誕生日特別編5 選んだ場所の温度(9月1日 成瀬 正義)
始業式の日は、例年、慌ただしい。
成瀬 正義は放課後の職員室で、二学期の行事日程にペンを入れていた。少し長めの黒髪をセンターパートで分け、耳にかけて後ろへ流している。深紺のスーツのラペルには、銀色の小さな音叉のブローチ。細い目が、書類の行を追っていた。
生徒会の引き継ぎ事項、学園行事の外部調整、秩序の請負人の業務確認。音楽教諭の仕事はその半分もないが、生徒会顧問の仕事は夏休みの間も途切れていない。
書類の山は、午前中よりも減っていた。あと三枚。ペンの先が、次の項目へ移る。
ドアが開いた。
「成瀬先生」
美空が立っていた。ペールバイオレットのリボンが、窓からの光を受けている。両手に花束を抱えていた。
「お誕生日、おめでとうございます」
背筋の伸びた声だった。
成瀬は書類からペンを離し、穏やかに立ち上がった。花束を受け取る。白と淡い黄色の小花が、控えめに束ねられていた。
「私が自分で選びました」
美空の声は変わらなかった。けれど「自分で」の三文字だけが、わずかに違う場所から出ていた。
「いい花ですね。ありがとう、美空さん」
成瀬が微笑んだ。それ以上は言わなかった。美空は一礼して、職員室を出ていった。
入れ替わりに、プラチナシルバーのポニーテールが飛び込んできた。
「先生、お誕生日おめでとうございます」
西園寺 茜がタブレット端末の画面を差し出した。
「プレゼントは、経費精算フォーマット、バージョン2です。項目の色分けと計算式は設定済みですので、入力だけで済みます」
「茜さん、これは助かります」
成瀬が画面を覗き込んだ。実用的で、隙がない。
「先生の業務効率が上がれば、生徒会にも還元されますから」
成瀬は小さく苦笑した。「茜さんらしいですね」
茜がポニーテールを揺らして去った。
次の足音は、二つだった。
龍崎 椿が和紙に包んだ菓子を差し出した。姿勢の良さが、そのまま美しさになる所作だった。
「成瀬先生、今年もご指導よろしくお願いいたします」
菓子の上に、手紙が一通添えられている。達筆だった。椿が一歩引くと、その後ろから龍崎 剛が駆け込んだ。
「成瀬先生! 親父からの伝言です! おめでとうございます!」
直立不動。敬礼。声は廊下の端まで届いただろう。成瀬が「鉄心さんにもよろしく伝えてください」と穏やかに返すと、剛は「押忍!」と答えて椿の後を追った。
職員室が静かになった。
机の上に、花束と菓子と手紙が並んでいる。タブレットの画面には茜のフォーマットが残っていた。成瀬はそれらを一度だけ見渡し、書類に手を戻した。あと二枚。
ドアが勢いよく開いた。
「成瀬先生! 今日メシ行きましょう!」
朝日 陽太が、上半身だけ職員室に突っ込んでいた。明るい茶髪のショートヘアが汗で額に張りついている。夏休み中と変わらない熱量だった。
「朝日先生、職員室では声量を抑えてください」
「すみません!」
声量は変わらなかった。
「朝霧さんにも声かけたら、来てくれるって言ってました!」
「……ありがとうございます。ぜひ」
朝日が満面の笑みで「じゃあ六時に正門で!」と叫んで消えた。
残りの二枚に、ペンを走らせた。
*
商店街の路地を一本入った先に、小さな料理屋がある。
カウンター席に、三人が並んでいた。朝日が生ビールを掲げ、成瀬が烏龍茶のグラスを合わせた。
「成瀬先生、誕生日おめでとうございます!」
「ありがとうございます」
三つめのグラスが、静かに合わさった。
朝霧じゅんが、ビールを一口だけ傾けた。
「おめでとう、成瀬さん」
「朝霧さん。お忙しいのに」
「美空たちには、今夜は先生方と食事に行くと伝えています。たまにはね」
朝日が焼き鳥を頬張りながら、夏休みの報告を始めた。大輝の応援練習の進捗。初等部の新規参加者。剛が柔道の大会で準優勝した話。言葉が次から次へと溢れてくる。成瀬が相槌を打ち、じゅんが頷く。朝日だけがずっと喋っていた。
刺身の盛り合わせが運ばれてきた。
「この店、成瀬先生が見つけたんすよ」
朝日がじゅんに向かって説明した。
「赴任して最初の週に、この通りを歩いていたら」
「成瀬先生は散歩で店を見つける天才ですよね」
朝日がすでに五本目の焼き鳥に手を伸ばしている。成瀬が「朝日先生、醤油が」と穏やかに指摘した。
じゅんが出汁巻き卵を取り、一口食べた。
「如月さんにも声をかけたんだけど、夏凪の撮影の準備があるらしくて」
会話の隙間に、さらりと混ぜた。
「お忙しい方ですから」
成瀬が応じた。穏やかな微笑みのまま。朝日が「ベルさん、今度埋め合わせしましょう!」と続けて、話題は自然に流れた。
焼き茄子が出て、〆の茶漬けが出て、朝日がもう一杯だけと生ビールを追加した。成瀬は烏龍茶のまま、じゅんもビールを一杯で止めていた。
話が途切れた。
じゅんが箸を置いた。
「成瀬先生。いつも美空を、ありがとう」
短い言葉だった。けれど「いつも」の中に、一学期のすべてが畳まれていた。始業式の朝から演武祭の夜まで、成瀬が美空のそばで整えてきたものを知っている。
成瀬は微笑んだ。
「美空さんの力ですよ」
「二人ともカッコつけすぎですよ、ね、ボス!」
朝日が笑った。成瀬が小さく咳払いをしたが、今夜はそれ以上何も言わなかった。三人の声がカウンターの奥に跳ね返った。
*
店を出ると、九月の夜風はまだ温かかった。
朝日は駅の方へ手を振って走り去り、じゅんは商店街の角を曲がった。「みんなが待ってるからね」と笑って。
成瀬は、反対側の道を歩いていた。
街灯が等間隔に歩道を照らしている。蝉の声が遠くなり、秋の虫が、足元の草むらのどこかで鳴き始めていた。
美空の花束は、職員室のデスクに活けてある。椿の和菓子は、明日の茶請けにする。茜のフォーマットは、来週から使い始める。剛の敬礼は、鉄心さんに返事を書く。
今日もらったものを、一つずつ数えていた。
じゅんの言葉だけが、どこにも置けなかった。代わりに、さっきの声がまだ耳の奥に残っていた。
微笑んだまま、歩いていた。誰も見ていない夜道で、いつもと同じ細い目のまま。
——この場所を選んで、よかった。
足音は、静かだった。
夏と秋の境目の夜を、穏やかに歩いた。微笑みは、消えなかった。




