第三十五話 会長として
放課後の生徒会室に、据わった重心が、もう一つあった。
五十嵐 薫。高等部三年。合気道部部長にして、武道連合会の会長。秩序の請負人の幹部である統括の一人。
切れ長のダークネイビーの瞳がレイアウト図の上で止まっている。
「美空さん、各会場のスケジュール案です。剣道部、柔道部、弓道部ほか各部の調整は終わっています」
聖カレイド学園演武祭。武道系部活のPRの場として続く学園の伝統行事で、生徒会と武道連合会の共催。
美空にとって三度目であり、会長に就任して初めての演武祭だった。
「ありがとうございます、五十嵐先輩。確認します」
美空がスケジュール案を受け取った。隣の椅子では西園寺 茜がタブレット端末に指を走らせ、団体ごとの参加者データを更新している。窓際で龍崎 椿が電話を終え、静かに息をついた。
「美空さん、テント設置の人員は確保しました。昨年の一・五倍です」
「椿さん、またお声がけを」
「今年はこちらから動かなくても、先に名乗り出てくださる方がおりましたので」
椿は穏やかに笑った。
今年の演武祭は体育館、武道場、校庭特設会場の三会場で行う。その設営と音響照明演出を一手に担っているのが東条 朔也。高等部二年、演劇部の舞台演出責任者で、統括。美空の机には、東条が提出した三会場分の図面と関連資料が、既にある。
生徒会顧問であり、統括でもある成瀬 正義は不在だった。茜が「成瀬先生は外部の打ち合わせに出ていらっしゃいます」と告げたのは、会議の冒頭だった。
レイアウト図を確認しながら、五十嵐が付け加えた。
「昨年、成瀬先生が顧問に就任され、演武祭が大きく変わりました。今回はさらに次元が違うように感じます。国内の第一線の皆さんに加え、師範クラスの方、一部海外のメダリストまで、特別ゲストとしてご参加いただけると」
淡々とした声だった。
五十嵐がレイアウト図の一点を指で示した。
「観覧席の導線ですが、今年はゲストの増加分を考慮して、保護者席と来賓席を分ける形が望ましいかと」
「同感です。茜さん、昨年の観覧者数は」
「千二百十二名。今年のゲスト増を加味すると、千八百名を超える可能性があります」
茜の返答に間がなかった。美空はホワイトボードに立ち、導線の変更案を書き込んだ。五十嵐が補足し、茜が数字を足し、椿が人員配置の調整を口にする。四人の声が交互に重なっていく。
「東条さんには三会場のレイアウト変更を伝えておきます。観覧席の仕切りは、大道具班を回してもらえれば」
「美空さん、手配は私が。東条さんには直接お伝えしておきます」
椿が立ち上がった。
その時、ドアが開いた。榊原 真緒が分厚い予算ファイルを抱えて入ってきた。ファイルの下に資料の束を重ねている。入口で足を取られ、体が前に傾いた。
椿の動きには、音がなかった。
立ち上がったばかりの姿勢から一歩、真緒の腕を支え、もう片手でファイルの底を押さえた。資料の束は、一枚も落ちなかった。
「大丈夫ですか、真緒さん」
「す、すみません椿さん……ありがとうございます」
椿は微笑んで手を離した。
五十嵐の目が、椿の足元から肩までを一度だけ辿った。視線は、すぐに戻った。
真緒が予算ファイルを美空の机に置いた。
「会長、演武祭の予算です。現時点では、昨年の枠内で収まっています」
付箋は黄色と青だけで、赤は一枚もなかった。ゲストの決定が進んでいるはずなのに、超過がない。
五十嵐が席を立った。
「美空さん、武道連合会側の残件は私が持ち帰ります。何かあればご連絡ください」
「ありがとうございます、五十嵐先輩」
五十嵐が立礼し、生徒会室を出ていった。茜がタブレット端末を閉じ、「あとで観覧席の修正データを送りますね」と言い残して出ていった。
美空はページを繰った。ゲストの規模は上がっている。なのに支出が変わらない。
美空はファイルを閉じた。
*
生徒会室には、美空と真緒だけが残っていた。
真緒が予算の細目を一つ確認し、席を立った。
「お先に失礼します、会長。何かあれば連絡ください」
「ありがとう、真緒さん。お疲れさま」
ドアが閉まった。
美空は一人になった。
支えられている、と思った。全部が動いている。自分がここに座っていても、座っていなくても。
あの日も、そうだった。机の上に、名前のないメモが一枚。処理済みの山の一番上に、あのクリアファイルがまだある。
「ありがとう」は、言えていない。
右の山には、演武祭以外の書類がまだ積まれている。各部活の活動報告、備品管理の更新、来週の委員会の議題案。どれも美空が目を通さなければ動かない。
ペンを取った。書類の一枚目にチェックを入れ、付箋を貼り、次の一枚に移る。手は止めない。
窓の外は静かだった。設営はまだ先だ。図面と工程表だけが、三会場の完成形を知っている。
次の書類に手を伸ばした。
*
ドアがノックされたのは、十七時を過ぎた頃だった。
「美空、いるかい」
じゅんの声だった。
「兄さん。——どうぞ」
ドアが開いた。じゅんが紙袋を片手に入ってきた。中身はペットボトルのお茶と、透明な袋に入った焼き菓子。
「演武祭の案内が届いたから、ついでに。差し入れだよ」
「ありがとうございます。……わざわざ」
じゅんは向かいの椅子に腰を下ろした。生徒会室を一度だけ見回した。机の上の書類の山、ホワイトボードに貼られた工程表、三会場のレイアウト図。
「大変そうだね」
「段取りは整っています」
「茜さんや椿さんは」
「それぞれの持ち場に。今日、五十嵐先輩にも来ていただきました。武道連合会側の調整は終わっています」
美空の声は、会長の声だった。
じゅんは頷いた。紙袋からペットボトルを一本取り出し、美空の机の端に置いた。
「成瀬先生も外で動いてるんだろう。東条くんが設営を仕切ってくれてるし、真緒さんが予算を見てくれてる」
美空は答えなかった。
「美空の周りには、素敵な仲間たちがいるな」
美空の肩が、少し下がった。美空はそれに気づいて、すぐに戻した。
——そちらを見るんですね。
口を開いた。会長の声で返すつもりだった。
「は——」
一音が裏返った。続きが出なかった。唇が閉じた。
じゅんは、工程表に目を向けた。
「みんなが迷わず動けるのは、美空が会長だからだよ」
椅子から立ち上がり、紙袋を机の上に残して、ドアに向かった。
「演武祭、楽しみにしてる」
ドアが閉まった。足音が廊下に消えた。
*
ペンを取り直した。
書類の三枚目にチェックを入れ、付箋を貼った。手順は変わらない。
スマートフォンが震えた。成瀬からのメールだった。
件名:演武祭ゲスト確定(一名)。本文には選手名と所属、来校日程が事務的に記されていた。美空は内容を確認し、予算への影響がないことを確かめ、茜に転送した。いつもの手順だった。
ペットボトルのお茶は、まだ開けていなかった。焼き菓子の袋に、手は伸びていなかった。
ただ、さっきまで上がっていた肩の位置が、少しだけ低くなっていた。




