第四十話 楽しみにしててね
窓の向こうで、蝉が鳴いていた。夕暮れの風が網戸を揺らし、ダイニングに夏の匂いを運んでくる。
六花円舞曲の食卓には、深雪の冷やし鉢と焼き茄子が並んでいた。氷華が黙って素麺をすすり、陽花がおかわりを叫び、美空が「行儀よく」と窘める。月詠が麦茶を口に運び、夏凪が最後の茄子を静かに取った。
じゅんが箸を置いた。
「今年の夏祭りも、夕方からみんなで一緒に行こうか」
箸が止まった。六人分、ほぼ同時に。
夏凪の視線が窓に逃げた。深雪の微笑みが一段深くなった。氷華は動かない。美空の背筋が伸び、陽花の目が丸くなり、月詠が扇子を手に取った。
「浴衣——新しくしないと」
美空が口を開いた。実務的な声だった。けれど箸を持つ指が、わずかに白い。
「私も! 去年のサイズ合わないもん!」陽花が椅子ごと身を乗り出した。
「新調ですわね」月詠が扇子を開き、つぶやいた。
深雪が静かに頷いた。
氷華は何も言わなかった。麦茶を一口飲んで、箸を持ち直した。
夏凪が腕を組んだ。「……別に、去年ので」
「夏凪姉さん。去年のは袖口に染みがあったはずです」
美空の声は淡々としていた。夏凪が口を閉じた。
陽花が「じゃあ私、りんちゃん誘お!」と声を上げた。
じゅんが麦茶を注ぎ足しながら言った。
「楽しみだね」
何でもない相槌だった。視線は麦茶のボトルに向いていた。
翌日から、姉妹たちは次々と、商店街の呉服屋——花菱屋の暖簾をくぐることになる。じゅんが、兄さんが、お兄が、兄さんが、お兄ちゃんが、兄さまが、楽しみにしている、私の浴衣姿を。
*
最初に暖簾をくぐったのは、陽花だった。
「りんちゃん、こっちこっち!」
花菱屋の店先には、色とりどりの浴衣が吊るされていた。夏祭り前の書き入れ時で、店内には他の客もいる。棚には仕立て上がりの浴衣が色別に掛けられ、奥には常連向けの反物も並んでいた。
「あら、陽花ちゃん。——あら、二凛ちゃんも。今日は二人一緒?」
女将が奥から顔を出した。美琴 二凛に向ける笑顔には、日頃から顔を合わせる気安さがあった。
「はい! 二人で浴衣選びに来ました!」
陽花が二凛の腕を掴んだまま答えた。二凛が小さく会釈した。「……お世話になります」
陽花は浴衣の列を端から見ていった。手が伸びる。戻る。また伸びる。鮮やかな色に目を輝かせ、淡い柄の前で首を傾げ、渋い色合いに「う~ん」と唸る。
二凛は少し離れた棚の前にいた。指先が、一着の袖に触れた。柔らかな色だった。少しだけ、手が止まった。
「りんちゃん、それ当ててみなよ!」
陽花が振り返っていた。二凛が鏡の前に立ち、浴衣を胸の前に合わせる。柔らかな色が、桜色の髪に映えた。鏡の中の自分が、少しだけ知らない顔をしていた。
「かわいい! ——ねえ、りんちゃん、なんか気合入ってない?」
「……お祭りだから、ちゃんとしたものが要るかなって」
「ふーん」
陽花はそれ以上聞かなかった。自分の浴衣を選び直し、鮮やかな色を胸に当てた。しばらく、そのまま動かなかった。
「——お兄ちゃん、なんて言うかな」
独り言だった。けれど声は隠していなかった。
二凛は棚に視線を戻した。さっきの浴衣を、もう一度手に取った。
*
「たまにイメチェンするとマジで視線持ってくから」
花菱屋への道すがら、鳳凰寺 奏音が言った。指を一本立てて、亜麻柳 舞の顔の前に突きつけている。
「浴衣なんて絶対だって」
「……うるさい」
舞がだるそうに手を払った。氷華は二人の少し前を、黙って歩いていた。歩幅は変わらない。
暖簾をくぐると、女将が顔を上げた。
「氷華ちゃん、いらっしゃい。今日はお友達も一緒ね」
氷華が小さく会釈した。それだけで、もう棚に向かっていた。
三歩で足が止まった。
吊るされた浴衣の中に、目に留まった一着があった。手を伸ばし、袖に触れ、ハンガーごと引き出した。暖かみのある色だった。いつもの氷華の傍にある寒色とは、違う。
「……これがいい」
奏音が追いついたときには、氷華はもう浴衣を胸の前に当てていた。
「ひょかたん早っ! ——え、新路線?」
氷華は答えなかった。手にした浴衣の色を、じっと見ている。
「でもめっちゃ似合う……! ね、まいまい!」
「……うん」
氷華が決めた浴衣を女将に渡し、奏音が自分の分を選び始めた。「あたしはどれにしよっかな~」と棚の間を回っている。
舞は壁際に立っていた。ジト目のまま、視線が棚を流れていく。浴衣の裾に、淡い花柄を見つけた。
手が伸びかけて、引いた。
「まいまい、今かわいいの見てたでしょ」
奏音の声が飛んだ。舞は顔を逸らした。
氷華が横から手を伸ばした。その浴衣をハンガーごと引き出して、舞の手に押しつけた。
「……舞、それでいい」
舞は何も言わなかった。浴衣を持ったまま、鏡の方へ歩いた。淡い花柄が、黒髪の無造作なショートボブに映えた。
奏音がスマートフォンを持ち上げかけて、すぐに下ろした。撮らない。それが流儀だった。代わりに、氷華と舞が並んでいる光景を、目に焼きつけた。
*
西園寺 茜は三分で決めた。
「私これにしまーす」
花菱屋の店内で、アイスシルバーのポニーテールが揺れた。手にした浴衣を身体に合わせ、くるりと回る。「かわいくないですか?」と振り返る先に、龍崎 椿が微笑んでいた。
「似合っていますわ、茜さん。軽やかで」
椿はすでに自分の浴衣を選び終えていた。品のよい色合いの一着が、畳まれて女将の手元に預けられている。静かに一着を引き出し、袖に手を添えて頷く。それだけだった。
美空だけが、まだ三着目を手にしていた。
「会長、さっきのもよかったですよ?」
茜が、にこにこしながら言った。
「さっきのは少し派手です」
「じゅんさんの前で地味すぎても勿体なくないですか?」
美空の息が詰まった。茜が「あ」と口を押さえた。押さえたが、目は笑っていた。
「……兄さんは関係ありません。恥ずかしくないものを選ぶだけです」
「では、こちらなど、いかがでしょう」
椿が一着を差し出した。美空が鏡の前で合わせると、落ち着いた色合いが眼鏡の奥の真面目な顔によく馴染んだ。
「……これは」
「美空さんの品のよさが出ると思いますの」
茜が横から覗き込んだ。「椿さん、さすが。それ、じゅんさんも絶対——」
「茜さん」
美空の声が鋭くなった。茜は「はーい」と引いた。引いたが、距離は変わらなかった。
美空は鏡を見た。椿の選んだ浴衣は、確かに悪くなかった。兄さんに——いや、誰が見ても、恥ずかしくない一着だった。
「……これにします」
声は静かだった。鏡の中の自分から、目を逸らすように。
三人の包みを用意しながら、女将が小さく呟いた。
「……あら、もしかして」
三組目だった。
*
月詠が花菱屋に入ると、九条 景乃はすでに店の隅で端末を操作していた。
「お待たせしました、景乃さん」
「いえ。——月詠さん、データを準備しました」
景乃が端末の画面を月詠に向けた。じゅんの過去の発言の中から、色や装いに関する言及を抽出したリストが並んでいる。
「兄さまの言及傾向ですわね。……さすが景乃さん、仕事が早いですわ」
月詠はリストに目を通しながら、棚の間をゆっくり歩いた。端末のデータと、棚に掛けられた浴衣を、交互に見ている。
「ここに該当する色味の浴衣が三着あります。右から二番目の棚の上段と、中段の奥と——」
「景乃さん」
月詠が足を止めた。端末から目を上げて、一着の浴衣に手を伸ばした。データのリストにはない色だった。
月詠が浴衣を胸に合わせた。落ち着いた色合いが、姫カットの黒髪に沿って流れた。
「……これですわ」
「月詠さん、そちらはリストの該当範囲外です」
「ええ。データは参考にいたしました。けれど——似合いたいのは、わたくし自身ですもの」
景乃が一瞬だけ瞬きをした。何も言わなかった。
月詠は浴衣を胸に当てたまま、ふと声の調子を変えた。
「そういえば景乃さん。噂になっているそうですね。眼鏡を外すと美形だと」
「……誤解です」
「あら。わたくし、景乃さんから、あざとさの技術を学びたいと思っておりましたの。意中の方の心を掴めるような」
「月詠さん、それは私の専門外です」
「景乃さんならきっと、調査済みかと」
景乃は沈黙した。三秒ほど。それから、端末の画面を切り替えた。検索窓に何かを打ち込み、表示された結果を月詠に見せた。
月詠が画面を覗き込み、目を丸くした。
「……なるほど。これですわね」
景乃は端末を引き戻した。「……念のため申し上げますが、効果の保証はいたしかねます」
「ふふ。景乃さんのデータは、いつも信頼していますわ」
景乃は黙って、自分の浴衣を選びに棚へ向かった。効率的に一着を引き出し、迷うことなく手に取った。
月詠は景乃の背中を見送りながら、扇子で口元を隠した。笑みが漏れるのを、押さえきれなかった。
二人の包みを渡しながら、女将がまた小さく呟いた。
「……やっぱり、ねえ」
四組目だった。
*
白瀬 聖は先に決めた。
淡い色合いの浴衣を手に取り、身体に当てて、「これにしますね」と穏やかに笑った。迷いのない選び方だった。
深雪は棚の前をゆっくり歩いていた。指先が浴衣の袖に触れ、離れ、また別の一着に触れる。目線は穏やかだった。微笑みも、いつもと変わらない。
けれど、選び方が違った。
深雪の手が止まったのは三度。三度とも、手に取った浴衣を見つめ、数秒迷い、棚に戻した。四度目に手を伸ばした一着を、深雪は棚に戻さなかった。
そのまま、女将の方へ歩いた。
聖はその一着を見た。
色も、風合いも、深雪によく似合う。それは間違いない。けれど、似合うかどうかだけで選んでいたなら、一着目か二着目で決まっていたはずだった。
聖は何も言わなかった。微笑んだまま、深雪の隣に立った。
「素敵ね、深雪」
「ありがとう。聖のもよく似合っていますよ」
二人の浴衣が女将に渡された。包みを待つ間、聖はもう一度、深雪の選んだ浴衣を見た。視線を窓の外に移した。
女将が包みを渡しながら、二人の背中を見送った。五組目だった。暖簾の向こうに消えていく二つの影を見て、反物を棚に戻す手を止めた。
「……みんな、伝わるといいわね」
誰に言ったわけでもなかった。次の客が暖簾をくぐる音がして、女将は笑顔に戻った。
*
夏凪が花菱屋に入ったのは、夕方近くだった。
如月 ベル(きさらぎ べる)が後ろを歩いている。店内は昼間より客が少なく、西日が棚の浴衣を斜めに照らしていた。
「いらっしゃい、なぎちゃん」
女将の声に、夏凪が軽く会釈を返した。
「ベルは先に選んでいいわよ」
「じゃあ、お先に」
ベルは棚の端から静かに一着を引き出した。落ち着いた色を身体に当て、「これでいいかな」と笑った。
夏凪は棚の前に立った。腕を組み、浴衣を端から見ていく。指は伸びない。
黒系に目が行った。いつもの色。手を伸ばしかけて、止まった。
鏡に映る自分がいた。撮影のときと同じ顔だった。カメラの前に立つときの、完璧な夏凪。それは、今日選ぶべき顔ではなかった。
「夏凪」
ベルの声だった。
「誰のために選んでるの」
夏凪は答えなかった。腕を組んだまま、棚を見ている。
沈黙が長かった。
「……自分のためよ」
「じゃあ、自分が着たい色を選んだらいいんじゃない」
夏凪の腕がほどけた。
手が伸びた。黒ではなかった。いつもの鎧の色ではなかった。棚の中段にあった一着を引き出して、鏡の前で合わせた。鮮やかな色が、黒髪に映えた。
——見て、ほしい。
鏡から目を逸らした。けれど、手は浴衣を戻さなかった。
「……これにする」
声は小さかった。ベルは何も言わず、微笑んだ。
暖簾をくぐって二人が去った後、花菱屋の店内に西日だけが残った。
女将が畳んだ浴衣を棚に戻しながら、誰にともなく呟いた。
「……じゅんさんも、大変ねえ」
祭りの前に、花がいっせいに色づいていくのを見守るような、少し楽しげな声だった。
手を止めず、次の棚に移った。夏祭りまで、あと数日だった。
*
花菱屋の袋を手に、夏凪が六花円舞曲の玄関を開けた。
リビングに明かりがあった。キッチンから、深雪の包丁の音が聞こえた。夕食にはまだ少し早い時間だった。
夏凪が廊下を通り過ぎようとしたとき、月詠の声が聞こえた。
「夏凪姉さまも、花菱屋でしたの」
夏凪は足を止めなかった。袋を持ったまま、階段を上がっていく。
リビングからじゅんが顔を出した。
「おかえり。——もうすぐだな、祭り」
階段の途中で、夏凪の足が止まった。紙袋の持ち手を握る手に、少しだけ力が入った。
「ただいま。……染みが取れなかったから」
そのまま、二階に消えた。




