誕生日特別編4 特別な日じゃないわ(8月1日 夏凪)
ブラシが、黒髪を梳く音だけが聞こえていた。
夏凪の自室。黒とゴールドで統一されたドレッサーの前に、夏凪は座っている。照明はドレッサーのライトだけ。壁にかかった撮影用のワンピースが、暗がりの中で輪郭だけを浮かべていた。
毛先まで通す。もう一度、根元から。いつもの手入れだ。明日のためではない。——そういうことにしている。
ブラシの軌道が、いつもより丁寧だった。同じ場所を三度梳いて、四度目に手が止まりかけて、そのまま五度目を通した。
スマートフォンが光った。
ドレッサーの端に置いていた画面に、名前が浮かぶ。柚木 すず(ゆずき すず)。
「夏凪先輩、少し早いですが、お誕生日おめでとうございます! じゅん先生の写真、少し、まとまりました!」
メッセージの下に、画像がアルバムとなって並んでいた。
教壇に立つ横顔。実験器具を指先で支える手。初等部の教室で、児童の目線まで腰を落として何かを説明している後ろ姿。
夏凪の親指が、画面の上で止まった。かつて、夏凪が聖カレイド学園に通っていたころ、見ていた姿そのままだった。
写真の端々には、じゅんではない気配も映り込んでいるように見える。微笑み。銀髪。眼鏡。ツインテール。扇子。……たぶん、気のせいだろう。
スマートフォンを裏返して、ドレッサーの端に置いた。画面の光が消えた。
ブラシを持ち直す。鏡の中の自分と、目が合った。
「……別に。特別な日じゃないわ」
ブラシが黒髪を梳く音だけが、静かな部屋に戻った。
*
夏凪が階段を降りると、甘い香りが一階を満たしていた。
ダイニングに足を踏み入れると、じゅんがテーブルについていた。
「おめでとう、夏凪」
「……ありがと」
目を合わせなかった。じゅんの隣の椅子に、小さなカードが置かれている。「夏凪」と、美空の筆跡で書かれていた。
キッチンから、オーブンの低い唸りと、チョコレートの溶ける濃密な匂い。深雪がキッチンに立っていた。
「おはようございます、姉さん。——お誕生日おめでとうございます」
カウンターの奥に、見慣れない包装のチョコレートが積まれていた。ロゴの入った、品のいい化粧箱。夏凪はそれが誰から届いたものか、一目でわかった。
「——なぎっち! おたんじょうびおめでとーー!!」
背後から破裂音が弾けた。陽花がクラッカーを鳴らし、金色の紙吹雪がダイニングに舞った。夏凪の髪に、一片が引っかかった。
「……朝から」
「えへへ、タイミングばっちり!」
月詠が「夏凪姉さま、おめでとうございます」と微笑んだ。氷華が席から短く「おめでとう、なぎ姉」と言った。美空がダイニングの入口に立ち、「夏凪姉さん、おめでとうございます。——ベルさんが午後にいらっしゃいます」と告げた。
テーブルに、メッセージカードが三枚届いていた。二華の筆跡で丁寧な祝辞。アイの字で「統計上、八月一日は晴天率が高い日です」。二凛の丸い字で「素敵な一日になりますように」。
陽花がカードを覗き込み「あいにゃん、いつもデータ添えるよね」と笑った。
七人分の朝食が並ぶ。紙吹雪が一片、夏凪のコーヒーカップの縁に落ちた。
*
午後。リビングのドアが鳴った。
如月 ベル(きさらぎ べる)が、トートバッグを二つ提げて立っていた。
「夏凪さん、お誕生日おめでとうございます」
「……ありがと、ベル。入って」
ベルはまず、一つ目のトートバッグをテーブルに置いた。中から、封筒の束とタブレットを取り出す。
「黒耀の皆さんからです。お手紙が百二十通ほど。メッセージは八百件を超えています。桐谷さんが取りまとめてくれました。まだ届いているものもあるそうです」
封筒の束には、桐谷 沙耶の几帳面な字で付箋が貼られていた。夏凪は一通目を手に取った。差出人の名前の横に、小さなハートのシールが貼ってある。
「……まじめね、あの人たち。支えてもらっている分、期待に応えないと」
「皆さん、夏凪さんのことが大好きで、喜んで応援しているんです」
ベルが短く答えた。
タブレットを仕舞い、椅子に座り直した。マネージャーから友人の距離に戻る。それから、二つ目のトートバッグに手を伸ばした。
「夏凪、私からよ」
紙袋から、花束が現れた。白い小花を束ねた、控えめな一束。ベルガモットの残り香が微かに混じった。
続けて、薄い箱が一つ。ベルが両手で差し出した。
「開けてみて」
夏凪が箱を開けた。シルクのスカーフだった。黒地に、細いゴールドのラインが一本だけ走っている。
「……これ、どこの」
「内緒」
ベルが微笑んだ。
夏凪はスカーフの端を指で撫でた。絹の手触りに、指が止まった。
「ベル」
「なに」
「……ありがとう」
声が、少し柔らかかった。
*
午後三時。ダイニング。
チョコレートケーキが、テーブルの中央に置かれた。三層のダークチョコレートに、ビターガナッシュ。表面に薄いゴールドの粉が散らしてある。蝋燭の炎が、チョコレートの艶を揺らしていた。
「材料のチョコレートは、昨日、ベルさんが届けてくださったものです」
深雪が言った。
「おいしそう!ありがとー!」「全然違いますわね」
陽花と月詠が感嘆の声をあげた。
ベルは席の端で微笑んだだけだった。
蝋燭を吹き消すとき、陽花が「せーの!」と声を上げた。氷華がテーブルの端から黙って見ていた。月詠が切り分けの助言をし、美空が皿を配った。深雪がじゅんの皿にだけガナッシュを一層厚く盛った。
じゅんが、小さな紙袋をテーブルに置いた。
宝飾店のロゴが入っていた。
夏凪が紙袋から箱を取り出し、リボンを解いた。蓋を持ち上げた。
ゴールドのイヤーカフだった。細い曲線が一本、耳の縁に沿うデザイン。派手さはない。けれど、光の角度で表情が変わる繊細な仕上げだった。
夏凪の指が、箱の縁で止まった。中身に触れようとして、触れる直前で、動かなくなっていた。
数秒。
指先がイヤーカフに触れた。金属の冷たさが伝わった。
「これは……。……ありがと……」
箱の蓋を、静かに閉じた。
*
夜。
夏凪がリビングのドアに手をかけた。
足が止まった。
「……いつ、気づいたの」
振り返らなかった。ドアノブに手を置いたまま、背中のまま訊いた。
「夏凪、ページをめくる手が止まってた」
じゅんの声が、後ろから届いた。
——ありがとう、じゅん。
「……おやすみ」
ドアを開けて、廊下に出た。足音が階段を上がり、二階の奥へ消えた。
*
深夜。夏凪の部屋。
ドレッサーの前に座った。前夜と同じ場所。同じ鏡。
イヤーカフを、左耳につけた。
鏡を見ようとして、目を逸らした。
外した。もう一度つけた。指先が耳の縁をなぞり、位置を直す。
鏡を見た。逸らした。
三度目。
今度は、逸らさなかった。
ゴールドの細い線が、黒髪の隙間から覗いていた。派手ではない。けれど、光の加減で、ほんの少しだけ表情が変わる。
前夜、この鏡には何もなかった。
——来年も、こうして。
指先が、イヤーカフの縁からそっと離れた。ライトを消した。八月一日が、終わった。




