表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
六花円舞曲(りっかワルツ) ~六つの花に慕われた兄の、季節をめぐる日常~  作者: 葛城 二華


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
40/52

第三十七話 今日はたまたまよ

 夜、リビングでは、姉妹たちが今日のプールの話をしていた。陽花が「私の飛び込み、すっごかったよね!」と胸を張り、美空が「周りを確認してからと言ったはずです」と返している。深雪がお茶を淹れ、氷華がソファの端でじゅんの隣に座っていた。月詠は扇子の陰で微笑んでいた。


 夏凪はキッチンカウンターにもたれて、コーヒーを飲んでいた。


 頃合いを見た。


「じゅん」


「ん?」


「来週の木曜、海辺のロケがあるんだけど。ベルが当日、先に帰る用事ができたの。撮影が終わったら迎えに来てくれない?」


 何でもないように言った。リビングの空気に紛れるように。


「わかった。場所は?」


「あとでメッセージ送る。あと——念のため、濡れてもいい格好だけ用意してきて」


「水着?」


「海辺だから」


 じゅんが頷いた。夏凪はコーヒーに口をつけた。計画通り。平日の午前の撮影。午後はじゅんと二人で海。妹たちは学校。完璧な——。


「海! いいなー!!」


 陽花の声が、リビングに響いた。


 プールの話をしていた全員が、こちらを見た。美空の目が細くなった。深雪の手がティーポットの上で止まった。月詠が扇子を半分だけ閉じた。氷華が、じゅんの袖に触れた。


 夏凪はコーヒーカップをカウンターに置いた。


「……残念だけど、学校のある日よ」


「うん! でも海いいなー!」


 陽花は純粋だった。純粋な声は、どこまでも届く。


 夏凪はリビングから目を逸らし、コーヒーの残りを飲み干した。



          *



 木曜日。午前十時。


 砂浜に、白いレフ板の光が広がっていた。


 夏凪は波打ち際に立っている。白いリネンのシャツに、デニム。裸足。海風が黒髪を攫い、カメラマンのシャッターが切られた。夏の日差しと砂の質感を生かした、ファッション誌のロケだった。


「OK、ラスト。右手を上げて——いいよ、そのまま」


 シャッターが三回鳴った。


「お疲れさまでした」


 夏凪がポーズを解いた。ベルが水のペットボトルを差し出し、夏凪が受け取った。


 スタッフが機材の撤収を始めた。レフ板が畳まれ、三脚が砂から抜かれていく。三十分もすれば、この浜辺にはロケの痕跡は何も残らない。


「では夏凪さん、お先に失礼いたします。お迎えが来るまでお気をつけて」


「ええ。ありがとう、ベル」


 如月 ベル(きさらぎ べる)がスタッフとともに駐車場へ向かった。



          *



 黒のクロスホルターネックビキニに、透け感のある黒のロングシャツ。腰にはゴールドの細いチェーンベルト。サングラスを頭の上に載せ、黒のストラップサンダルで砂浜に出た。鞄はハイブランドの黒トート。中にはじゅんの分の日焼け止めと、冷えたペットボトルが二本。


 スマートフォンを確認した。じゅんからのメッセージ。「あと十分くらいで着く」。


 夏凪は砂浜にビーチタオルを敷き、海を見た。平日の浜辺は人が少ない。波の音だけが聞こえる。


 十分後。砂浜の向こうの階段から、じゅんが降りてきた。Tシャツにハーフパンツ。手にはスポーツバッグ。


「お疲れ。早く終わったんだね」


「ええ。たまたま」


 たまたまではなかった。朝の段階で、今日の撮影は十時半前に終わることを知っていた。


「じゅんも着替えてきたら。向こうにシャワー室があるから」


 じゅんがスポーツバッグを持って歩き出した。夏凪は海風に髪をなぶらせながら、波の音を聞いていた。あと数分で、二人きりの午後が始まる。


「なぎっち~!」


 声は、階段の上から来た。


 夏凪が振り返った。


 陽花が手を振っていた。サンライトイエローとオレンジのタンキニに、ひまわりのヘアゴム。全身が太陽だった。その後ろに、美空がアイボリーとネイビーのマリン風ワンピースにきっちりしたパーカーを羽織り、日傘を手に立っていた。深雪はスノーホワイトのワンピース水着に白いレースのカバーアップ。赤い小花の髪飾りだけが色を持っていた。氷華がアイスブルーのセパレート水着にフード付きのラッシュガードを羽織ったまま、階段を降りている。月詠はダークネイビーとバイオレットのワンピース水着に、和柄の薄いシフォン羽織。防水仕様の小さな扇子を手に、砂浜に足を踏み出した。


 五人。全員、水着だった。


「……学校は?」


「ラーケーション、申請しました。学外活動扱いです」


 美空の声は、いつも通りだった。


 月詠が扇子を開いた。「詰めが甘いですわ、夏凪姉さま」


「……月詠に言われたくないんだけど」


 月詠の扇子が一瞬止まり、すぐに動き出した。氷華がフードの下から夏凪を見て、小さく口を開いた。


「……なぎ姉、海、ありがとう」


 陽花が砂浜を走り出した。「うわー! 海ひろーい!!」


 夏凪はサングラスを目元に下ろした。表情が、レンズの向こうに隠れた。



          *



 午後の砂浜は、六花円舞曲の延長になった。


 陽花が海に飛び込んだ。波に向かって全力で走り、膝まで浸かったところで「つめたーい!」と笑った。水しぶきが陽に照らされて光っている。


 

 深雪がビーチタオルの上に座り、日焼け止めのチューブを手に取った。


「兄さん、背中が焼けますよ」


 じゅんが深雪の前に座った。深雪の指がじゅんの肩に触れ、日焼け止めを伸ばしていく。丁寧だった。肩から首筋へ、指先が滑る速度がとてもゆっくりだった。


「私も塗ってほしい!」


 陽花が海から上がって駆け寄ろうとした。


 美空が腕を抱えた。「……急に涼しくなった?」


 海風が、一瞬だけ冷たくなっていた。深雪は微笑んでいるだけだった。数秒後、空気は元に戻った。



 氷華はじゅんの腕から離れなかった。波が近づくたびに、じゅんの背中に顔を押しつける。「……波、来る」。波は氷華の足首にも届いていないが、じゅんの腕を離す理由がなくなるなら、それでよかった。



 美空はビーチパラソルの下で、姉妹たちの水分補給と日焼け止めの塗り直しの時刻を管理していた。「陽花、水を飲みなさい。三十分経ちました」。「はーい!」



 月詠が動いた。


 日傘を手に、砂浜の角度と太陽の位置を確認した。じゅんが座っている場所に、ちょうど日傘の影が落ちるポジションを計算した。日陰を提供する名目で、隣に座る。


 位置を定め、日傘を差し、腰を下ろそうとした瞬間。


 海風が、突然強くなった。


 日傘が煽られた。月詠がバランスを崩す。じゅんの方に倒れかける——。


「つくつく危ない!」


 陽花が全力で走ってきた。月詠を受け止め、二人で砂の上に転がった。日傘が風に飛ばされ、三メートル先に落ちた。


 砂まみれの月詠が、海風に乱れた髪を押さえた。


「……風は、計算に入れていましたのに」


 陽花が砂の上で笑っている。「つくつく、大丈夫?」。月詠は答えず、羽織の砂を払った。



          *



 日が傾き始めた頃、じゅんが声をかけた。「そろそろ帰ろうか」


 陽花が「えー、もう?」と言い、美空が「日焼けの限界です」と返した。深雪が荷物をまとめ、氷華がじゅんの隣から最後まで動かなかった。月詠は日傘を回収し、何事もなかったように畳んだ。


 車に向かった。じゅんが運転席に座り、夏凪が助手席に座った。後部座席に五人が収まった。美空が窓際、陽花が真ん中、その隣に月詠。三列目に深雪と氷華。


 車が走り出した。


 十分もしないうちに、後部座席が静かになった。陽花が美空の肩にもたれて寝落ちした。美空が小さく溜息をつき、陽花の頭を支えた。三列目では氷華が目を閉じていた。深雪も文庫本を膝に伏せたまま、呼吸が穏やかになっている。月詠は窓の外を見ていたが、まぶたが何度か落ちかけていた。


 車内は、エンジンの低い音だけが響いていた。


 夏凪は助手席で前を見ていた。サングラスは膝の上に置いてある。一日が終わった。計画は崩れた。午後の二人きりは、六人と一人の午後になった。


 でも。


 陽花の笑い声は本物だった。氷華がじゅんの腕にしがみつく横顔は穏やかだった。深雪の日焼け止めの手つきは丁寧だった。月詠は砂まみれでも扇子を手放さなかった。美空は全員の水分補給を管理していた。


 悪い一日では、なかった。


 じゅんが、前を向いたまま、小さく言った。


「次は二人で来るのもいいな」


 夏凪の手が、膝の上で止まった。


 顔を窓に向けた。


 窓ガラスに、夏凪の顔が映っていた。唇が、何かの形を作ろうとして、止まった。


「……今日はたまたまよ」


 ——約束、だからね。


 窓の外を、夕焼けの海岸線が流れていった。後部座席の寝息が、静かに車内を満たしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ