗雪が茶を点て、琴音が場を穏やかに導いた。詩乃がテーブルの間を静かに回った。透はペンを置いていた。集いの席では、原稿は閉じる。暗黙の規律だった。
*
茶席が一巡して、立席の歓談に移った。
深雪が席を立った。信徒たちの間を、一人ひとりに声をかけながら歩いた。名前を呼び、近況を聞き、微笑みを返す。三十の顔に、深雪の微笑みは同じ温度で向けられていた。
窓際に、法王の西園寺 玲が立っていた。ティーカップを手に、白の社交室の全景を見渡している。
「玲さん。いつも聖を助けてくださって、ありがとうございます」
「あまり力になれていないわ」
玲の声は穏やかだった。穏やかなまま、続けた。
「聖域はとても優しい場所ね。——だから、皆が心の拠り所にしてしまう」
深雪の微笑みは変わらなかった。
「心配性ですわね、玲さん。ここはただの優しい場所ですよ。聖がいますから」
二人とも、笑顔のままだった。
深雪はまた歩き始めた。次の信徒に微笑みかけ、その次にも声をかけた。
部屋を半周ほどしたところで、結愛が一歩前に出た。手の中のティーカップが少し揺れている。
「深雪様、あの——」
声は明るかった。明るくて、迷いがなかった。
「CSのバックナンバーで読んだんです、深雪様のミステリ風のお話。主人公の方がすごく素敵で……探偵助手の方も、優しくて」
深雪は微笑んでいた。
「あの主人公って——じゅん先生に、似ていらっしゃいませんか?」
数歩離れたところで、透のティーカップを持つ指が止まった。
「助手の方も、どこか深雪様みたいで。あのお話の続き、読みたいです。——連載には、ならないんですか?」
白の社交室の空気が、ほんのわずかだけ変わった気がした。七月の午後だった。空調のせいかもしれなかった。
「ふふ——あの物語は、誰のことでもありませんよ」
深雪の声は穏やかだった。
「でも、読んでいただけたのは嬉しいです」
結愛の隣で、小春が袖を引いた。
「結愛ちゃん……」
「え? あ——でも本当に素敵なんだよ、小春ちゃんも読んだでしょ? じゅん先生の授業受けてると、あの主人公が浮かんできちゃって——」
「結愛ちゃん、声」
小春の二度目の声は、最初より小さかった。
深雪は微笑んでいた。体の横で、右手の指先がスカートの布を一瞬だけ、強く押さえた。
聖は、少し離れた場所に立っていた。ティーカップを一口傾けただけだった。
*
「雪華の集い」が終わった。
信徒たちが退室していく。結愛が小春に腕を引かれながら「深雪様、ありがとうございましたっ」と頭を下げた。紗雪が茶器を片付け始めた。詩乃が花瓶の水を替えに出た。
「篠宮さん、今回のCSもとても素晴らしいものでした。これからも頼りにしていますね」
透は原稿の束を抱え、深雪に深々と礼をして、出ていった。
白の社交室に、深雪と聖だけが残った。
「今日の集い、よいものでしたね、聖」
「ええ。新しい信徒の方——素直な子ね」
「帰りましょうか」
「ええ」
二人は白の社交室を出た。深雪の足音は、いつもと同じ間隔だった。
*
六花円舞曲の夜は、いつも通りだった。
深雪が作った夕食をみんなで食べた。食器を下げ、リビングを片付け、姉妹たちに「おやすみなさい」を言った。
部屋の扉を閉めた。
白い部屋。カサブランカの香り。本棚の整列。何も変わっていない。
深雪は机の前に座った。引き出しに手を伸ばした。
この部屋の中で、唯一、鍵のかかる場所だった。
鍵を回した。音は小さかった。
引き出しの中に、原稿が二つあった。薄い方は綴じてある——一度だけ発表した、あの短編。深雪はそれを避けて、厚い方に手を伸ばした。
取り出す指先は丁寧だった。料理を盛り付けるときと同じ手つき。たまご酒を椀に注ぐときと同じ慎重さ。
第一章は、氷華に見せたことがある。「深雪らしい」の一言だった。
その先のページには、深雪以外の指紋は残っていない。
最後のページを開いた。書きかけの一行が、途中で止まっている。
——兄さん。
「……小説の体をなしていませんね」
声に出ていた。
微笑んでいた。聖域で信徒たちに向ける微笑みでも、じゅんに向ける微笑みでもなかった。
深雪はペンを手に取った。書きかけの一行の続きに、ペン先を下ろした。
ペンの音だけが、白い部屋に、静かに落ちていた。




