第三十六話 足先だけ
夕食の席で、じゅんが言った。
「明日、プールの監視当番に入ることになったよ。朝日先生も一緒に」
箸が止まった。六つ、同時に。
美空が最初に口を開いた。「放課後の自由遊泳ですか」確認するような声だった。
「そう。放課後の時間帯だけ」
陽花が椅子から身を乗り出した。「泳ぎたい!」
「陽花、座りなさい」と美空が言い、陽花が座った。深雪が「明日は少し暑くなりそうですね」と微笑んだ。
氷華は、じゅんを見ていた、じっと。
月詠は箸を動かした。
「兄さまもお忙しいですのね」
夏凪が、食卓を見回した。
「……ふうん」
碗を置いた。音が、少しだけ硬かった。
食卓はいつもの空気に戻った。美空は翌朝の鞄に入れるものを頭の中で数えていた。深雪はお茶のペットボトルを何本買い足すか考えていた。陽花は「明日プール行こっかなー」と独り言を言った。
月詠は、何食わぬ顔で味噌汁を飲み干した。
*
三階の自室。月詠は扇子を机の上に置いた。
条件を並べた。屋内温水プール。監視員は複数。朝日先生が主任。
溺れた振り——。
溺れた生徒がいれば、近い方の監視員が動く。じゅんが来るとは限らない。仮にじゅんが来ても、監視員の業務として処理される。
月詠は扇子を手に取り、一度だけ開いて、閉じた。
棄却。
では、どうするか。
考えながら、椅子の背にもたれた。間接照明が和モダンの部屋を照らしている。扇子を閉じたまま、唇に当てた。
監視員は巡回する。巡回には、ルートがある。ルートには、足が止まる場所がある。
月詠の目が細くなった。
*
翌日の放課後。
屋内温水プールの入口に、「秩序の請負人」の参与一名と活動員五名が立っていた。
「今日は、美空会長自ら巡回されます」
名簿を手に、入退場の記録をつけている。美空の指示ではない。美空が来ると聞けば、そうなる。
プールサイドでは、じゅんと朝日 陽太が並んでいた。白いTシャツに短パン。首に笛を下げている。
「朝霧先生、俺が深い方を見ますから。浅い方、お願いします」
「わかった」
じゅんが監視椅子に腰を下ろした。予備のタオルを椅子の脚にかけ、水面を見渡した。
生徒が増え始めた。
深雪が現れた。学園指定の水着——白地にラベンダーパープルのラインが入ったワンピース型。泳ぐ気配はなかった。プールサイドのベンチに腰を下ろし、文庫本を開いた。手にはペットボトルの冷たいお茶が二本。一本をじゅんの監視椅子の足元に、黙って置いた。
気づけば、深雪の周囲に「白亜の聖域」の巡礼者たちが集まり始めていた。白とラベンダーの水着が、深雪を中心に静かに佇んでいる。深雪が立ち上がると、少し遅れて、全員が静かに立ち上がる。
美空は笛を首から下げて、じゅんのいる側を巡回していた。
「兄さん、今日は、私も巡回日でした」
活動員たちが反対側を巡回している。
陽花がプールに飛び込んだ。
「つめたーい! 気持ちいい!」
水しぶきが三メートル先まで飛んだ。プールサイドから、「陽だまりの里」の陽民たちの声が上がった。「陽花ちゃん、はやーい!」。陽花が水面から手を振った。
氷華はプールサイドに来たものの、水には入らなかった。
「……濡れたくない」
一言だけ。じゅんの監視椅子の足元に座り込み、膝を抱えた。じゅんの巡回中も、氷華はそこで待っていた。
プールサイドの離れた位置で、「尊みの守り手」の観測者たちが、壁にもたれたり、座ったりしている。視線は氷華の方を向いている。近づく気配はなかった。
柚木 すず(ゆずき すず)が、制服のまま、プールの入口に現れた。B5リングノートを片手に、左腕には放送委員の腕章。
「わー、ほんとに五人揃ってる……」
三色ボールペンを持ち直した。
*
月詠は、更衣室を出てすぐのベンチに座っていた。学園指定の水着の上に、自宅から持参したパレオを巻いた姿。扇子は持っていない。ロッカーに置いてきた。
じゅんの動きを見ていた。
監視椅子から立ち、プールの右側を歩く。深い方の端で足を止め、水面を確認する。浅い方へ戻り、左側を回る。プールの角——全体を見渡せる角——で足が止まる。二秒。それから監視椅子に戻る。
三周、見た。同じだった。
月詠は立ち上がった。
プールの角に向かった。誰もいないベンチの端ではなく、プールの縁に腰を下ろした。パレオの裾をよけて、足先だけを水に浸した。冷たかった。つま先がゆらゆらと揺れる。
道具はない。扇子もお茶も本もない。ただ、座っている。
じゅんが巡回を始めた。右側を歩く。深い方の端で止まる。浅い方へ戻る。
角に来た。
月詠がいる。
「月詠、泳がないのかい」
「見ているだけですわ」
じゅんが水面に目をやった。角からはプール全体が見える。
五秒ほど立ち止まって、じゅんは巡回に戻った。
月詠は動かなかった。足先が水の中で揺れている。
じゅんが監視椅子に戻った。お茶のペットボトルを、一口飲んだ。氷華が足元にいる。美空が巡回しながら通り過ぎた。
もう一巡。
じゅんが角に来た。月詠がまだいる。
プールの反対側で、陽花がプールの縁に立ち上がった。
「いっくよー!」
水柱が上がった。陽花の全力の飛び込みだった。水しぶきが、角まで届いた。
月詠の肩が、髪が、パレオが濡れた。
じゅんが腰にかけていた予備のタオルを取り、髪をそっと拭いた。
「大丈夫か」
「……ええ」
月詠がタオルを受け取った。じゅんはプールの方を向き、陽花に声をかけた。「陽花、飛び込みは周りを確認してからな」。「はーい!」と明るい声が返ってきた。
じゅんが次の巡回に向かった。月詠はタオルを持ったまま、動かなかった。
一周。
じゅんが角に戻ってきた。
月詠が、まだそこにいた。
「月詠」
顔を上げた。
「待っててくれて、ありがとう」
水の中の足先が、止まった。
さっきまでゆらゆらと揺れていたつま先が、じゅんの声を聞いた瞬間に動かなくなった。
「……いいえ、わたくしは」
言葉が続かなかった。
——ええ、待っていますわ。
*
すずはプールサイドの隅で、スマートフォンを構えていた。
深雪がじゅんと談笑する瞬間。シャッター音。氷華がじゅんの監視椅子の下でくつろいでいる姿。シャッター音。美空がじゅんに声を掛けられあわてている場面。シャッター音。陽花が水面からじゅんに向かって笑顔で手を振っている瞬間。シャッター音。月詠がじゅんからタオルで拭いてもらい、はにかむ場面。シャッター音。
五枚。送信した。
大学の構内。
夏凪のスマートフォンが光った。通知は、五件だった。
一枚ずつ、開いた。指がスクロールする。画面の明るさが変わるたびに、夏凪の目が細くなった。
どの写真にも、じゅんが映っていた。妹たちがじゅんの近くを満喫していた。
夏凪は画面を閉じた。予定表を開いた。指がスクロールする速度が、少しだけ上がった。
画面に、青い水面が映った。屋内温水プールではなかった。




