第四十二話 ジュン、あのね
蝉が鳴いている。昨日と同じ声だった。
リビングの窓際に、小さな金魚鉢が置かれていた。赤い金魚が一匹、水草の間をゆっくりと泳いでいる。昨夜の花守神社から連れ帰った金魚だった。鉢はじゅんが昨夜のうちに用意したもので、金魚はもう新しい水に馴染んでいる。
氷華がソファの端から、金魚鉢を覗いていた。
「ジュン、おはよう」
声は小さかった。金魚にだけ向けた声だった。
食卓に味噌汁の湯気が立っている。深雪が最後の小鉢を並べ、美空が人数分の麦茶を注いだ。陽花が「いただきまーす!」と手を合わせ、箸が動き始める。
じゅんが金魚鉢にちらりと目をやった。
「元気そうだな、ジュンジュン」
氷華が小さく頷いた。
夏凪は箸を動かしていた。いつもの速さ、いつもの姿勢。視線は一度も金魚鉢に向かなかった。
朝食が終わり、じゅんが席を立った。
「事務所に行ってくる。——昨日は楽しかったね」
深雪が微笑んだ。美空が「お気をつけて」と頭を下げた。陽花が「お兄ちゃん、来年も行こうね!」と手を振った。月詠が扇子の柄に指を添えた。
玄関のドアが閉まった。
氷華が席を立ち、金魚鉢の前にしゃがんだ。指先を水面の近くまで伸ばした。
「ジュン、おいで」
食卓が、静まった。
陽花の箸が宙に浮いている。月詠の扇子が膝の上で止まった。深雪の微笑みが薄くなった。美空が眼鏡に手をかけた。
氷華は金魚だけを見ていた。
「あたしも!」
陽花が椅子から降りて、金魚鉢の横にしゃがんだ。
「ジュン、また遊ぼうね!」
「……ジュンジュンよ」
夏凪の声だった。食卓から、金魚鉢を見ずに。
深雪が静かに席を立ち、金魚鉢の前に膝をついた。
「ジュン、おはよう。——夕飯は何がいいかしら」
美空が眼鏡を直して、金魚鉢に歩み寄った。
「……ジュン、無理しないでね」
月詠が扇子の陰から、金魚鉢に目を向けた。
「……ジュン。わたくしのことも、ちゃんと見てくださいまし」
五人が金魚鉢を囲んでいた。
夏凪は食卓に残っていた。空のグラスを傾けた。中身はなかった。
*
「ねえねえ、昨日のことなんだけど——」
食器を片づけた後、陽花が切り出した。
「ひょかたん、花火のとき、お兄ちゃんの袖ずっと掴んでたよね!」
氷華はソファの端で金魚鉢を見ている。振り返らなかった。
「……見ておりましたわよ」
月詠が扇子を開いた。昨夜の白竹ではなく、いつものものに戻っている。
「花火の途中から、いつの間にか。悔しいですけれど、あの間合いは認めますわ」
「間合いじゃない。……最初から」
氷華が振り返らずに答えた。最初からではなかったことを、全員が覚えていた。
「私は、もう少しだけ——」
深雪が言いかけて、止めた。微笑んだ。いつもの微笑みだった。
「楽しかった、それで十分です」
「らんらん、転んでたよね! お兄ちゃんに支えてもらって!」
「あ、あれは下駄が——下駄が悪いんです!」
「りんご飴は無事だった?」
「……無事でした」
美空の声が小さくなった。
「陽花はね、射的のとき『すごいな』って言ってもらえたの! えへへ」
「後ろまで倒しましたものね」
「気合いだもん!」
「つくつくはどうだった? あのポーズ——」
月詠の扇子が顔を覆った。
「忘れてくださいまし」
「かわいい、って——」
「忘れてくださいまし」
耳の先だけが、扇子の端から覗いていた。赤い。
笑い声が上がった。花火の夜の余韻が、まだ食卓に残っている。全員が口にしている。自分のあのとき、あの瞬間を。
「夏凪姉さまは?」
月詠の声が、夏凪に向いた。
「昨日、何か心残りはございませんの?」
夏凪の指先が、耳に触れた。一瞬だった。
「別に。楽しかったわよ、普通に」
グラスをテーブルに置いて、立ち上がった。
「少し部屋にいるわ」
廊下に消えていく背中を、五人が見送った。
氷華が金魚鉢に指先を近づけた。金魚が寄ってきた。
「……ジュン、ごはん」
*
朝霧探偵事務所の窓から、蝉の声が聞こえている。
じゅんがデスクで書類を広げていた。二華がファイルを整え、アイが端末に向かっている。夏の日差しが、ブラインドの隙間から細く落ちていた。
二凛がお茶を淹れて、じゅんの机に置いた。湯呑みを渡す指先が、じゅんの指に少しだけ近かった。
「ありがとう」
じゅんが受け取った。二凛は小さく頷いて、自分のデスクに戻った。桜色の髪をまとめたハーフアップに、小さな桜のピンが一つだけ留まっている。昨夜の浴衣の髪飾りだった。
「じゅん様、昨日はお楽しみになれましたか」
アイが端末から目を上げた。
「ああ。——みんなも楽しそうでよかった」
二凛がデスクの書類に目を落とした。視線は文字を追っていなかった。
二華が一瞬だけ、二凛の桜のピンに目を向けた。
「じゅんさん、午後のスケジュールを確認いたします」
事務所の空気は、いつもどおりだった。
*
午後の廊下は静かだった。
夏凪は自分の部屋にいた。椅子の背に、畳んだ浴衣が掛けてある。深紅の生地が午後の光を吸って暗く沈んでいた。
帯の横に、小さな帯留めが置かれている。アンティークゴールドの紅花。花菱屋で浴衣を選んだとき、この帯留めだけは迷わなかった。
夏凪は帯留めから目を逸らした。右の手のひらに、視線が落ちた。
立ち上がった。廊下に出る。足音を殺して、角を曲がった。もう帰っているかもしれない。書斎の前を通れば、明かりでわかる。確認するだけだった。
角を一つ。もう一つ。
ドアの前に出た。
ドアが開いた。
「……なぎ姉、迷子?」
氷華が立っていた。自分の部屋のドアから、廊下を覗いている。首を傾げただけだった。不思議そうな目。それだけだった。
「違うわよ! たまたま通りかかっただけ!」
声が裏返った。
氷華は首を傾げたまま、何も言わなかった。
夏凪は踵を返した。早足で自分の部屋に戻り、ドアを閉めた。
*
夜。
リビングには誰もいなかった。金魚鉢の水面に、廊下の明かりが薄く映っている。
夏凪が入ってきた。
金魚鉢の前で、足を止めた。朝からずっと目を逸らしていた金魚が、水草の間をゆっくりと泳いでいる。
「……ジュン」
——隣に、いたかった。
「……次は、私が隣にいるから」
赤い金魚が、ゆらりと尾鰭を揺らした。
リビングは静かだった。蝉はもう鳴いていなかった。




