第三十九話 素敵な仲間たち
演武祭まで、あと二日。顧問の成瀬 正義からの確定連絡は、十七通になっていた。
榊原 真緒は予算ファイルを鞄に入れ、三会場の最終確認に出た。
体育館に入ると、空気が変わっていた。
観覧席の骨組みが左右に伸び、ステージの輪郭が床のテープで区切られている。大道具班として、「秩序の請負人」の活動員たちが資材を運び、照明のフレームを吊り上げている。
その中心に、統括の東条 朔也がいた。
ブレザーを脱ぎ、シャツの袖を前腕まで捲り上げている。引き締まった腕で照明の角度を直し、スチールグレーの瞳が体育館の空間を一度だけ横切った。アッシュブラックのツーブロックが照明の光を受けている。図面は持っていなかった。
「C列の仕切り、三センチ内側。照明リグ、上手の角度を二度下げて」
活動員が頷き、動く。質問は出ない。東条はもう次の指示に移っている。歩幅が一定で、足音がしなかった。
真緒は予算ファイルを開いた。体育館の資材欄を指で追う。パイプ椅子二百四十脚。仕切り板十八枚。照明リグ六基。音響機材一式。
目の前の体育館を見回した。
数週間前、美空の机にあった設営図面。あの紙の上の数字が、短期間でそのまま体育館の中に立ち上がっていた。
「……これが、東条の魔法……」
真緒は呟いた。
東条が振り返った。
「そう言われることもあります。しかし、魔法に見えるのは、十分な下準備があってのことです。榊原さんならおわかりでしょう」
真緒はファイルを抱え直した。東条の設営図面を予算に落とし込んだのは自分だ。数字の一つ一つに、準備の工程が刻まれている。全部知っている。
「はい、でも、ほかの誰にもできませんから、やっぱり魔法です」
東条の表情は変わらなかった。ただ、目元に一瞬、笑みが宿った。
「……作業に戻ります」
東条は踵を返した。足音のない歩行で、もう音響ケーブルの配線に向かっている。
武道場に向かった。
入口の手前で、声が聞こえた。武道連合会の会長にして、統括、五十嵐 薫の声だった。
「浮き足立っていますね」
既に設営が終わっている武道場の中では、各部の部員たちがリハーサルのために集まっていた。演武祭当日は、第一線の選手たちの直接指導を受けられる。メダリストを間近に見られる。その高揚が、動きに出ていた。
五十嵐は部員たちの前に立った。編み込んだ漆黒の髪を揺らすことなく、背筋を伸ばし、据わった重心で。
「私は、皆さんを買い被っていたのでしょうか。高名なゲストを迎えることとなり高揚する気持ちはわかります。しかし、お越しになる方々は、皆さんの演武を見にいらっしゃるのです。どれほどの方がいらしても、私たちが見せるものは変わりません」
部員たちの背筋が伸びた。
「皆さん、ご存じですよね。人格とともに鍛えてきた心と技と体。礼に始まり、礼に終わる。そして平常心。それが武道に携わる者の誇りです」
声を荒らげなかった。一度の言葉で、場の空気が変わった。真緒は武道場の入口に立ったまま、ファイルを確認する手を止めていた。
五十嵐の視線がこちらに触れ、軽く頷いた。真緒は会釈を返し、武道場を離れた。
校庭特設会場では、テントの設営が終わりかけていた。受付、導線案内、本部、来賓席、救護所……。作業している人数が、ファイルの記載よりさらに増えているように見える。龍崎 椿の姿は——テントの日陰で、優雅にお茶を飲んでいた。
*
生徒会室に戻ると、西園寺 茜が椅子の背にもたれていた。タブレット端末は閉じている。
ホワイトボードの前では、美空が最終確認をしていた。
「会長、まだ確認してるんですか? データ上は全項目クリアですけど」
「確認は会長の仕事です」
茜は肩をすくめた。美空の指が数字を追い続けている。
「会長は優秀ですから。でも優秀な人ほど、手を離せないんですよね」
美空の指が止まった。
「……茜さんが全部終わらせてくれているから、私は確認だけで済んでいるんです」
茜が一瞬だけ目を丸くした。
「……会長にそう言われると、やりづらいじゃないですか」
端末を開き直して、もう別の画面を見ている。
*
予算の更新分を持って、職員室に向かった。
成瀬はいつもの穏やかな微笑みでファイルを受け取った。ページを繰りながら、「うん、問題ないね」と頷く。
最後のページで、成瀬の指が止まった。海外のメダリストの日程欄。
「この選手は午後からの入りになる。午前中は別の公務があるから、スケジュールに余裕を持たせておいてくれると助かる」
真緒は頷いた。頷いてから、気づいた。
公務。音楽教諭の口から、その言葉が当然のように出た。
「……スケジュール、調整しておきます」
成瀬は「ありがとう」と言って、もう次の書類に目を移していた。
*
校門を出たところで、柚木 すず(ゆずき すず)がいた。
鞄を肩にかけて、スマートフォンを見ている。放送室の帰りらしい。真緒の姿を見つけて、手を上げた。
「あ、真緒先輩。お疲れさまです」
「柚木さん、ごきげんよう」
二人で並んで歩き始めた。夕方の風が、校舎の間を抜けていく。
「先輩、最近ずっと遅いですね。演武祭の準備ですか」
「うん。仕事が多くて」
すずが少し首を傾けた。
「ねえ、先輩。生徒会って、すごい?」
真緒は、少しだけ笑った。力のない笑い方だった。
「すごいなんてもんじゃないよ」
すずが目を丸くした。真緒は前を向いたまま続けた。
「私には全然追いつけない人たちばっかりで」
足音が二つ、並んで響いた。
「でも——居心地はいいんですよね」
すずは何も言わなかった。真緒の横顔を、一秒だけ見た。
真緒が振り返った。校舎が夕日に染まっている。三階の生徒会室の窓に、灯りがまだ点いていた。
真緒は前を向いた。鞄の紐を握り直して、歩き出した。




